第37話 「幾久しく傍らに」
「(サリムの野郎、『プロポーズ』なんて言葉使いやがって……)」
内心呟きつつ、満更ではない様子。
ヒロトはシュレイの部屋に入ると、大きなベッドに気絶したままのシュレイを寝かせる。
ベッドもシーツも毛布も、全て特注の巨大サイズだ。シュレイは恐縮して断ったが、ヒロトが家具屋に無理矢理作らせた。それまでは普通サイズのベッドに身体を折り曲げて、丸まって寝ていたという。
「(美人は寝顔も美しい。我がデザインながら厨房服も似合ってるわ。足も長くて素晴らしいなぁ。この腰からのラインと来たら……、この機会にもう少し触っておくか……)」
すでにシュレイの身体に出ていた『線陣紋』は消えていた。
「ヒロトさま、もう出ましょう」
「分かってる! ソラン、声が大きい!」
本当に大きいのはヒロトの声、というのはお約束。
ヒロトの足にしがみついているソランがシュレイの部屋から出ようと促す。
自身の暴走を自覚しているのか、ヒロトは仕方なくソランに従う。
「どうした、ソラン。今日は俺の部屋で寝るのか? 俺はもう少し新魔術の構想と、出発までの予定を見直すつもりだけど」
「では、わたしも魔術の訓練をやります。ここで」
「そ、そうか、頑張れ」
そう言って『火魔術』の復習を開始したソランだったが、30分もしない内に、船を漕ぎ始め、それから程なくして寝息をたて始めた。
ヒロトは自分のベッドにソランを寝かせると、再びソファに座り直す。
「(店のオープン予定が21日。今日は15日だから、正味、あと5日しかない。どう考えてもマズい。20日には、近所の人たちを無料で招待して、ご近所付合いもアピールしておきたいし)」
そうなると、実質、4日しかないことになる。
自らにハッパをかける意味でオープン日を決めて行動を開始したヒロトであったが、シュレイの色香に惑わされ、思った以上に時間を浪費していたようだ。
もっとも、ヒロト本人はそれが浪費だとは毛ほども思ってはいなかったが。
ヒロトはブレピーを起動して、メモ帳に文字を入力していく。
【直近の予定】
・従業員研修
・パン屋との契約(希望は白パン一個20セラ以下)
・地下に巨大冷凍庫設置
・地下に肉熟成用冷蔵庫設置
・地下に『転移』ポイント設置
【今後の予定】
・カチヤーク村と野菜の契約
・夜営業用の従業員募集と研修
・夜営業用の酒類の契約
・新メニュー開発と食材の備蓄強化
「(頑張ってるなぁ、俺……)」
全て自分で考え、自分で行動し、自分で招いた忙しさ。
ちなみに、以上は全て、『シュバイツ大森林亭』に関するものだけである。
一応、直近の予定と、今後の予定を分けて立ててみたが、メモ帳に打ち込んでいる内に、次第にヒロトは絶望的な気分になって行く。
すでに地下室は完成している。
ヒロトは建築の専門的な構造計算などは出来ない。その為、構造上の欠陥があっては困ると、鍛冶師ザック・バロウズのツテを頼って、建築専門のドワーフ族を呼び、指導を受けていた。その結果、全く問題ないとお墨付きを貰っている。
基本的には商業ビルを想定して、シンプルな設計したのが奏功したようだ。店舗部分は外装を凝れば良いと、奇をてらった構造にはしていない。
シュレイが喜ぶかもと思い、お城っぽい作りも考えたが、ヒロトのデザインセンスでは二昔三昔前のラブホテルもどきの外観が精々だろう。
話は四日ほど前に遡る。
ザック紹介のドワーフ族、名をグレン・ハイド。
当初、ヒロトの設計図を見て「ド素人」と判断するも、建材に膨大な鉄を使用することに疑問を抱く。 やがてそれが鉄筋、つまりH鋼だと知るや、評価を180度変えることになった。
もちろん、アラトにH鋼は存在しない。
石材を肉とするなら、鉄筋は骨である。建築士であるグレンには鉄筋の有用性がすぐに理解できた。そして横の圧力に対し、H鋼が極めて強靭なことも。ゆえに、グレンは悔しさで奥歯が砕ける思いであった。「その発想はなかった」からである。
さらに、砕けた奥歯を一息に飲み下すほどに身悶えしたのは、ヒロトのアイデアがグレンには再現不能であったからだ。重量の掛かる建物には間違いなく有効な建築方法なのに、コストの面で実質お蔵入りなのだ。
