2.父への報告
「お父様、フロスト殿下に婚約を解消されました。殿下は子爵家のリリー嬢を唯一の妃となさるそうです。つきましては、急いで私の次の縁談を纏めていただけませんか? できれば、王都から離れられる相手がいいですわ」
家に帰るなり、父に面会を申し出て、婚約を解消されたことを伝えた。
大事な話があると伝えたので、ある程度話の内容を予測できていたのか、父の執務室には母もいて、人払いもされていた。
「あなた、明日にでも、婚約を確実に解消してくださいませ。殿下から申し出されたことですもの、たかが公爵家が拒否などできませんわ。望んでもいない婚約をしつこく打診されても、断れないのと同じように」
母はにこやかに微笑んでいるけれど、目だけが冷え切っている。
婚約を解消されることで、女性の体面がどれだけ傷つくか、そんなことすらも理解していない殿下に腹を立てているのだろう。
私と歳や身分が釣り合うめぼしい男性は、既に婚約者がいる。
新たに婚約を結ぼうとしても、どこかで妥協するしかなく、なかなか難しい。
「わかった。確実に婚約をなかったものとしてくる。新たな婚約者だが、ティアを妻にしたいという男性の心当たりなら、いくつもあるから安心しなさい。ティアの希望に沿った相手を選んで、殿下の気が変わらないうちに、嫁いでしまうのがいいね。幸いにも、ある程度の嫁入りの支度は済んでいるのだから」
来年には王太子妃として嫁ぐ予定だったので、嫁入りのための道具や衣装などの準備は既に進めてあった。
急な嫁入りともなれば、少し急かしてしまうかもしれないけれど、王家に嫁ぐよりは衣装などの数を減らしていいので、きっと何とかなるだろう。
それに王都を離れれば、夜会などに出る必要はほとんどなくなる。
華やかな衣装も宝飾品も、そんなには必要ない。
王太子妃の衣装や持ち物となれば、最高級のものを取り揃えなければならなかったけれど、他に嫁ぐのなら、むしろ少し格を落とさなければならない。
それにしても、お父様もかなり腹を立てているようだ。
私のことを家から出したくないと言っていたのに、殿下から逃げるためだけに、嫁入りを早めようというのだから。
父も母も、私が王太子妃として嫁いだ後にリリーが側妃になれば、私がどういった扱いをされるのか理解しているから、それを避けたいのだろう。
「お父様。私と婚約するために、既にある婚約を破棄するような方は、お断りしてくださいね。誰かの婚約者を奪うくらいなら、修道院に行きますわ」
愛してなくても、これほどに悲しく空しい思いをするのだ。
愛している人に婚約を破棄されたら、それはどれほどの傷になるのだろう。
殿下と私の婚約が解消されたと知れば、公爵家と縁続きになるために、既にある婚約を解消する者も出てくるだろう。
私に非がなくとも、婚約を解消されたとなれば、私は傷物と見做される。
本来ならば公爵家との結婚は望めない格下の階級の家にとっては、傷物になった私は狙い目なのだ。
それもあって、フロスト殿下との婚約解消が知れ渡る前に、次の婚約を決めてしまいたかった。
私はまだ、次の婚約者を選ぶだけの余地があるからいいけれど、下位の貴族令嬢ともなれば、一方的に婚約解消されたのだとしても、まともな縁談は望めなくなる。
殿下に婚約解消されたことの余波で、被害者を増やしたくはない。
「もちろんだよ、ティア。秘密裏に迅速に動くから、安心しなさい。ティアはもう、何も心配しなくていいんだ。今まで十分すぎるほどに頑張ってきたのだから、少し休みなさい。10年もの間、望んだわけでもない妃教育を頑張ったのだから、少しくらいのんびりしたところで、罰は当たらないよ」
父に優しく労われて、張り詰めていた気持ちが緩んだ。
同志だと思っていた殿下に裏切られたようで、とても悲しくて傷ついていたのだと気づかされた。
涙がぼろぼろと零れて、頬を伝う。
漏れる嗚咽を堪えようと唇を噛みしめると、母に優しく抱きしめられた。
母の温もりを感じたら我慢できなくて、しがみつきながら子供のように泣きじゃくってしまった。
「ティア。あなたはとてもよく頑張ったわ。殿下には伝わらなかったようだけど、お父様もお母様もティアがどれだけ努力してきたのか、殿下のことをどれだけ大切に思っていたのか、ちゃんと知っているわ」
お母様の優しい声が、痛む胸を癒してくれる。
きちんと私を見て、努力を認めてくれる両親がいる、そのことが、とても幸せだと思った。
同時に、私が両親と同じように殿下を癒せていたならば、こんなことにならなかったのだろうとも思った。
初めてお目にかかった時は、熊のような方だと思った。
体が大きくて、声は低くて、喋り方もちょっと乱暴な、野獣みたいな方。
でも、笑顔はとても温かかった。
まだ幼い私の弟達と遊ぶ様子は微笑ましかった。
婚約を破棄されて以来、心から笑うことなんてなかったのに、弟達とじゃれているあの方を見たら、自然に微笑んでいた。
辺境伯のジェラルド様。
魔の森から出てくる魔物を討伐するために、滅多に王都には出てこられない方なのに、私のために王都に来てくださった。
14歳も歳が離れていて、あの方にしてみれば、私なんて子供に見えるに違いないのに、熱の籠った目でまっすぐに見つめてくださった。
王都ではまず見ないような粗野な方なのに、不思議なほどに怖いとは思わなくて、むしろ体の大きなジェラルド様のそばにいると、守られているようで安心した。
