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 第2話 「エンゾ・シュバイツ」

 先ほどから、強化した目で、他人の履物を穴が開くほど見つめている老人の名はエンゾ・シュバイツ。魔術師である。全身から異様なオーラを放っているが、理由を聞けば納得できるかも知れない

 老人が手にしている履物の持ち主は、異世界からの「流人」だからだ。


 日本の量販店で売っている、半ブーツタイプのスニーカーを、エンゾは時折、「ほー」「むー」などと言いながら、観察している。

 靴の中から漂う、若干()えたような臭いをもってしても、老人の好奇心を挫くほどの力はなかったようだ。


「(一体、何の素材で出来ているのやら、見当もつかん……)」


 スキル『解析』を使っても、エンゾの脳内には、何も響いてこない。シャツやズボンは綿で出来ている為、理解できた。吐瀉物を洗う為に、手に取り、詳しく調べたのだ。


 エンゾは『鑑定』スキルを持っていない。『鑑定』を持っていないことを、今ほど悔やんだことはなかった。もちろん、『鑑定』を使ったからと、全ての情報を得られる保証はないが。


 シャツもズボンも、細くよられた均一の綿の糸で、恐ろしいほど完璧な密度で織られていた。素材はわかっても、どんな職人が、どうやって作ったのかについては、全く想像できなかった。

 アラトにも手回しの綿繰り車は存在するが、当然ながら、地球では奴隷制度や産業革命と密接な関わりがあった、綿繰り機や自動織り機は存在しない。

 もし、あればここまでエンゾも衝撃を受けなかったかも知れない。


 靴については、全く理解できなかった。

 全体が柔らかくて、しなやかな革のような素材で作られているからだ。くるぶしが隠れる構造になっていて、履き心地は良さそうだ。赤と黒で着色されている。当然、染料や彩色方法は不明。


 靴底は、溝が掘られており、それが滑り止めであろうことは、経験上想像できたが、硬くて弾力のある素材については、やはり不明。

 もしかしたら、樹脂の類かとも思われたが、こんな便利に加工できる樹脂などエンゾは知らない。


 「(未知の魔物素材か?)」


 靴紐に使われている糸に至っては、到底、魔物や動植物を素材にした繊維とは思えなかった。こんな細い繊維をどうやって編みこんで靴紐にしたのか。職人が費やした労力を考えると、気の毒ですらあった。

 そして、これだけ頑丈そうに出来ているのに、靴自体は恐ろしく軽い。


 「(さても、異世界とは興味深い)」


 財布の中にも材質不明の硬貨と、どうやって描いたのか不明な紙幣があった。カード類については、昆虫型魔物の外郭を加工したものと予想した。 

 

 紙幣が描いたものではなく、印刷したものであることくらいは、エンゾにも分かった。同じものが複数枚あったからだ。しかし、その原版をどうやって彫ったのかが分からない。常識的に考えて、あまりにも細かすぎたからだ。

 異世界には細かい作業を得意とする、特殊な小人族でもいるのだろうかと考えた。ただの線だと思われた部分が、細かい記号の羅列による、点の集合だと気付いた時は、背筋が寒くなったほどだ。


