繚乱のダンジョン 10
幼い頃、お兄様やリオンと遊んだ中庭。
あの頃のワタシには、この王城の一角が世界の全てだったわ。
何の憂いもない、満ち足りた世界。
けれど、ここから一歩でも外へと踏み出せば、そこは、恐ろしいモンスターのいる冷たい世界。
だから、ここは、ワタシにとって安らぎの象徴だった。
愛らしい花を咲かせていた花壇。
涼やかな音を奏でていた小さな噴水。
リオンとお昼寝した東屋。
お気に入りのガーデンテーブル。
夢のような幸せな空間は、無くなってしまった。
あるのは瓦礫と、煤けた大木だけ。
アイシャお姉さまに木登りを教えていただいたその木は、かつての美しい姿を失ってしまった。
青々とした葉は食い尽くされ、黒く光沢を放つ集団に占拠されているわ。
報告にあったとおり、夜間は瓦礫などの物陰に潜んで休息をとっているようね。
この無法者の集団の中にひときわ異彩を放つローカーシッドがいた。
不気味に赤く輝く複眼の、アレがこの国に災禍をもたらした悪夢の欠片なのだろう。
突如領土へと侵入してきたワタシ達を警戒するように、複数のローカーシッドが重い羽音を響かせて飛来する。
しかしソレらは、無造作に振るわれたロングソードによってあっさりと切り捨てられていく。
左肩に留めてある濃い藍色をした肩布の、銀糸の刺繍が月光にひるがえる様子を眺めながら、そういえばお父様が戦う姿を拝見するのはこれが初めてだわと、ワタシは少し場違いな感想を懐いた。
強い銀髪に同じく銀の狼の耳と尻尾は何の感情も表さずにスタスタと前へと進んでいく。
銀糸の横に燃えるような赤色が並び、音も無く空中へ淡い光を散らしていく。
その後ろでは、胸元まである触角をゆらしながら舞うようにモンスターを撃ち落とす、黒髪黒目の麗人が弓を爪弾いている。
アルバート、アルフレッド兄弟のご両親だ。
それぞれ戦士ギルドとハンターギルドの長であり、この国で二番目に忙しいご夫婦でもある。
と、突然激しい落雷が発生し、瓦礫がそこに潜んでいたローカーシッドごと吹き飛ばされた。
リオンのお母様、エミリアさんの仕業だ。
この世界に雷魔法というものは何故か無い。
ただ、雷は存在する。
そして雷が存在する以上、雷を魔法で再現することは可能だ。
ただ、雷を再現するには雷をしっかりとイメージする必要がある。はずなのだけれども……。
「エミリア、今の魔法はどうやって撃ったの?」
「ああ、あれは簡単よ?パチッとするのをギュッとしてバーンってやるのよ」
「あのねぇ魔法使いギルド長さん、その説明で理解できるひとがいると思う?」
「ウチの子なら分かると思うわ!」
そっと右隣をうかがうと、幼馴染が引きつった顔で首を振っている。
更にその隣をうかがうと、錬金術師見習いがお手上げといわんばかりに天を仰いでいる。
同じ現象を理解するも、感覚でものを捉える魔法使いと、論理的に思考する錬金術師とではその過程にそれは深い溝がある。
ちらりと左隣を盗み見ると、俺は具体的に考えて魔法使う方だからとお兄様が顔の前で両手を振っていらした。
「いや、君の子供も弟子も理解できないようだけど?」
錬金術ギルド長はクラウスのお母様で、容姿がクラウスとそっくりだ。
以前彼女を紹介されたアルバートが、クラウスがふたりいるとうっかり口を滑らせてしまって、機嫌を損ねたクラウスに……、いえ、この話は忘れましょう。
「あらそう?直接体験すればすぐにピンと来ると思うのだけれど……」
あの、エミリアさん?ワタシの両隣のとても優秀な魔法使いが怯えているのだけれども……。
「おやめなさいな、間違いなく死ぬから」
助け舟を出してくださったのは、治癒師ギルド長にして我らが治癒師科のユミル先生。
先生が講義を始めるといつも決まって急患の呼び出しがかかるため、彼女は授業で最後まで講義したことがないという都市伝説が、まことしやかに囁かれている。
ユミル先生は黄色いくるくるふわふわの髪にエメラルドの複眼の、神秘的なビスクドールのような女性だ。
ちなみに、お兄様のパーティーメンバーである治癒師のエイルさんのお母様でもあるわ。
エイルさんは薄い緑色の髪に湖のような青い瞳をしていて、物語に出てくる妖精のような方なの。
身体の左半分には蝶のような文様の祝福があって、それが更に、彼女の神秘性を際立たせているわね。
実はワタシ、過去に彼女がお姉様になるのではないかと思っていたことがあったの!