アラトは地球と違って、安く鉄鉱石を採掘する方法もないし、鋼材を作ってくれる製鉄所も存在しない。また、ヒロトのように、馬鹿げた魔力(ヒロトの場合、体外魔力だが)を持った建築士もいない。仮にそんな魔力量を有する者がいたとしても、建築士ではなく、王宮勤めを目指すのが当然だろう。
さらに、ヒロトは重い建物の重量を、鉄骨だけではなく、壁全体で支える為に、さらに工夫を凝らす。
「(馬鹿な! 壁も全て土魔術で作るのか!? どんな魔力量をしてやがんだ!)」
グレン以外に建設作業員らしき者の姿がない。
当初、設計図の不備の洗い出しを頼まれたグレンであったが、コストに見合うか否かは別にして、設計図自体に問題はなさそうであった。その為、後日、グレン配下の作業員を動員するのかと思っていた。
しかし、いざ、設計にOKを出したところ、ヒロトは「では、すぐに始めましょう」と巨大な穴を土魔術で掘り始めた。
建物自体は地下一階までだが、その下の土台は厚さ4mほどの、土魔術で作られた岩盤である。そこに鉄骨を立ててゆく。
超圧縮された厚さ40cmほどの石壁が、鉄骨を覆うように組み上げられていく。
「ヒロトさん、あんた、建物を建てるのは初めてだと言ってなかったかい?」
「ええ、初めてですよ。ですから、土魔術だけで巨大な建物を建てるのは不安だったんです。私の作った石材の強度の検査を依頼したのはその為です」
土魔術と言っても、ヒロトの土魔術は土というより石である。グレンが驚いたのは、どうしてレンガやコンクリートを使わないのか、という点だ。アラトには火山灰を使った、いわゆるローマンコンクリートが存在する。
ヒロトが土魔術を使う理由は単純だ。
工期の短縮と原材料費の圧縮の為である。もちろん、土魔術で作ったブロック大の石材と、廃材を再利用した圧縮木材をグレンに渡し、強度を調べてもらった上で使用している。強度的には、むしろ通常の石材以上だという評価であった。外壁の厚み、実に40cm。
梁には波型の鉄板を渡し、床の基礎とする。その波部分に木材チップを敷き詰め、断熱材とする。その上に石と木材チップを混合した分厚い圧縮ボードを敷いて床は完成。
内壁や床材に使う圧縮木材に関しても、柔軟性はないが、剛性は問題なし。グレン曰く、特に床下に使う圧縮ボードは断熱材として、高い効果が期待できるという。
「初めてでこんな仕事をされたんじゃ、俺たちの商売はあがったりだな。ヒロトさん、相談なんだが、明日からは俺のとこの若いやつを呼んで見学させたいんだが、大丈夫かい? 参考になるかどうかは分からんが、とんでもない魔術師がいるってだけでも、見物させる価値はあると思うんだ」
「構いませんが、出来れば内装以外は今日中に仕上げたいんですよ。明日まで内装以外の仕事が残るようなら、それは工期の遅れと考えています」
「……」
グランは設計図の束を見て、プルプルと震えている。
その間にも、細いワイヤー状のフレームがどんどん積み重なり、そこに土が集まり、超圧縮で石化してゆく。
「予定通り、銅葺き屋根はグレンさんにお願いするつもりです。屋根の土台は設計図通り、圧縮木材と薄い石製で作っておきますので、後はお願いします。私は明日外出しますので、誰を連れて来ても構いませんよ」
アラトでは石造りの家は珍しくない――というより、日本のような地震多発国が異常であり、世界的には石造りは一般的である。
日本の場合、地震が多い土地柄と、温暖で山が多いという自然環境も手伝って木造建築が発達した。だが、寿命が100年にも満たない木造家屋は日本人にとって、大きな重荷であることは間違いない。
GDP的に見るなら、国家経済に多大な貢献をする家屋の建築は有難いものだろうが、個人的視点で見るなら、30年ローンはほとんど「呪い」に近い。運良く親の持ち家を相続したとしても、木造家屋の場合、大規模リフォームは必須を通り越して、もはや相続とセットと考えるべきだろう。
もちろん、気候による向き不向きはあるが、石造りの家は朽ちないという点で木造家屋よりも優れている。木造家屋に比べ、減価償却が緩やかだ。
都市においては、延焼を防ぐ防火壁の役割も期待できる。