 紙の素材、インクの種類、どんな職人が、どんな道具で、どんな技術で彫った原版なのか。財布の中では紙幣が一番エンゾの興味を惹いた。


 エンゾは金には特に興味はなかったが、一点ものの美術品、あるいは珍品の類として貴族に押し付ければ、相当な額で売れるのではないかと。


 硬貨や紙幣について、それが硬貨や紙幣だと分かったのは、数字が理解できたからだ。身体に身につけた革製の小袋。その中にある異世界の国王と思われる肖像が描かれた紙。

 それで十分に紙幣だと想像できた。

 単位は不明だが、数字が理解できたのが大きい。


 数字については、エンゾの世界、つまり、アラトと同じだったからだ。


 ちなみに、紙幣については、不換紙幣はアラトには存在しない。戦争によって国が滅びれば紙くずになるからだ。紙くずに記された「数字」と、金銀を交換する馬鹿はいない。

 交換紙幣――ではないが、持ち運び容易な手形は存在する。しかし、汎用性には欠ける。特定の商人同士や、組合員同士の取引に使われるくらいだろう。

ただし、いつの時代も為政者は不換紙幣を夢見てきた。その為、紙幣の概念だけは、アラトにも存在したのだ。


 しかし、エンゾが紙幣よりも尚、興味を惹かれたものは、ヒロトの腕に巻かれた腕輪であった。ヒロトの身体を洗った時も、意識して水を掛けないようにしたくらいだ。


 表面は一見、滑らかな爬虫類の皮のように、ツルリとしているが、正体不明の金属のようでもあった。見た目には重そうでもあり、軽そうでもあった。手に取り、調べたいと思ったが、ヒロトはまだ寝ている。


 『腕輪(ぶれすれと)型タブレットPC(通称ブレピー)』


 エンゾが最も興味を惹かれたものは、ヒロトの世界で、そう呼ばれている。


 最初に登場したのは、2023年。ヒロトが使っている機種は、2031年では、かなり旧式のタイプになる。通信が可能なのだから、当然、電話機能もある。

 

 手首に巻かれた、幅1cmほどの輪から、曲面平面を問わない、投影型のインターフェイスが腕の部分に出てくる仕組みだ。腕から外して伸ばせば、机などの平面に投影させることも可能。両手が使える為、作業効率は上がるだろう。

 使い方は、2010年代に一般化されていたスマートフォンと同じである。


 別に携帯やPCを腕に巻かなくても良いじゃないか、というある意味、真っ当な正論により、爆発的に広まったわけではなかったが、一部の好事家には、ことの他好まれた。どこか厨二心を刺激するアイテムであった為だ。もちろん、ヒロトも好んで使っていた。


 電力は通常の家庭用電源で充電する方法と、太陽光でも時間は掛かるが可能だ。機能を限定することで、極力消費電力を減らした設計になっている。

 ヒロトの場合も、時計と簡単な検索程度にしか使っていなかった。電話やGPSは使いたい時だけの非アクティブ状態にしている。


 その腕輪にエンゾは激しく興味をそそられた。

 もちろん、エンゾがその腕輪の機能を外観だけで把握できるわけがない。しかし、長年生きた経験が、エンゾをして、ただの飾り腕輪ではないと看破させた。


 いや、腕輪だけではない。エンゾは、ヒロトがこの世界、アラトよりも進んだ世界から来たのだと確信していた。ヒロトがいた世界は、どんな世界だったのか。何とかして、いろんな話を聞きたいと思っている。


 問題は、どうやってヒロトをこの森に引き止めるかである。


 エンゾとしては、無理矢理引き止めるのは本意ではないが、出て行くというのなら手段を選ぶつもりはない。せっかくの流人との邂逅である。魔道の極みを目指すのが、大魔導師。目の前に未知が存在するのに、何も得られず手放すなど、エンゾ・シュバイツには到底受け入れられることではなかった。


 ひとまず穏便に、

 『アラトに興味を持ってもらって、自分を頼りにしてもらおう作戦』

 を実行することに決定した。



 「ヒロト、起きなさい。飯が出来たぞ」


 ヒロトは1時間ほど前から、目が覚めていた。眠っていた時間は2時間ほどだろうか。目が覚めると、現状を確認し、夢の続き――つまり、異世界転移に相違ないと、改めて自分に言い聞かせた。


 今のヒロトに、「知らない天井だ」などとテンプレの冗談を言っている余裕などなかった。随分と年を取った両親のことを思い出したが、こと此処に至っては、どうしようもない。

 たまの電話くらいで、10年近く里帰りはしていない。

 地球では失踪扱いだろうか。

 死体が消えた事故現場は混乱しただろうか。

 目撃者は多い。年恰好から近所の住人を網羅的に捜査すれば、いずれ古賀裕人に辿り着くだろう。


 テンプレでは「元から古賀裕人がいなかった世界」に書き換わる的な設定もあったが、そんな都合良く行くわけがない。しかし、全ては考えても意味のないことであった。ただ、両親には申し訳ないことになったと、反省とも後悔とも言えない感情だけが、ヒロトの中に湧いてきたのだった。


