1.トークンフィールドと広瀬のデジタルデバイド
夕暮が迫る街、買い物客で混み合う大通りを少年と少女が歩いている。少し速足だ。
2人とも小学生ぐらいだろうか、少女の背中で明るい小豆色のランドセルが揺れている。
西暦1977年も残すところあと数日となったこの日、年の瀬の街はいつもより人出が多く感じる。
「恭ちゃん早いよ! もっとゆっくり歩いてよ」
自分の庭のように歩き慣れた道をスタスタと進んで行ってしまう少年に、取り残されそうになった少女が抗議の声を上げる。
電気街と呼ばれているこの街では、沿道の商店の多くが商品の箱を歩道にはみ出して陳列している。
下を気にしながらよろよろと歩く少女と、慣れた感じでスルスル進む少年との距離はなかか縮まらない。
道路に散らばるタバコの吸い殻、呼び込みをする店員たちの大声、どこからか漂ってくる鉄が焼けたような臭い、なにもかも少女の嫌いなものばかりだ。
少女のストレスはどんどん溜まっていく。
中央通り沿いの大型電気店の前を通り過ぎるとき、陳列棚に展示された黒い短波ラジオが目に留まった。
確か、先日、少年が母親からクリスマスプレゼントに買ってもらったのと同じ機種だ。
周波数表示がLEDだとか、一発選局だの、しつこく自慢をされて辟易したものだった。
「お嬢ちゃん、ラジオを探してるのぉ?」
商品をちらっとでも見てしまったのがいけなかったのだろうか、近くで客引きをしていた男が気色の悪い愛想笑いを浮かべながら近寄ってきた。
「BCLラジオならうちにもあるから見においでよぉ」
深緑色の薄汚れた作業着を着た男の鳥肌が立つような猫なで声に少女は慌てて首を振って足を速める。
それでも客引きの声は追いすがってきた。
「もしかしてラジコンかなぁ? 予算はぁ? ラジコンはねぇ、うちが一番安いんだよぉ。すぐそこだから寄っていきなよぉ」
少女は助けを求めようと前を行く少年を見るが、彼女の薄情なナイト様は遥か前方を黙々と進み、振り返る素振りもない。
悲しくなった少女は、呼び込みの男を振り切って走り出した。
「恭ちゃん! 恭ちゃん!」
懸命に少年を追いかけ、手を伸ばした。
目指す背中は目の前なのになかなか手が届かない。
もう少し、もう少し……。
-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-
”ピーッ!ピーッ!”
耳障りな電子音で広瀬は目が覚めた。
学校の自分の席。授業が終わり、履修データをタブレット端末にダウンロードしていたのだが、あまりの遅さに居眠りしてしまったらしい。
何か夢を見ていた気もする。
”ピーッ! ピーッ!”
(学籍番号M23-0083・広瀬次郎:履修記録ファイルを参照できませんでした)
「なんだよ、またかよ!」
一日の長い授業が終わり、解放感でざわつく教室で、彼はひとり小さく毒づいた。
手に持ったタブレットの表示は今日一日、彼がこなした課題が学園のサーバからダウンロードできないことを示している。
これでは家で復習ができないので困るし、何よりも午後の授業3時間分の努力が消えてなくなるなんて悲劇はとても容認できるものではない。
以前なら頭を抱えて喚き散らすところだが、そうしないのは、結構毎度のことなので少し慣れてきてしまったところもある。
床に置いた学生鞄から一本の白いケーブルを取り出し、机の側面にあるCOM2ポートと自分のタブレット端末下部のコネクタを接続する。
8インチの小さな画面に整列したアイコンを慣れた手つきでタッチしてコンソールを起動すると、現れた黒いウインドウにファイル検索のコマンドを入力した。
広瀬のタブレット端末から指令を受け取ったスマートデスク角のアクセスランプがチカチカと激しく点滅を開始する。
彼が通う私立淀橋学園高等部は新宿区にある所謂お金持ち学校だ。
都心にあるにもかかわらず、その敷地面積は中等部・高等部合わせて100平方メートルを越えるマンモス校だ。