ちなみに、鉄骨レンガ造りの東京駅は、建設から100年後に改築している。当然、余裕を持っての100年目の改築である。100年以上は優に持つのが石造り建築のメリットと言えよう。
一方、個人の財力では容易に建てることが出来ない建築費はデメリットか。気候によっては、密閉性により、カビの発生も頭痛の種となるかもしれない。
「あちこちに開いている、この穴は何だい? 柱でも通すのか?」
地下室と一階部分がほぼ出来上がり、グランが気付いた点を指摘する。
「換気用の魔法陣を設置する為の穴ですね。湿気を管理しようと思いまして。木造と違って、カビの発生が気になりますから」
食べ物屋でカビの発生は、いかにもまずい。
「……なるほど。参考までに教えて欲しいんだが、ヒロトさんの知るルートでは、そういう魔道具が出回っているのかい?」
「いえ、私がこれから作るんですよ。魔道具というよりは、単なる風魔術発生装置です。一括で制御する為のシステムを組む方が面倒そうな気がします」
「そりゃ、一つ一つ魔法陣を設置していくよりは難しいに決まっているだろ。(面倒なら止せば良い。一括で制御しなければならない理由が全く分からん。確かにあちこちに穴はあるが、10も20もあるわけじゃない。一つ一つ展開させるのが、そんなに面倒か?)」
グランは優秀な建築士であったが、ヒロトが目指す「システム」のイメージが全く湧かない。魔道具だろうが、魔法陣だろうが、魔術の起動くらい、従業員にやらせれば良いではないかと。魔石の魔力を魔法陣に通すだけだ。誰にだって出来る。
グランは、「魔術師とは下らないことで頭を使うんだな」などと考えていた。
残念ながら、グランはヒロトの考える「システム」が、どれ程の可能性を秘めているのか理解できなかった。ただし、グランを責めるのは酷だろう。ヒロトが有能なわけでもないし、グランが無能なわけでもない。そういう社会で生きてきた、というだけの話である。
ヒロトは柱や梁だけではなく、壁にも太い鉄線を使った筋交いを入れていた。
「(流用出来そうなのは筋交いくらいか。これなら強度を増しつつ、石材の厚みを削ることが出来るかもな。特に内壁には有効だろう。内壁を薄く出来れば、住居部分を広く使える)」
鉄骨はヒロトが暇を見つけては、砂鉄やケハダ高原の残留鉱床から集めて、土魔術と火魔術で精錬したものだ。「ワドス」の読みかじりだが、純度も硬度も問題はなかった。
地上三階地下一階の建物に使われる鉄は、筋交いなど全て合わせると、半端な量ではない。
ヒロトにとっては腹を貫かれたトラウマのH鋼であったが、思わぬところで役に立ったようだ。
シュレイが昼食用の弁当を持ってやって来たので、一旦、休憩。
グレンがシュレイの容姿に驚く場面もあったが、グレンは普通に大人であった。シュレイ手作りのサンドイッチをモシャモシャと無言で食べている。
「も、もう一階部分が出来たんですか?!」
「ええ、地下室も出来てますよ。シュレイさんに合わせて、天井も高くしておきましたよ。ちょっと見ますか?」
「入れるのですか?」
「ええ、内装なんかは全く手付かずですが、部屋の作りは確認できます」
ヒロトはシュレイを連れて、地下室への階段を下りる。
地下室は四部屋。
階段を下りると、廊下があり、
(1)冷凍庫設置予定
(2)冷蔵庫設置予定
(3)常温倉庫
(4)予備倉庫(『転移』ポイント設置予定)
の部屋に分かれている。
冷凍庫設置予定の部屋が一番広く、『転移』ポイント設置予定の部屋が一番狭い。だが、ヒロトが一番労力を掛ける予定なのが、この一番狭い部屋である。
「これ、この一部屋全部が冷凍庫になるんですか?」
「そうですよ。隣が冷蔵室になります。内部は区分けする予定なので、素材ごとに熟成や低温保存が出来るようにする予定です。あっちの部屋は常温の倉庫で、その隣が予備倉庫になります」
「(転移部屋からは、一ブロック先のエンゾ邸まで地下通路を延ばすつもりだけどな。何で地下通路なのかと言われても、カッコ良いからとしか言いようがない)」
