始まりのダンジョン 14
病院の横手に駐車場があった。
そして、その先に続くはずの道路は無くなっていた。
大規模な土砂崩れで分断されたのだ。
正確には、そんな風に見えるフィールドだけれども。
この病院より少し低い位置に民家や商店街が見えるのよ。ただし道がない。
ワタシが朝靄と勘違いしたそれは湯気で、辺り一面硫黄の臭いが立ち込めているわ。
黒々とした岩場から温泉が噴き上がる様子はなかなかに壮観。
噴泉の近くを遊歩道が通っているわ。
ここは観光地なのね。
この病院は温泉を利用したリハビリを主としていたのかしら?
いえ、そういう設定なのかしら、ね。
さて、ここは日本の温泉地ではなくダンジョンの下層階だわ。つまり、危険な場所ということよ。
どういう訳かモンスターの気配が一切しないのが不気味なのだけれども……。
窪地にガスが溜まっている可能性は高いわね。
浄化魔法でパーティーを長時間カバーするのは難しいけれど、ワタシとミントの口元……いえ、頭部をカバーするだけなら可能だわ。
金魚鉢に頭を突っ込んだようなイメージを固定する。
ちなみに実際に金魚鉢に頭を突っ込むのはとても危険なので止めましょう。
浄化魔法が発動すると硫黄の臭いがしなくなった。
上手くいったようね。
『ユーリ、ボクは幻獣?だからダンジョンのトラップでダメージを受けないんだよ?』
「そう、なの?」
『うん、それとダンジョンのモンスターもボクを攻撃してこないと思う』
「そう、なの……。良かったわ」
少なくともミントに危険が及ぶことがないというのは歓迎すべきことだわ。
けれどそれは、絶対にではないはず。
「でも、ワタシの精神衛生のために、その魔法はそのままにしておくわね」
『うん、ありがとう。ユーリ』
ところでミント、あなたにとって温泉ガスはトラップなのね?
鮮やかなオレンジ色に染まった岩場に温泉が湧いている。
遊歩道から見上げる噴泉はなかなかの迫力だけれど、少し熱いわね。
あちらこちらでボコボコと温泉が湧き出して、湯気が立ち上っているわ。
駐車場から商店街までを移動できないかとその辺をウロウロしていたら、廃病院の正面にあったちょっとした公園から遊歩道に下りる道を見つけたのよ。
そして、遊歩道を使って商店街まで行こうとしていたワタシ達の目の前に、驚くべきものが現れたの。
温泉玉子。
そう、ざるに入った温泉玉子よ!
一体誰が用意したの?
ノートを開いて確認すると温泉玉子の採集ポイントとして記録されていた。
……。
…………。
いえ、深く考えるのはやめましょう。
そう、ここはマーテルのダンジョンでこの温泉玉子はこの階層で採集できるアイテムなの。
薬草とかと同じなのよ、きっと。
とりあえず採集した温泉玉子を一個ずつふたりで食べてみる。
『おいしー!』
「美味しいわ!」
とろとろで美味しい!ご飯が食べたくなるわね。
ワタシ達は温泉玉子の採集ポイントがあったら積極的に採集していくことを心に誓った。
寂れた商店街。
土産物屋さんね。みんなシャッターが下りているけれど。
ずいぶん建物が傷んでいるわね。
バス停の時刻表も錆びて文字が所々読めなくなっているわ。
??駅南??
??旅館?面行?
ええと、とりあえず駅と旅館があるのね。
マーテルのダンジョンはフィールド型のダンジョンで、階層を移動する場合は人工の建造物を探すのがセオリーだ。
それなら、人工の建造物だらけの場合、どうなるのかしら?
……やっぱり、しらみつぶしに探すしかないのよね。
まずは道なりに確認していきましょうか。
目の前のシャッターを軽く押してみる。
予想に反して撓みもしない。
ただの硬い壁のようだわ。
いえ、実際壁なのよ。シャッターに見えるだけで。
ゲームに出てくる壊せない障害物。あれと同じなのね。
困ったわね、ここがダンジョンだと頭では分かっているのに、どうしても日本の観光地にいる気分になってしまう。
どうしてワタシ、こんなにショックを受けているのかしら?