 ヒロトは取り急ぎ、自分の設定の確認と、ブレピーの起動確認。そして、自分の希望を切り出すタイミングなど、何度も脳内シミュレーションを繰り返し、作戦を立案した。


 果たして、

 『好感度を上げて、家を放り出されないようにする作戦』

 を実行することに決めた。



 「はい、今行きます」


 目的は同じ二人だが、そこへ至る道筋は、大いに違っているようである。どちらも独り善がりなところが、共通点と言えば共通点だろうか。



 魔法が日常の世界である。

 召喚錬成など、ヒロトからしたら、魔法や魔術を超えて、神の奇跡レベルの事象であった。

 ゲームが現実になった違和感とでも言えば良いだろうか。

 そんな神の奇跡がゴロゴロしている(と思われる)世界で、着の身着のままで放り出されたら、世界に対して「殺してください」と訴えているのと同じであった。


 せっかく、「特別な」チャンスを貰ったのだ。


 「ゲームしかなかった」自分に与えられた「特別な」可能性。


 もし、死ぬほどの気力を振り絞る時と場所があるのなら、それは今、この世界しかない。


 もし次に死ぬ瞬間が来たのなら、今度こそは、自分に与えられた全ての才能は、一つ残らず使い切ったと、胸を張りたい。


 己の命を、燃やし尽くすのだ。


 その為には、ヒロトは魔法の知識はもちろんだが、それ以前に、この世界を知らなくてはならないと考えた。目的は奇跡――自分が異世界にいる理由を解明することではない。天文学的な確率で起きた偶然と、神の奇跡に、大した差はない。分かったところで、意味はない。また、奇跡を解明した末に、今さら地球に戻っても仕方がなかった。


 「ゲームしかなかった」世界になど。


 目的は命を燃やし尽くすことただ一つ。もう二度と、辺りに散乱した弁当の残骸と自分を重ねたりしないように。


 「すっかり具合が良くなったみたいです。何とか、ほら、力も入るようです。すみませんが、洗面所を貸していただけますか。あと鏡もあればお願いします」


 まず、鏡で自分を確認しなくてはならない。自分こそがアイデンティティの源だ。しかし、突然、鏡を借りるのは不自然だとヒロトは考えた。考えた末、洗面所を借りて、寝顔を整える為に鏡が必要だと訴えることにしたのだ。


 「トイレは裏口の横。顔を洗いたいのなら、外の井戸じゃな。鏡はほれ、こいつを」


 手渡された鏡は、構造的にはヒロトの知る鏡と同じであった。ガラスの裏に金属箔が張られているタイプ。反射率がそれほど高くは無いところを見ると、銀メッキではないのだろう。しかし、鏡として特に問題はなさそうであった。


 チラッと鏡に映った自分の顔を見る。

 予想していた通り、ヒロトが17~18歳頃の顔だった。肌のキメが細かい。20年ほど若返ったようである。転移の影響か、召喚錬成の影響かは分からない。エンゾが驚いていないところを見ると、転移した時には、すでに若返っていた可能性が高い。錬成中に20歳も若返ったら、誰だって気付くはずだからだ。

 

 ヒロト的には、17歳だろうが、37歳だろうが、特に問題は無かった。全力を振り絞ることに、変わりはないからだ。


 しかし、冷静に考えれば、体力的な意味でも、若さの獲得は僥倖であった。運命論的に寿命が決まっているのなら、単純に、20年長く生きられる。異世界であっても、若い方が可能性が広がるのは、同じだ。

 若さとは、それだけで億万の価値があるものなのだ。


 「ありがとうございます」


 実は、鏡に関しては賭けであった。

 石や金属を磨いただけのものを手渡される可能性もあったからだ。その場合、この世界の文明は地球と比べてかなり古いことになる。

 手渡された鏡から、地球で言えば、14~15世紀くらいだと想像した。


 「(これなら戦える)」


 ヒロトは左手首に撒かれた腕輪を、そっと撫でる。

 

 ヒロトの腕輪型タブレットPCの中には、3日ほど前に更新した「ワードヒストリア(通称ワドス)」が入っている。

 ヒロトはオフラインでも「ワドス」を使えるよう、日本語版のみ一週間に一度、更新していた。最後に更新したのが三日前である。


 ヒロトは、百万の兵を味方につけたほどの心強さを感じた。


 「ワードヒストリア(通称ワドス)」とは、WEB上で誰でも編集可能な、百科事典のようなものである。記事の信頼性を問題にする者も多いが、政治問題や、専門的な知識ではなく、概論的な情報に限れば、相当に便利である。