『転移』ポイントに関しては、実際のところ必要ない。なぜなら、ヒロトの『転移』は定点転移ではなく、ゼロ座標を設置した上で、任意の場所から任意の場所へ移動できるからだ。もちろん、ゼロ座標はエンゾ邸にある。ただ、エンゾ邸のゼロ座標が使えない場合を想定するなら、予備ポイントこの場所しかない。店で使う素材の移動なら、すぐ隣に倉庫があるのは便利だ。
「シュレイさん、何の肉を使っているのか分からんが、本当に旨かった。ごちそうさんでした。こりゃ、店も繁盛間違いなしだ」
「ありがとうございます。店が出来たら、お客様としてお越し下さいね」
「ああ、もちろんだ。しかし、あんたのご主人様はとんでもないな。こっちは驚くばっかりで、何しに来たのか、さっぱりわかりゃしねぇ。わははは」
「うふふふ。私も毎日驚くことばっかりですから」
惚れた女の作った飯を食いながら、惚れた女の前で俺TUEEE。これぞ、男冥利というものだろう。ヒロトは嬉しいような、むず痒いような、ニマニマしながら二人の会話を聞いていた。
この日は結局、外壁は三階まで完成したが、全て完成とまでは行かなかった。理由は、三階内壁用の土が足りなくなったからだ。周囲の土を集めすぎて地盤沈下でもしたら問題だ。
内壁は上部を支える柱の役目も果たすので、おざなりには出来ない。鉄骨と鉄の筋交いで強度的には問題ないが、屋根を載せるのは最後が良いだろう。
薄暗くなって来たところで、仮屋根を載せて、この日の作業は終了――とはせず、夕食後、ヒロトは1kmほど離れた川原から石材を運び込み、三階内壁と屋根を完成させた。
これが四日前の出来事である。
店舗がほぼ完成となり、ヒロトの肩の荷も下りて少しは楽になるかと思いきや、次々に難関が立ちはだかる。
そもそも、物理的に時間が足りなさ過ぎるのだ。
現在のヒロト最大の懸念は従業員研修と、パン屋との契約である。
「(一応、向かいのブロックの土地に、パン屋と酒屋を作る予定はあるんだけど、どうしたもんか)」
パン屋については、ヒロトはホラントの町でエンゾが贔屓にしていたパン屋、『ルーヴェン・ナリス』の支店をプロデュースしたいと考えていた。王都でもいろいろと食べたが、味は『ルーヴェン・ナリス』の白パンが一番気に入っていた。さらに、今のヒロトなら理解できることがあるのだ。
「(あの時、『看板娘』という言葉にこだわる母娘を奇妙に感じたもんだが、おそらく、『看板娘』というのはスキルなんだな。スキルなら、あの子の名前何と言ったっけ、彼女の態度もいくらか理解できる気がする)」
ヒロトの想像通り、『看板娘』はスキルである。『ルーヴェン・ナリス』には『看板娘』が二人いるのだ。
「(母親の方は無理だろうし、娘さんの方を支店に引っ張ってこれないかな)」
ヒロトにハーレム願望はない。少なくとも、ユリジア王国において、黒目黒髪は珍しくないし、むしろ、平たい顔の方が珍しい。また、珍しいからと言って、重宝がられるわけでもない。よって、今後のハーレム展開は望むべくもない。
それに、目下、ヒロトはシュレイ一筋である。単純に、好きな味のパンだったし、『看板娘』がいるなら店も流行るだろうと考えているに過ぎない。
「(明日、早速ホラントの町に行って、交渉してみるか)」
オープンには間に合わないが、5月1日の出発までには間に合う可能性が――
「(いや、無理か)」
出発まで15日。一応、ヒロトが買った土地の中に、空家はあるが、普通の住宅である。パン屋にリフォームするには時間も掛かる。それに、『看板娘』がいるからと言って、パン焼き職人がいないでは、本末転倒である。
「(リフォームはグレンさんに頼むとして、パン焼き職人か。もし、『ルーヴェン・ナリス』との交渉が上手く行けば、あのパンを焼いてた親父さんのツテで、誰か紹介して――あれ!?)」
全て妄想上の、「上手く行けば良いなぁ」レベルの話であったが、ヒロトはあることに気付いて驚愕した。
『ルーヴェン・ナリス』のことだけではない。グレンが、安くて旨い酒を置いている酒屋を最近発見し、足繁く通っていると話していたことも思い出したのだ。
つまり、ヒロトが驚愕したのは、パン屋にしても、酒屋にしても、候補こそ少ないが、アテがあったからだ。
そのアテも、ヒロトの都合通りの返答をくれる保証などない。