この階層は、夢が反映されて出来たフィールドなのよ。
ここはダンジョンの中なのよ。
もっと、気を引き締めないと……
『ユーリ、大丈夫?』
「え?ええ、大丈夫よ」
ミントに声をかけられて我に返る。
『でも、ユーリ泣いてる』
「……え?」
慌てて頬を拭う。
「だ、大丈夫よ?ちょっと知っているところに似ていたから、懐かしく……
『大丈夫だよ、ユーリ』
「え?」
『ボクがユーリをお家に連れて行ってあげるから』
「……」
『ボク大きくなるんだよ、ユーリ』
「大きく?」
『そうだよ。大きくなったら今よりたくさん力が使えるようになるんだよ?』
『そうしたら、ユーリをお家に連れて行けるんだー』
『だから、もうちょっとだけ待っててね?ユーリ』
ペロリとミントがワタシの頬を舐めてくる。
ザラザラした舌がくすぐったいわ。
けれど何故かしら、ワタシの中にあったモヤモヤしたものがスッと無くなって、代わりに温かい光が身体の中を満たしていく感じがする。
ふわふわの毛並みに顔をうずめると、その温かさに胸がいっぱいになった。
ああ、ワタシはずっと、ミントに守られてきたのね。
その事実が胸にストンと落ちてきた。
「ありがとう、ミント。楽しみに待っているよ」
『うん、待っててねユーリ』
坂道をゆっくり登っていく。
趣のある木造の駅舎に侵入を拒まれたワタシ達は、旅館に向かっているの。
眼下には古き良き日の日本の町並みが広がっている。
幸か不幸か住宅街に向かうのであろう道路はひび割れたように寸断されて通れない。
ワタシにとってこの景色は眺めているだけで心が郷愁で満たされるものだった。
木造二階建ての住宅やアパート、公園や学校。
私が子供の頃、両親に連れられて訪れた場所に似ている気がするわ。
駄目元で触れた扉がからりと開いた。
古い温泉旅館だ。
黒く艶のある床を土足で踏むことに多大なる罪悪感を抱き、心の中で存在しない従業員の方々に平謝りする。
素朴な中庭を横目に見つつ探索していく。
菖蒲の間と書かれた部屋の襖を開ける。
畳に座布団、卓袱台にはポットと茶菓子が載っている。
脚の付いたブラウン管のテレビがレトロな雰囲気を強調しているわ。
改めて心の中で謝罪しながら客室を調べる。
念のため押し入れも確認するが異常は無い。
上層階への階段はここには無いわね。
隣の旅館も収穫はなし。
残るは坂の上のホテルだけね。
あそこに無ければ住宅街に行く方法を何とか見つけないといけないわ。
それに、だいぶ日が傾いてきたから寝る場所を確保しなければ。
町並みが夕焼けに染まっていく。
「……っ!」
どこかにあったらしいスピーカーが童謡を歌いだした。
下校時刻になると流れてくるあの曲が、ダンジョンでは酷く不気味に聞こえる。
ふと後ろを振り返ると観光客らしき人影がまばらに見えた。
観光客?
どういうことなのかしら?
デニムのパンツにスニーカー、首からカメラを提げた白いTシャツの男性がこちらを見ている。
ただ様子がおかしい。
歩き方がぎこちない上に首がおかしな方向に傾いている。
ゾンビだわ。
他の観光客も不自然な角度でいっせいにこちらを振り返る。
そしてよろよろとこちらに向かってくる。
ワタシはミントを抱えなおすと坂の上まで走った。
ホテルの駐車場には車が数台停車していた。
親子連れらしき人影があるわ。
ただ首が背中側に逆さまに垂れているけれどね。
彼らはワタシ達を見るなりゆっくりとこちらに歩いてきた。
そう、ゆっくりと。
ゾンビは足が遅い。
だから焦る必要はない。
冷静に対処出来れば問題は無いはずよ。
落ち着いて、浄化魔法ランク6。
親子風ゾンビは、淡い光となって消えた。
さらに入り口付近にいたゾンビを浄化すると、ホテルに転がり込む。
ホテルのロビーは無人だった。
フロントにゾンビがいたらどうしようかと思ったけれど、杞憂だったらしいわね。
このホテルの入り口は回転ドアだ。
とりあえずロビーにあったソファーをドアに噛ませておく。
階段を、探さなければ。
ボタンを押しても反応しないエレベータを諦めて、階段を駆け上る。
ふかふかとした赤い絨毯が走りにくい。
坂の途中からずっと走りっぱなしだった上、いっきに十二階分も上ると流石に息が上がってくるわね。
扉を開けるとそこはホテルの屋上で、上に登れそうなところも無いし、いえ、水槽の点検用の梯子があるわ。
「本当に、ただの水槽の点検用の梯子だわ」
水槽の上に座って息を整える。
ふと、下を見遣ると非常階段があった。
この下って駐車場よね?