 ただし、条件があり、記事を編集する人が多ければ問題ないが、少ないと、記事自体が存在しない場合がある。


 つまり、考古学などと同じで、あまりに古いと、それだけ信頼性は落ちるのだ。ニッチ過ぎる項目も、期待できない。編集する人がいないからだ。

中世以降なら、世界中に文献による記録が多数残っている為、研究者も多く、信頼性も期待出来る。


 ヒロトが鏡によって行なった賭けは、この世界が、地球年代でどの辺りに位置するのかであった。魔法がある以上、同じ進歩を辿るとは思わないが、目安にはなるだろう。


 「ワドス」の記事が少ない年代、つまり、古代はアウトだ。大まかな時代の流れ程度しかカバーしていないだろう。未来も同じ理由でアウト。理想は中世~近代までの日本。なぜなら、容量の問題もあり、日本語版しかDLしていなかったからだ。


 ただし、ヒロトが親しんだゲームは、主に二種類。中世ヨーロッパものか、近未来アメリカものだ。現に、転移する前に遊んでいた「マギクラ2」は中世ヨーロッパが舞台のゲームである。

 つまり、ゲームの知識的には、中世ヨーロッパも歓迎というわけである。


 賭けの結果は、十分にヒロトの納得の行くものであった。


 英語版があれば、さらに便利だったはずだが、ヒロトの地球での日常生活では、英語版よりも日本語版の方が記事も多く便利だったので、横着していた。翻訳記事もあるが、やはり記事量では圧倒的な差がある。今更、言っても仕方がないことではあるが。



 井戸は普通の井戸であった。ポンプ式ではない、釣瓶(つるべ)式だ。それよりも気になったのは、(あか)りである。電線のようなものはないし、炎でもない。内臓電池の可能性はあるが――。


 「(おそらくは魔道具)」


 電気がある世界なら、室内、あるいは屋外のどこかに、電線があるはずだからだ。それが全くない。


 ジャブジャブと顔を洗う。

 ただ顔を洗うだけの行為が、生まれて初めて顔を洗ったように、心地良かった。


 「己の命を、燃やし尽くすこと」


 小さく呟いてみると、いかにも青臭い。若返った肉体に、精神が引きずられているのだろうか。どこかで聞いたような、作り物じみた設定だ。しかし、だからこそ、今のヒロトにとっては、大きな意味があったのかも知れない。


 異世界で初めての洗顔は、この世界における、ある種の『洗礼』のようにも感じられた。


 エンゾから借りたシャツは、一応、襟元にボタンはあるが、作り自体は貫頭衣のような簡単な構造であった。部屋着のようなものなのだろうか。

 確認しようにも、周りはうっそうとした、真っ暗な森が広がるのみであり、生憎と通行人のようなものはいない。街灯もない森の中では当たり前のことであった。


 「エルフがいたんだ。魔物だっているだろう…」


 若干、エルフ族に対して失礼な感想だが、異世界の存在という意味では、ヒロトにとっては同じである。魔法に興味があるヒロトとしては、魔物の存在は、むしろ望むところであった。


 大きく深呼吸をして、気合を入れる。


 ここが第二のスタートだと、古賀裕人改め、ヒロト・コガは自分に言い聞かせる。


 「鏡ありがとうございました。さっぱりしました」


 「そりゃ良かった。さ、席に付きなさい」


 テーブルには、粗末ではないが、決して豪華とは言えない、普通の食事が並んでいた。日常的に食べられているメニューなのだろう。

 大きなプレート皿に、マッシュポテトのようなもの、太めの茹でたソーセージが2本、ニンジンの漬物のようなもの。豆の入ったスープ。堅そうなパン。赤い飲み物はワインだろうか。


