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 第1話 「ヒロト・コガ」

【第一章】 ユリジア王国編

 第1話 「ヒロト・コガ」



 随分と長いこと、暗い闇の中を、あてもなく彷徨っていたような気分であった。


 ゆえに、世界は黒であった。


 闇よりも暗い黒。


 かつて、酷く哀しい気分を味わったような気がするが、今となっては何も思い出せない。

 さて、今とは、時間的な意味での今だろうか。

 あるいはもっと別の意味での今なのか。


 過去、冷たい場所で、特別な者たちによって、日々、魂が削られていたような気がする。その「過去」が時間的な意味での過去なのか、「今」と同様、分からない。


 あの苦しみは何だったのだろうか。

 本当に何も思い出せない。


 さっきから眩しく光る、あの白い光は何なのか。

 とても魅力的で、魂ごと惹き寄せられるような気がする。


 なるほど、あれが「未来」か。

 直感で理解した。

 そして――


 突然、明確な「痛み」を思いだした。


 「痛ええああえあえあ――」


 紛れもない痛みであった。


 問答無用の苦痛。


 彼はこの痛みを知っている。それも、ごく最近味わったばかりであった。こんな生きたまま内臓を食われるような痛みを、そうそう何度も味わって堪るものか。

 頭を万力で締め付けられているような痛みによって、彼は全てを思い出した。

37歳の哀れな男は覚醒する。


 古賀裕人。


 それが彼の名前であった。


 何も積み重ねなかった、特別でない者の名前である。


 そして訪れる内臓の傷み。

 視線を腹に移すと、時間が巻き戻るように、組織が再生してゆく。もちろん、ゆっくりとではあるが、確実に組織が再生していた。まさか、この内臓の痛みは、身体が完全に再生するまで続くのだろうか。思わず裕人の口から声が漏れた。


 「いっ、痛、いて、いっ――」


 久しぶりに聞いたような気もするし、ほんの数分前に聞いたような気もする。 懐かしいような、聞き飽きたような、そんな自分の声であった。

 裕人が奥歯を噛み締めるたびに、涙が搾り出されるようであった。もちろん、涙を流したからと言って、痛みが遠のくわけではない。


 「これでも噛んでおけ。歯が全て砕けるぞ」


 噛まされたものは、干し肉であった。塩とわずかな香辛料程度では隠せない、獣臭さが口内に広がった。


 「んぐっ、ぐあ、かっ」


 「これ、少し黙らんか。喧しくて集中できんわい」


 30分ほどであろうか、裕人がひたすら苦痛に耐えていた時間は。気が狂いそうなほどの激痛が、何とか耐えられる程度の痛みに引いてきた。


 裕人は自分が土の地面に横たわっているのが分かった。大の字に広げた手の平の感触と、何より、青い空の色が、ここが屋外であることを教えてくれた。

 夢の中の出来事でないことは、先ほどの激痛が力ずくで理解させてくれた。


 痛みはわずかに残すのみとなったが、全身に力が入らない。

 裕人が視線だけ上に向けると、頭側に老人が立っていた。逆光ではっきりとは分からないが、80歳は越えているのではないか。裕人を真上から見下ろしていた。


 「俺は、助かった、のですか?」


 果たして、声を出せたのかどうか。


 頭はハゲているが、長く白いヒゲが、いかにも老人的で、雰囲気のある黒いマントと相まって、ある意味カッコ良かった。老人はうっすらと青白い光に包まれていた。

 右手には、大きな杖を持っている。おそらく、腰が痛くて持っているわけではないだろう。目的があって、その立派な杖を持っているのだ。

 何の為に持っているのか、およその想像はついた。


 痛む内臓を我慢して、横を向く。

 すると、地面から1cmくらいの高さ、直径70~80cmほどの青白いサークルが裕人の身体の中を通過しながら、ゆっくり回転していた。


 知らぬ者なら、驚天動地の状況が続いているわけだが、裕人は別に驚かない。


 サークルは全部で5個。

 それぞれの輪がそれぞれの速度で回転している。その様子は、複数の歯車が絡み合う、高級手巻き時計の内部構造を思わせた。


 裕人はそれが何かを知っていた。


 彼には、『ゲームしかなかった』から。



 「召喚、錬成…?」



 裕人は、まず、正しく声を出せたことに驚いた。

 魔法陣の中には、血肉の類は落ちていない。つまり、ここではない別の場所から召喚しているのだ。その召喚した血肉を使って、内臓を錬成しているというわけだ。ゆえに、召喚錬成。