この種の学校は裕福な家庭の子女が入学し、贅沢な設備を誇るのが常だが、この学園もご多分に漏れず、潤沢な寄付金を湯水のごとく設備につぎ込み、都内有数のIT設備を誇っていた。
広瀬の家は父親が音楽家でそこそこ裕福だが、音大付属高をドロップアウトした自分が、こんな贅沢学校に通わせてもらっていることに多少の心苦しさを感じていた。
ただし園内の落ち着いた雰囲気や、都会の学生特有の浅い人間関係はとても気に入っていて、とても居心地が良かった。
最新設備は教室の中だけではなく学園の隅々に及んでいて、学内の隅々にトークンフィールド・ネットワーク用のデータステーションが配置され、教室の中は勿論、体育館の裏やトイレの中でさえ高速な無線ネットワーク通信を死角なく利用できる。
トークンフィールド・ネットワークは、東北に本社を置くコマンドール・コンピュータ社が開発をし、瞬く間に標準化されたネットワーク規格でIEEE802.5g規格対応の無線LANトランシーバからパスと呼ばれる電波信号を周囲の空間に大量に放出し、パスが充満した空間をトークンという制御信号が飛び回る。
各端末から発信されるコマンドが走り回るトークンの中から一番近くのものをタイミングよく捕まえると、そのトークンに乗っかり確実に目的の機器に運ばれるというシステムだ。
トークンはまるでイワシの魚群のように整然と、互いに接触することなく飛びまわり、一つのトークンが1パケットのデータを責任もって運ぶ。
比較的データ損失やコリジョンなどが起こりにくく、便利なので、同じくコマンドール社が開発、発売している『ヒューマノイドOS』と共に今や国際的なスタンダードとなりつつある。
ここの学生はその高速ネットワークを使って学内各サーバからいつでも自由に必要な情報を引き出せる……はずなのだが。
広瀬はヒューマノイド端末を持っていないので、この恩恵は受けられない。
いつも型遅れの端末とマイナーなOSを駆使してトラブルを切り抜けるのだ。
「あれっ、これでも出て来ないのか?!
いつもは数秒検索をかけただけで目的のファイルがヒットするのだが、今日は検索タイムの秒数が3桁になっても、時計のアニメーションがくるくる動くだけで検索結果が一向に表示されない。
それでも広瀬はまだ慌てない。
自分のファイルが行方不明になるのは週に一回はあることなので彼にとってまだ想定内であり許容範囲内だ。
今まで最長で7分かかったことがある。あきらめなければ今回も最後にはサーバが根負けして広瀬のデータを吐き出すはずだ。
我慢強く待つことにする。
もしかしたらこの学園には巨大な陰謀が存在し、広瀬の個人データがその陰謀を暴く鍵になっていて、それを隠すために自分のデータだけが抜き出されて一度加工されてから戻されるのではないか。だからいつも時間がかかるのではないか。
待っている時間はいつもこんな厨二病的な妄想に浸る。
本当のところは、ただ単に広瀬が時代遅れのOSと機器を使っているからなのだが……。
「広瀬、またトラブってるのか?」
後ろの席から自称『広瀬の親友』の佐藤修二が肩越しに覗き込むようにして声をかけきた。広瀬の席は教室の真ん中の最前列、教壇の真ん前だ。したがって位置的には教室にいる全員がいつでも広瀬を見ることができるが、クラスの中で広瀬に話しかけるのは唯一この男だけだ。
クラスでの浮きっぷりでは広瀬と双璧をなすこの男は、制服の白シャツの下にアニメキャラがプリントされたTシャツを着込み、絵が透けていようが一向に気にしない。自分がオタクであることを隠そうともしない。
編入してすぐの頃、彼が机の上に出していたクリアファイルを見かけ、そこにたまたま広瀬が知っているアニメのキャラクターが印刷してあったのを見て反応してしまったのがきっかけで、すっかりヲタク認定され、仲間にされてしまったのだ。
転校前の引きこもり生活でゲームとアニメに明け暮れたことが災いした。
もっとも今では佐藤と広瀬のヲタクコンビで揃ってクラスから無視されている立場がありがたいとも思うようになった。