 「これは旨そうです」


 「食事の前に何かお祈りのようなものがあれば、好きにして構わんよ」


 ヒロトは大昔から連綿と続く、偉大なテンプレに逆うことなく、素直に従うことにした。


 「いただきます」


 ヒロトが両手を合わせる姿を、エンゾは興味深そうに観察していた。心から何かに感謝しているように見えたからだ。


 一方、ヒロトは、手を合わせて「いただきます」をした記憶など、遠い昔である。それが、思った以上に、完璧な「いただきます」であった為、逆に自分で驚いたほどであった。

 ヒロトは、並んだ食事の先にいる、興味深そうに自身の様子を観察しているエルフに、心からの感謝を込めたのだ。


 「その祈りの説明を聞きたいところだが、まずは食べよう」


 ソーセージをフォークに刺して口に入れる。パリッと心地良い感触と共に、肉汁が口一杯に広がった。香ばしい中に、若干の血生臭さがあり、それが逆に野趣溢れるアクセントになっている。

 

 「旨いッ!」


 「ほほ、あわてなさんな」


 マッシュポテトは味がしない。なるほど、ソーセージか、漬物をおかずにして食べるのだろうとヒロトは予想する。

 

 黒っぽいパンは――ヒロトの知る、テンプレ通りであった。堅くて歯が立たない。

 探せば、ロシアや東欧あたりにあるのかも知れないが、地球にいた時も、こんな堅いパンを食べたことはなかった。

 ヒロトは今すぐ、ブレピーを起動して、ワドス検索をしたいところであったが、エンゾの手前、自重した。

 

 しかし、そんな時でも、テンプレは偉大であった。

 ヒロトはすぐに、先人たちに従い、スープに浸して食べる。ほんの少しスープに浸しただけであったが、浸した部分なら、歯が立った。

 

 「ワインもどうじゃ」


 「はい、頂きます」


 ワインは若干の雑味があったが、アルコール度数が低く、飲みやすい。


 「これも旨いです」


 エンゾも美味しそうにワインを飲みながら、「そうだろう、そうだろう」と頷いている。ヒロトは食事と言えば、一人で部屋で食べる、味気ないものがほとんどだった為、久しぶりに食事らしい食事をした気分であった。

 誰かとの食事が、雑味の残った、手作りのワインだとすれば、一人の食事は、全ての雑味が偏執的に取り除かれた、工場生産的なワインと言えるかも知れない。


 食事とは、エネルギーを補給する為だけのものではないと、当たり前のことを実感していた。

 本来、食事とは楽しいものなのだ。


 「そういえば、出身はどこだったかな」


 「日本です――ぅッ!?」


 ニヤリとエンゾの口ヒゲが持ち上がる。

 

 ヒロトあっさり撃沈。


 ヒロトは自分が信じられなかった。

 何の奇跡か、異世界転移で異世界に来ているのに、普通に外国か何かと勘違いしていたのだろうか。確かにエンゾは耳こそ長く、エルフの特徴を備えているが、目鼻立ちは線の細いアングロサクソンといったところだ。

 ヒロトは両手で顔を覆って、泣き出したい気分であった。


 「ワインで気が緩んだか?」


 「……」


 異世界最初の不覚である――というのは、ヒロトだけの感想で、エンゾにしてみれば、ヒロトは最初からほとんど無防備である。


 「ヒロトは騙されやすい性質じゃな。一つのこと、つまりこの場合は食事じゃが、食事の最中に、食事のことだけを考えておるようでは、いつか大きな失敗をするぞ」


 してやったり、と言った表情で、スープに浸したパンを、美味しそうに食べるエンゾ。

 確かに食事は旨かったが、「パンだけは不味かったぞ」と言いたい気持ちをグッと抑えて、努めて冷静を装う。


 「どうして分かったのですか?」


 「嘘は…、隠したいことを隠すやり方は二流じゃな。いっそ、自分を作り変えてしまうほどの覚悟こそ、一流よ」


 「はぁ…」と思わず、ため息が漏れた。

 嘘をつき通すなど、土台無理な話だったのだろう。

 そもそも、今までの人生で、他人と本気の駆け引きをしたことなど、経験がなかった。

 何となく、こちらから話さなければ、聞かれないだろうと、勝手に想定していた。相手だって、ヒロトと同じように思惑はあり、必死で生きているのだから、ヒロトの思い通りに動くわけがない。