「アリーティア、俺の領地は、華やかな王都と比べると何もない田舎だ。常に魔の森の危険に晒されていて、討伐で家を空けることもある。俺のところに嫁に来れば、王都にも滅多に帰ってこられないかもしれない。それでもついてくるか? 危険な辺境の田舎に、俺と共に骨を埋める覚悟はあるか?」
明日には領地に帰るジェラルド様に話したいことがあると言われたとき、私達の未来に関することだろうと想像がついた。
ジェラルド様は数日屋敷に滞在しているけれど、あくまでも父の客人としてであって、私の婚約者としてではなかった。
秘密裏のお見合いのようなものだったけれど、最後にジェラルド様らしい言葉で求婚してくださった。
「私は華やかな暮らしなど望みません。何もなくても、ジェラルド様がいればそれでいい。ジェラルド様が家を空ける間、家を守ることくらいはできます。戦う術は何一つ持たない私ですが、連れて行ってくださいますか? 貴方と共に生きていきたいのです」
ほんの数日だけれど、ジェラルド様の人柄を知り、心を奪われるには十分過ぎる時間だった。
華やかな王都に未練などない。
元々王都よりも、自然の豊かな領地の館で過ごす時間の方が好きだった。
淑女らしくないと言われてやめてしまったけれど、乗馬も好きだし、外に出るのも好きだ。
何よりも、弟達を可愛がっているジェラルド様を見て、ジェラルド様の子供を産みたいと思ってしまった。
夫婦になり家族になって、ジェラルド様の子供を産み育てることができたなら、どんなに幸せだろうと想像してしまった。
フロスト殿下の婚約者だったときは、子供を産むことなど想像したこともなかったのに、ジェラルド様といると幸せな未来が容易く想像できる。
同時に、私はどこにでもあるごく普通の幸せが欲しかったのだと、思い知らされた。
愛する人に愛されたい。
愛する人と家族になって、幸せに生きていきたい。
そのための努力ならばきっと、妃教育より遥かに厳しくても苦にはならない。
「すぐにでも連れていきたい。身一つでもいいから来てほしい。いい歳をして、我慢のきかない子供みたいで恥ずかしいが、一日も早く、俺の妻になってほしい」
逞しい腕できつく抱きしめられて、苦しいほどに胸が高鳴った。
まだ婚約を破棄されて半月ほどなのに、薄情すぎるだろうか。
でも、ジェラルド様に求められる喜びで、体が震えてしまう。
本当に身一つで、明日には帰ってしまうジェラルド様についていきたい。
「ジェラルド様、私も同じ気持ちです。貴方と離れるのが嫌だと言ったら、我儘だと呆れられてしまうでしょうか?」
胸に縋るように甘えながら見上げると、灼けつくような熱い眼差しで見つめられていて、目がそらせなくなる。
ドキドキとし過ぎて胸が苦しくて、明日にはジェラルド様が帰ってしまうという悲しみも相まって、瞳が潤んだ。
「そんなに可愛い顔をするなんて、反則だ、ティア。俺の理性を試しているのか?」
唸るような声を上げながら、ジェラルド様が何かを堪えるように、私を抱きしめる腕に力を込める。
苦しくて痛いほどなのに、ずっとこのまま抱きしめていてほしかった。
離れたくない、そんな気持ちが募って、とうとう涙が溢れる。
「ティア!? すまない、苦しかったか? どこか痛めてしまったか?」
私の涙を見た瞬間、ジェラルド様が慌てて腕を緩めるので、離れるのは嫌だと伝えるかのようにぎゅっと抱きついた。
背の高いジェラルド様とは体格も違いすぎて、抱きつくと厚い胸に顔が埋まる。
「本当に身一つで構いませんか? 明日、ジェラルド様が帰るのなら、一緒についていきます。私の我儘を許してくださいますか?」
抱きついたまま顔を上げて、拒否されてしまったらどうしようと、不安に思いながらお願いした。
私に抱きつかれて硬直していたジェラルド様は、言葉の意味を理解すると、蕩けそうな笑みを浮かべて、軽々と私を抱き上げる。
「こんなに可愛い我儘を言われたのは初めてだ。すぐに、公爵にお許しをいただこう。さすがに無断で連れ出すわけにはいかないから、二人でお願いしよう」
私を抱き上げたまま、ジェラルド様が父の執務室へと歩き出す。
近くに控えていたメイド達に、抱き上げられている姿を見られているのだと思ったら急に恥ずかしくなって、顔を隠すようにジェラルド様の首筋に顔を埋めた。
「やっぱり俺の理性を試しているのだろう? 行き先を寝室に変更したくなるから、あまり可愛いことばかりしないでくれ」
後ろをついてきているメイド達に聞こえないようになのか、顔を寄せて囁かれて、恥ずかしさが増してしまう。
ジェラルド様は野性的で、傍にいるだけで男の人なのだと強く感じさせられた。
男性といてこんな風に感じるのは初めてで、戸惑ってしまうけれど、同時に陶酔するような心地よさも感じていて、ずっとジェラルド様のそばにいたくなる。
父は、ジェラルド様と私の願いを、苦笑しながらも了承してくれた。
一度婚約は破棄されたけれど、王妃様はまだ諦めていないようなので、早く私を嫁がせた方がいいと感じたようだ。
陛下もできるなら私を王太子妃に、そしてリリーは側妃にと考えているようで、婚約解消したことが周囲に漏れないように緘口令をしいているらしい。
婚約解消を周囲に知られたくないというのはこちらも同じなので、王家の思惑に乗っているけれど、公爵家としてはもう、フロスト殿下に私を嫁がせる気持ちはない。
それもあって、ジェラルド様の申し出は渡りに船だったようだ。
私は少しの荷物と二人のメイドを連れて、ジェラルド様に嫁ぐことになった。