まあ、それはワタシの勘違いで、エイルさんは去年同じパーティーのバルドルさんと結婚したのだけれども。
ええ、それはとても喜ばしいことで心から祝福しているわ。
ただ、エイルさんのような優しいお姉様が欲しいというワタシの願いは、しばらく叶いそうもないのよね、残念だけれど。
ちなみにバルドルさんは後ろでトマス先生と一緒に黙々とバッタを処理しているわ。
そう、今夜のパーティーは親子、義理の親子で構成されているのよ!(トマス先生を除く)
『お父さんお母さんのお仕事を見学!』なんて小学生の頃にあった学校行事を思い出して、なんだかちょっとむずがゆい気分だわ。
そう、いまいちワタシの緊張感が足りないのは、お父様達のパーティーが強すぎて危機感をいだけないだけではない気がするの。
とはいえ、ターゲットを発見したのだから、ここからは真面目にいきましょう。
本を開くとワタシの前方に悪夢の欠片がいることがわかる。
けれど問題がひとつ。
回収予定のモンスターは一体だけしか表示されていない。
おそらくこのローカーシッドの群れは、あの赤い複眼のローカーシッドに召喚された取り巻きなのだ。
つまり、悪夢のかけらを回収したとしても、召喚されてしまったローカーシッドはそのまま残る可能性が高い、ということよ。
そう、たとえ悪夢を回収できたとして、この悪夢のような現実は変わらない。
いえ、新しいモンスターが召喚されることはなくなるのだから、いずれはかつてのラピスを取り戻すでしょう。
そう、いずれは。
それが、どれほど遠い道のりでも……。
足下から広がった魔法陣が悪夢の欠片を捉える。
異形のローカーシッドは光りの環から逃れようと激しく暴れている。
『悪夢を回収しますか?』『はい』
靄はあっけなく本に納まったけれど、取り巻きたちは消えなかったわね。やっぱり。
もっとも、消えようが消えまいがお父様たちにとっては取るに足らない問題みたいだけれども。
静けさを取り戻した中庭には、煤けた裸の木が一本。
『深き水底に眠りし母なる光よ、汝が慈悲をもてこの傷を癒し給え』
ワタシの魔法は静かに幹に吸い込まれていった。
いつかこの傷が癒えたのなら、また、優しい木陰をワタシに貸してくれるだろうか?
ワタシは、ここで頂くお茶が大好きだから。
ワタシが、治癒師になることを選んだのは消去法だったというのは、本当は嘘よ。
ずっと、癒したいと思っていたの。
でも、方法が分からなかった。
だから、治癒師になろうと思ったの。
治癒師の仕事は、傷を癒すことだから。
けれど本当は、助けて欲しかったの。
神様?的な、誰かに……。
この木陰で、ひっそりと泣くしかできなかった、幼いワタシ達を。
「ユーリ、君、ボク達に話すことがあるんだろう?」
問いかける声は今夜の月の光のように、硬質だった。
そう、ワタシは、話さなければいけないことがある。
けれど……
「ええ、でもそれは帰って着替えてからにしましょうか?」
ワタシは、桃色の髪のメイドにそういって微笑んだ。