 嘘がバレたことが問題なのではない。


 問題は、相手は自分とは違う存在であり、自分とは違うことを考えている、といった、ある種、当たり前の感覚が欠けていることにあった。

 実年齢37歳にしては、あまりにもお粗末な、対人スキルである。

 無意識に、エンゾをNPCか何かと思い違いをしていたのだろうか。猛烈な自己嫌悪がヒロトを襲う。


 「(人間関係を真面目に築かなかった弊害か。俺は相手が想定外の行動を取ることを、全く想定していない)」


 相手の行動を網羅的に想定出来るのなら問題はないが、それは不可能だ。結局は、場当たり的に対処するしかない。だからこそ、会話にはセンスが問われるのだ。


 「『流人』と呼ばれておるよ、お主のように、異世界より流れて来た者のことは」


 「流人……」


 「左様。わしの知る限り、過去に流人とされた者は北大陸、中央大陸、ウスト大陸、そして、ここマレ大陸全てを合わせても、わずかに二人」


 大陸の固有名詞が出たが、ヒロトはひとまずスルーすることにした。アラトの世界地図の確認は後回しにする。


 「二人…ですか、たった」


 「いかにも。もっとも、公に認定された者が二人というだけで、他にもおったのかも知れんがな。一時期、わしが研究した限りじゃ、アラトに足跡を残したのは、あと一人いるかどうかじゃな」


 「それでも三人。彼らはこの世界で何をしたのでしょうか」


 思わず「たった」とヒロトは言ったが、二人、あるいは三人という数字は十分に多い。というより、地球に三人の異世界人がいたとして、世界「公認」などということになるだろうか。ヒロトの常識としては、「あり得ない」である。変人の類として、下手をすれば精神病院にでも入れられるのがオチだろう。社会は理解不能の異分子を受け入れるほど、寛容ではない。


 ならば、「公認」とされるには、それなりの理由があるはずであった。「あり得ない」とする常識を覆すような、圧倒的な何かが。


 「この世界、アラトにおいて、それぞれ足跡を残しておるよ。うち一人など――わしは流人の仕業と睨んどるが、中央大陸のシンバ皇国を一夜にして滅亡させとる」


 「めっ、滅亡!?」


 「他にもウスト大陸にあるアキバ帝国の初代皇帝ユウキ・オカはエドラ教皇国公認の流人じゃ」


 「あ、アキバ……帝国ですか。その初代皇帝は建国した後、どうなったのでしょうか」


 ヒロトは頭痛がしてきた。残念ながら、異世界にアスピリンはない。それにしても、「アキバ帝国」。これもテンプレであったな、などと考えていると、エンゾが質問に答える。


 「もう1000年前の話じゃが、西回りでアラト一周に出発して、竜に食われたというのが、歴史家の間では定説じゃな」


 「竜、いるんですね、やっぱり」


 先人が竜に食われたと聞いた後では、「竜キターーーーッ」という反応は、脳内であっても、流石に憚られた。


 「竜の巣と呼ばれる火山群島がある」


 その地理情報があるということは、生きて戻った者もいるということであった。

 

 「(竜と聞けば、初代皇帝氏が惹かれたのも必然か)」


 いつか骨を拾ってやっても良いか、などと、魔術の魔の字すら試してもいないのに、大それたことを考えるヒロト。


 「ウスト大陸では、稀に風に流された迷い竜によって、とんでもない被害を出すことがある。何十年に一度の災害じゃな。他の大陸ではほとんど聞かんよ」


 「もう一人は?」


 「エドラ教皇国の救世主にして、勇者ジョージ・ハリスンじゃ。勇者ジョージは勇者召喚によって召喚されたと公認されている、唯一の流人でもある」


 ヒロトは「ぶフォッ」と口に含んだワインを吹き出した。


 「(今度はビートルズかよっ!)」


 おそらく、ファンだったのだろう。もちろん、偽名に決まっているが――と、ヒロトは勝手に結論付けた。何でジョージ・ハリスンなのかは、ヒロトが考えても意味がない。


 「大丈夫か?」


 「ええ、失礼しました」


 「勇者ジョージ・ハリスンは魔人からエドラ教皇国を救った勇者というだけではなく、文化を愛する粋人でもあったらしい。特に、音楽には深い愛を示し、いくつもの楽器も伝えておる」