 「――いかにも、これは召喚錬成魔法陣であるが……、お主、何故、それを知っておる」


 老人が驚いたのは、裕人がその魔法陣を知っていたからだ。魔術に詳しくない者なら、上級の回復魔術か何かと思ったはずだ。

 しかし、回復魔術と召喚錬成は根本的に違う。回復魔術が「再生」なら、召喚錬成は「新生」と言った方が正しい。


 召喚とは、ここ、つまり、魔法陣内にないものを召喚すること。錬成とは、魔法陣内にあるもの材料にして、別のものを錬成すること。

 召喚錬成とは、この二つを合わせた混合魔術である。

 数ある魔法陣の中でも、一人の魔力で発動できる魔法陣としては、最高峰の難易度を誇る魔術である。


 「最高峰の難易度」、と言っても、理屈が知られているだけで、使える者など歴史的にも、数えるほどしかいない。ましてや、召喚錬成する対象が、人体組織というのだから、その稀少性が伺えた。


 構造としては、召喚魔法陣2個に、錬成魔法陣2個。それを最後の1個の召喚錬成魔法陣が制御するという簡単なものだ。同時使用される魔法陣はわずかに5個 

 しかし、この最後の1個の魔法陣が曲者だ。計算がとにかく複雑な上に、膨大な知識を必要とする。また、召喚魔法陣、錬成魔法陣、双方の深い知識と、それを制御する、職人的な技術も必要である。


 これだけ高い条件が重なると、たった五つの魔法陣なら複数人でやれば簡単である、などとは言えない。

 むしろ、一人の天才魔術師が発動する方が、成功する可能性が高いという、極めて高度で特殊な魔法陣なのだ。


 そして、世界広しと言えど、実際に運用できる者は、この老人をおいて他にはいない。


 「……何でだろう……思い出せない」


 裕人はとっさに記憶喪失を装った。

 その老人が、「神」などではなく、裕人の知る、ゲームや小説の世界に存在する種族、エルフだと直感した――のは、耳が長かったから。ただそれだけである。


 そして、同時に心の底から歓喜した。


 言葉が通じることに。


 老人の言葉が日本語か、それとも脳内変換されているのかは分からない。しかし、そんな細かいことは追々確認していけば良い。

 とにかく今は、見知らぬ土地――否、『異世界』で言葉が通じることに裕人は歓喜した。


 裕人は湧きあがる感情を悟られないように、両手で顔を覆った。知らない内に、元々締まりのない顔の筋肉が、緩みそうになるのを自覚したからだ。傍目には衝撃に打ちのめされている、中年のおっさんとして映ることを期待した。


 内心で、「異世界転移キターーーーッ」と叫びつつも、直後に、死ぬ前の光景を思い出し、凹んだ。


 「特別な」、しかし、ごく普通の幸せな家族連れに、自分が手に入れられなかったものを見せ付けられ、愕然としたことが思い出された。そして、それが原因で、猛スピードで接近するトラックに気付くのが遅れた。


 「(テンプレなら子猫くらい助けるだろうに、ただ轢かれるとか、完全なアホ――どころか、傍迷惑過ぎるだろ……)」


 自分の両親や、運転手の関係者のことなどを考えていると、どんよりとした気分になる。しかし、自己嫌悪に陥りつつも、どこか心の声に救いがあるのは、異世界転移した自分を、「特別な」存在と思えたからだろうか。


 古賀裕人は、性格としては、どちらかと言えば根暗な方だが、基本的には楽天家である。「根暗な楽天家」が肯定的な意味なのか、否定的な意味なのかは、論を分けるとして。

 ただ、裕人のもつ悪徳として、「良くない状況に流されているのに、善後策を練ることをしない」というのがあった。

 人生は山あり谷ありだが、谷の時に上がろうとしないので、谷の底はどんどん下に抜けていった。裕人の半生を要約すれば、そんな感じだろうか。


 現在、古賀裕人は意味不明の状況に流されているのに、簡単に「異世界」を受け入れ、流されるままになっている。テンプレがどうのこうのと浮かれている場合ではないだろうに。


 「そうか。しかし、それにしても、お主は運が良い。世界一の大魔導師が居合わせたのだからな」


 「はぁ、あ、ありがとうございます」


 裕人の記憶喪失を装った演技が上手く通じたのだろうか。


 常識的に考えて、もっと驚くべきであったろう。何故なら、例え、そこが異世界であったとしても、内臓をブチ撒け、穴の開いた腹が、体感で1時間もしないうちに塞がったのだから。