非常階段からゾンビが進入する可能性があるってことかしら?
バリケードを作りましょうか……。
無駄に芸の細かいダンジョンのおかげでバリケードの材料には困らなかった。
屋上から順に非常口にバリケードを築いていく。
進入可能な部屋にあった冷蔵庫は採集ポイントとしてノートに記録された。
ちなみにミネラルウォーターやビール、ワイン、ナッツ等が採集できたわ。
『お酒は大人になってからだよ?ユーリ』
「ええ、分かっているわ」
これはお料理に使う予定なのだと説明しようと口を開いたその時、ガシャンとガラスの割れる音が下から聞こえてきた。
入り口が破壊されたわね。
予想より持ったほうかしら?
非常口を叩く音もだんだん激しくなってきている。
バリケードもそんなには持たないわね。
汗が滲んできた手をローブで拭う。
ところでゾンビはどの位いるのかしら?
リポップの時間は?
…………。
落ち着きなさい、ワタシ。
とにかく、挟み撃ちになることだけは避けなくては。
階段と非常口があるのとは逆の方向に廊下を進む。
途中防火扉があったので閉じておく。
これで少しだけでも時間稼ぎができればいいのだけれど……。
足早に廊下を進むと防火扉の前に出た。
問題はこの防火扉が閉まっていることではなくて、向こう側から何かがぶつかる音が断続的にしていること。
いけない!非常口はもうひとつあったのね。
けれどもう戻ることは出来ない。
同じ音がワタシの後ろからも聞こえてきたからだ。
『ユーリ、どうする?』
「進みましょう」
『分かった』
ひとつ深呼吸をすると、扉の向こうに浄化魔法を放った。
深き水底に眠りし母なる光。
海底の図書館を朝焼けのごとく照らしている、慈悲深き温もり。
彼の存在を今一度、深くこの身に感じよう。
心地の良い柔らかな光に包まれ、一瞬まどろみかけたワタシの左手を誰かが引っ張る。
『ユーリ、大丈夫?』
心配そうにワタシを見つめるミントの向こうに、長い黒髪を後ろで束ねたひょろりとした男性がいた。
草臥れたグレーのローブに丸い眼鏡をかけたその人は、ワタシににっこり笑いかけるとスッと消えた。
左手のアミュレットを何とはなしに見遣る。
そうね、ワタシはひとりで戦っているわけではないんだわ。
ふふっと笑ってミントに頬擦りする。
「大丈夫よ。しっかり掴まっていてね」
さて、始めましょうか。
扉にぶつかる音が聞こえなくなると同時に、くぐり戸を抜ける。
そこは、エレベーターと非常階段があるだけのガランとした空間だった。
ゾンビが階段からこちらへやって来る。
浄化魔法ランク6。
浄化されたゾンビの形に淡く光る粒子の中を走り抜ける。
勢いをつけて階段を上るとゾンビが扉をこじ開けたところだった。
それを無視して階段を駆け上がる。
だあぁああんと扉の破壊される音が聞こえてくる。
ゆっくりとなだれ込んで来るゾンビを無視してさらに数階上ると、ゾンビが階段を下りてきた。
浄化魔法ランク6。
息を止めて淡い光の中を駆け抜ける。
階段に詰まっているゾンビをまとめて浄化する。
階段へ侵入しようとふらふら歩いている連中もついでに浄化する。
浄化魔法ランク6。
浄化魔法ランク6。
浄化魔法ランク6。
最上階に辿りつくと意外なことに防火扉は無事だった。
必死に息を整える。
ゾンビが階段を上ってくるまでもう少し時間があるはず。
採集したてのミネラルウォーターを一気に呷る。
今は少しでも回復しなければ。