 勇者ジョージ・ハリスンが音楽好きだったのは、ヒロトにも理解できた。何しろ、偽名をつけるくらいだからだ。

 と同時に、偽名を使ったジョージ氏の慎重さに感心した。

 ヒロト自身は、何の躊躇もなく、最初の紹介で、本名を名乗ったからだ。熟慮の末の結果なら問題ないが、何も考えずに名乗ったのは、不用意という他なかった。

 そのくせ、「ヒロト・コガ」などと、外人風に姓名逆に名乗ったりしている。自分が馬鹿だとは思っていなかったが、環境が変わることで、見えてくる自分もある。


 ヒロトは、わずか半日ほどの間に、一体何箇所ボロを出せば気が済むのだろうかと、自身の間抜けさを憂うばかりであった。

 そして、ある確信に至っていた。


 自分は馬鹿であると。


 日本で生きている間は気付かなかったことである。

 ヒロト自身は、金も力もない、ただの底辺派遣社員であったが、自分を馬鹿だとは思っていなかったのだ。


 「不思議な事に、本人は呪いによって、楽器が弾けなかったそうじゃがな」


 「(弾けなかったのかよ……)」


 ヒロトの頭痛は激しくなるばかりであった。

 イギリス人かアメリカ人。ヒロトの予想では、異世界の勇者ジョージ・ハリスン氏はアメリカ人である。根拠はないが、そんな気がした。


 「さて、二人の流人のことは、教科書を漁れば、いくらでも出てくるじゃろう。それよりも、お主のことじゃ。聞かせてもらえるかな?」


 過去の流人の数から言っても、一生のうちに流人と出会える可能性はほとんどない。長いエルフの一生を持ってしても、同じであろう。だからこそ、エンゾは期待に胸を膨らませた。

 そして、その期待は、プレッシャーとなって、ヒロトにも伝わっていた。


 「私の出身は先ほども言った通り、異世界。つまり地球という惑星にある、『日本』という国になります」


 「ほう」


 「惑星」が何かは、エンゾの知識では分からなかったが、夜空に浮かぶ星々の一つという意味だろうか、とひとまずは置いておく。


 「ちなみに、先のアキバ帝国初代皇帝も、おそらくは日本出身者と思われます。もちろん、アキバ帝国を訪れたことはありませんが、他の国と違った、奇妙な習慣や習俗が伝わっているかと」


 ヒロトの勝手な想像だが、大きく間違ってはいないだろうと考えている。テンプレ通りなら、何かやってるはずだと。

テンプレではスク水やメイド服、ファストフードなどが定番だが、現時点では、ヒロトに調べる術はなかった。


 「確かにあの国は奇妙な習慣や祭りなどの伝統が今も残っておる。また、他国に比べて豊かでもあるの」


 「(アキバの初代皇帝氏、頑張ったんだなぁ…)」



 夜はまだまだ長い。


 エンゾには聞きたいこと、知りたいことが無数にあった。


 一方、ヒロトは、ボクサーに殴られ続ける、サンドバッグの気分を味わっていた。

 ヒロトは、我が身の対人スキルの無さに、呆れるしかなかった。37年もの間、他人との対決を避け続けてきた結果が、この様であった。

 弁当の残骸と自分を重ねる悲惨な死に際は、運の良い悪いではなく、必然であったという、諦めすら湧いてきていた。

 

 他人との対決とは、殴り合いや決闘をすることに限らない。自分の存在を、相手にぶつけることである。敵であろうと、愛する人であろうと、とにかく自分という存在をぶつける。

 そして築かれる関係こそが、意味のある人間関係であり、積み重ねていくべきものなのだ。その結果が、人としての厚みであり、やがて格のようなものになるのだろう。


 ヒロトの人としての厚みの何と薄いことか。


 ヒロトは異世界に来て、自分のコンプレックスの源に辿り着いた。

 貧しいことや、キャリアを積めなかったこと、愛すべき人間関係を築けなかったことなどが、コンプレックスなのではなかった。


 他人との対決を避けてきたことが、コンプレックスだったのだ。


 負けた結果ではない。


 負け犬ですらなかったのだ。


 全ては戦わなかった結果であった。

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