何一つ形にはなっていない、単なる計画の段階である。
それでもヒロトがアラトに来て約1年。その間に知り合った人たちが、ヒロトが何かをやろうとする時に「アテ」になっていることに気付いたのだ。
「アテ」と言うにはおこがましいが、少なくとも、日本にいた時には、全く想像もしていなかった、人と人との繋がりであった。
「(グレンさんだって、そもそもザックさんの紹介だ。ハイデンさん、ケインさんは師匠の、ライリーとエイミィはシュレイさんがワーロックさんのことを知っていたからだ……)」
何故かヒロトは涙が出てきた。
ベッドでソランが寝ていることを思い出し、嗚咽を押し殺す。
次から次に涙が出てくる。
料理屋のオーナーなど、思い付きの「暇潰し」のはずであった。
もちろん、シュレイに惚れているのは事実であったし、店を続けさせてやりたいと思ったのも事実だ。9年間、一度も黒字になったことがなかったという、シュレイの『カールトン亭』。彼女の力になりたいと思ったのだ。惚れた女の前でカッコつけたいのは万国共通だろう。
だが――
救ったつもりが、救われていた。
たった一年足らずで出来た、新しい関係。
日本にいた時、37年も生きて、そんな関係が一つでもあっただろうか。
ヒロトは自問する。
答えはすぐに出た。
自問とは、大抵、最初から答えが出ているものだ。
「(何も行動しなかったのだから、新しい関係が生まれるわけがない。世界はそういう風に出来ているんだ……)」
日本にいた時であっても、何か行動しようとしていたら、「アテ」はあったはずなのだ。
だが、何も行動しなかったヒロトには、その「アテ」に気付くことはなかった。
アテ、ツテ、コネ、『古賀裕人』には何もなかった。
人生においてもっとも重要な何かが、古賀裕人には決定的に欠けていたのだ。
「(ごめんなさい……)」
誰に対してでもなく、ヒロトは日本で37年生きた自分自身に謝罪した。
そして――
「(ありがとう……俺は今、生きている……)」
アラトに来て出会った、全ての人に感謝した。
「(……くふふふ。何だか、今日は勿体無くて眠れそうにないな)」
ヒロトは静かに作業着に着替えると、マギバッグに毛布を一枚入れ、再び『シュバイツ大森林亭』に戻った。
翌朝3時30分。
カンテラを持ったシュレイが店の扉を開けようとすると、鍵が開いていた。
「(戸締りするの忘れたんだわ! 昨晩はヒロト様の『世界一素敵なプレゼント』に、嬉しくて気絶しちゃったみたい。恥ずかしい……)」
何かを思い出したのか、シュレイの表情はニマニマと緩みっぱなしだ。
「――ッ!!」
シュレイが店の中に入ると、カウンターに近いテーブルの上で、毛布に包まったヒロトが寝ていた。
シュレイがこの時間に店に来たのは、皆の朝食用の弁当を作る為だ。基本的にローストした肉と葉野菜を挟んだサンドイッチだが、作り置きはしないことにしている。
ちなみに、サリムの分は前夜の作り置きで、理由は、サリムの朝が早すぎるから。本日、サリムの分の弁当はない。昨晩、気絶して作る暇がなかったからだ。
厨房でゴソゴソしていたら、ヒロトが起きてしまう。シュレイがどうしたものかと考えていると、入り口から入る澄んだ朝の空気にヒロトが気付いたようだ。
「し、シュレイさん、すみません。昨日は寝付けなかったので、地下室の冷凍庫を作っていました。これから弁当の用意ですよね。私も部屋に戻って、朝の準備をしてきます」
ヒロトが毛布を畳んでいると、シュレイがもじもじしながら尋ねる。
「ヒロト様、あの、昨日の、昨日の言葉は本当でしょうか?」
「……。(昨日のコントのことか?)」
「『幾久しく傍らに』と……」
「本当です」
即答。
ここで即答出来ないようなら「男」を廃業するべきだ。
シュレイの露出している肌に、赤い『線陣紋』が走る。
「シュレイさん、私と結婚してください」
考える前に、ヒロトは言葉に出していた。
それは約束された勝利のプロポーズ。
シュレイの目から涙が溢れる。
「喜んでお受けいたします」
どちらともなく近付き、抱き合い、やがてヒロトが顔を上げ、シュレイが下を向く。
二人の唇が自然と重なり、先の言葉を確かめ合う。