「ヒューマノイドOSを使わないからだよ、このクラスで使ってないのはもう広瀬ぐらいだよ」
佐藤が自分の左耳たぶに付けた丸くて黄色いピアス型のヒューマノイド端末を指で触って起動する。
コマンドール・コンピュータが90年代に後期に発売したこの"ヒューマノイドOS"、クラウド化された巨大なデータベースと高度なAIを統合した高性能OSでその圧倒的な性能と利便性から爆発的なヒットを飛ばし、今や世界中のモバイル端末の9割にこのOSがインストールされているといわれている。
このOSの真骨頂はそのヒューマンインターフェースにある。
ユーザーが耳に埋め込んだピアス状のヒューマノイド端末で、装着者の脳に流れる微弱電流を検知して制御するので、装着者は頭で考えるだけでコマンドを実行できる。
佐藤が言うようにクラスでこのヒューマノイド端末ピアスをしていないのは広瀬だけで、クラスメイトのどの耳たぶにも、さまざまな色のピアスが付いている。
「俺が探してやるよ」
「別にいいよ、待ってればそのうち流れてくるから」
「また水臭いことを言うなよ、いいから任せろ」
佐藤はそう言うと自分の右肩に向かって何か小声で話しかけた。
自分にしか見えない妖精さんと会話しているヤバい奴みたいに見えるが、妖精というのは、あながち間違った表現ではない。
広瀬はタブレット端末を顔の前にかざしてカメラアプリをタップして起動する。
佐藤にレンズを向けると、彼の右肩に身長15センチほどの小人が乗っている様子が映し出された。
現実の人間ではありえないずんぐりとした3頭身、何よりあり得ないのは肩幅より大きな頭からぴょんぴょんと突き出ている2本の板状の突起物----2本の大きな耳が、自分はウサギであるとアピールしている。
白いひらひらのドレスと左耳に装着された赤いリボンはメスの証なのだろう。
この肩乗り妖精は、"Input System Of Path"、通称"ISOP"と呼ばれるキャラクターで、これに話しかけることによってヒューマノイドOSを操作するのだ。
もっとも、動物の顔と寸詰まりのその姿はイソップというよりはど●ぶ●の森といった感じだ。
「ミミ子、学生課管理サーバにログオン。広瀬次郎のデータパスへアクセスして」
佐藤自慢のイソップ、ミミ子は、踊るようにスカートを翻してくるっと一回転すると歌うように声を発した。
「☆△□*〒Φ@」
残念ながらイソップの言葉は耳にヒューマノイド端末を付けた人間にしか聞き取れない。
広瀬には『ピーッ!ガーッ!』という雑音にしか聞こえなかったが、彼の持つタブレットに端末には翻訳されたテキストが次々と表示される。
ミミ子がスマートデスクにコマンドを送り、広瀬のタブレット端末との接続を確立してくれたのだ。
(接続フェーズ終了、認証に進みます。音声にてアクセス許可願います)
ミミ子からのメッセージがタブレット端末に表示される。
「ゲスト接続を許可」
(認証しました。コマンドをどうぞ)
「更新日が今日の日付のものを抽出してくれないかな」
広瀬の指示にミミ子は頷き、短い両腕を横に広げる。
するとミミ子の前の何もない空中に四角い半透明の小さなキーボードが現れた。
カタカタと音を立ててミミ子はキーボードを叩くが、イソップがコマンド入力にキーボードを打つ必要はないので、これは単なる演出だ。
佐藤がオプションで設定した動作だろう。イソップはオプションでジェスチャーや衣装を追加することができる。
「今日の分が見つかったらその中から履修データを検索して」
(了解、9件ヒットしました)
「13時以降で最新のものを表示して」
3列あった候補が3列になる。
「ああ、それだ。ありがとう、僕の端末のシェアフォルダに転送してくれるかな」
広瀬が自分の抱えたタブレットを指差す。
ウサギが頷くと、『チリン』と小さなチャイム音が鳴り、今日の履修データのファイル名が広瀬の端末画面に表示された。
広瀬は安堵のため息をつくと佐藤に礼を言って端末を鞄にしまった。