まともに恋すらしたことのない二人のプロポーズは無事に済み、身長差約50cmのキスも、思いの外、上手く行ったようだ。
「おっしぁああああ!!!!」
ヒロト、勝利のガッツポーズ。
「っ!!」
「すみません、大声を出して。シュレイさんと結婚出来ることになって、本当に嬉しいんです。すみませんね、寝起きの、汗臭い、目ヤニのついた顔のままで。もっとロマンチックな状況の方が良かったのですが、今、その気分だったんです。衝動的ですが、気持ちは本当です」
長いキスが終わると、まず、ヒロトが言葉を発した。長い言葉が少々弁解染みているのはご愛嬌か。
早口も緊張ゆえだろう。
何しろ、生れ落ちておよそ38年、キスはおろか、まともな恋すら初めてなのだ。
まして、プロポーズなど。
常々、世の男たちは一体どうやって結婚まで辿り着くのかと不思議で仕方なかったものだ。
「うふふ」
心から嬉しそうに、シュレイはヒロトを力いっぱい抱きしめ、そのまま持ち上げる。
まるで、世界に「この男は私のものだ」と宣言するように。
そして、もう一度キスをする。
シュレイの全身の『線陣紋』が、薄くなったり、濃くなったりと落ち着かない。
ヒロトを床に降ろすと、シュレイが尋ねる。
名残惜しいのか、ヒロトの手は離さない。
「私のどこが良かったのしょうか」
「顔と身体です」
またも即答。
嘘を言っても仕方がない。ヒロトはシュレイの顔と身体が最高だから手に入れたいのだ。
シュレイ以上の女は想像出来ない。
最高の女を手に入れる為に、結婚したいのだ。
事実なのだから、事実を言ったまでである。
誰憚ることがあろうか。
むっちりとした肉付きの身体に、スラリと長い手足。頭身のバランスは美の化身そのもの。
シュレイの全身のスタイルを見ていると、かかとの高い靴を履いて頭身を誤魔化している女たちが、哀れにさえ思えてくる。ナチュラルな自然美の前では、涙ぐましい美への努力はむしろ哀しい。
腰はくびれ、それが巨大な胸と、扇情的な尻を強調している。美と艶の奇跡的融合。
その完璧なフォルムの身体の上に、美の女神が顕現したとしか思えない造形の顔が乗っている。
初めてシュレイを見た瞬間から、ヒロトにとって、シュレイの顔と身体は完璧であった。
これ以上のものがこの世に存在するとは思えないし、それ以外答えようがない。
「ヒロト様は本当に最高ですっ!」
何度目だろうか、シュレイがヒロトを抱きしめる。
ヒロトの答えは通常ならNGとなる返答なのだろうが、シュレイにとっては、これ以上ないほどの、完璧な答えであった。
シュレイは自分が「ブスの大女」だということを知っている。しかし、ヒロトの前では、なぜか世界一の美女になったような気分になるのだ。もちろん、ヒロトがシュレイのことを、世界一の美女として扱うからだ。
シュレイは自分の足元を確認する。
嬉しくて、宙に浮いているのではないかと錯覚したのだ。
考え方は人それぞれだろうが、シュレイが一番喜ぶ答えを、ここ一番の場面で伝えたヒロトは正しい。
「忙しい日が続きますが、4月30日、『迷宮』に発つ前にここでささやかな結婚式をしましょう」
「……そうでした、ヒロト様たちは旅にでるのでしたね……」
「心配いりませんよ。シュレイさんも昨日見たでしょう。至高の魔術、『転移』を。あれで一瞬にして帰って来れます」
カンテラに照らされたシュレイの表情がパッと明るくなる。
「どれくらいの距離の『転移』が可能なんですか?」
「理論上は、マーカーした場所なら、距離は関係ありません。そういう魔法陣を組んでいます。魔力は距離が離れればそれだけ必要ですが、私の場合、あまり魔力は関係ありませんし」
「本当にヒロト様は凄いんですね。それを私なんかが、良いんでしょうか……」
良いに決まっている。
シュレイは分かってて聞いているのだ。
気持ちの良い言葉を本人から聞きたいが為に。
「良いも何も、シュレイさんが最高なんですから、何の問題もないでしょう。最高の女と結婚出来る私は、世界一幸福な男ですよ」
「うふふ。それなら、私は世界一幸福な女ですね」
二人はもう一度キスをした。
少し前まで、緊張で震えていた二人。
その震えは、舌を絡めあうたびに、歓喜の震えに変わっていった。