 彼は、素直に驚くことや、感謝することを、敗北か何かと勘違いしているのだろうか。


 「あんな、ところで一角牛にでもっ、背中を――うゲェロロロェロッ~~ッ」


 突然、老人の口から噴水のように、ゲロが吐き出された。


 それは、そのまま真下にいた裕人の顔にビチャビチャと――。



 ◇◆◆◆◇



 「いや、本当にすまんかった」


 老人が頭を下げる。


 「(エルフ族は禿げないイメージだったが、ちゃんと禿げるんだな……)」


 などと下らないことを考えていた。


 エルフの家が何の変哲もない一軒家のわけもなく。近代建築的な意味においては簡素であったが、大きな木を繰り抜いて作られた家は、どこか秘密基地のような楽しさがあった。

 裕人が「(これぞエルフの家!)」とガッツポーズをしたことに、老人は気付かない。


 老人曰く、部屋は全部で4つ。それほど広くは無いが、推定樹齢数千年の木は大きく、拡張しようと思えば、上へ上へと、いくらでも部屋は増やせそうだった。老人の一人暮らし、掃除の手間を考えるなら、四部屋でもむしろ広過ぎるくらいだろう。

 その中の一室、ゲストルームだろうか、シンプルな部屋の、シンプルなベッドに裕人は寝かせられていた。


 「いえ、井戸も貸して戴けましたし、服までも。命を助けてもらった恩を考えれば、毎日ゲロを浴びても文句はありません」


 やはり少し浮かれているのだろう。

 裕人は普段、初めて会った人に対して、そんな軽口を叩くような男ではない。


 井戸の前で、動かない身体に何度も水を掛けられた。ゲロと血と汗と泥、それらを洗い流す為に。


 ちなみに、水は全て老人の魔術によって作られた。井戸の側だと楽に出来るらしい。それでも、脂汗を流しながら、肩で息をしていたが。


 「(技術はともかく、魔力量的には少ないのかも知れない)」


 と、裕人は脳内にメモをする。

 召喚錬成を成功させた老人が、その辺の下手な魔術師だとは思ってもいないが、人には得手不得手がある。老人の魔術の知識は豊富だが、魔力量は少ないと見たのだ。


 「(都合が良い。貴方の知識、全て吸収させて貰おう)」


 相手と会話をして、親しくなって、希望を伝えて、その結果として魔術を教えてもらおうなどとは、丸っと考えない37歳古賀裕人。

 良い歳をして、勝手に老人のキャラ設定を脳内に作り上げ、都合の良い未来ばかりを期待する。


 老人から目を離して、周りを見渡す。調度品は素朴な中にも、高い技術で作られたことが伺えるものばかりであった。

 老人はシンプルな部屋のシンプルな家具、その一脚にゆっくりと座る。


 「それにしてもお主、あんなところで、何をしていたんじゃ? 一角牛にでも付き飛ばされたか?」


 「それが、全く記憶がないのです。何であそこにいたのか」


 先ほどから必死で考えていた自分の設定を伝える。


 とは言え、それは博人が初めて考えたというわけではなく、知識の中にあった、小説やゲームのテンプレ設定の流用だ。

 テンプレの汎用性の高さに、転移前は「また、何万煎じ目かのテンプレ設定か」と小馬鹿にしていたことを反省する。


 テンプレは役に立つ。


 それが裕人の素直な感想だ。

 裕人にとってはテンプレであっても、異世界の人間にとっては、テンプレなんて知る由もない。

 ただし、問題はテンプレ以外にあった。


 「名前、歳、出身も全てか?」


 「名前はヒロト・コガです。助けて頂いて、本当にありがとうございました。しかし、自分には何も返せるものがありません」


 「ああ、ヒロト、金ならいらんぞ。捨てるほどある。わしの名はエンゾ・シュバイツ。真エルフの末裔にして、英知の泉――アラト一の『大魔導師』である」


 冗談を言っているわけではなさそうであった。事実なのか、自信家なのか、そういう文化なのか。少なくとも相当に優秀な魔術師だということは、間違いなさそうであった。それは命を助けてもらった裕人が一番理解している。

 ちなみに、真エルフとは、エルフ族以外の血が入っていない、エルフ族の純粋血統の意である。


 「歳は37歳。出身が思い出せません」


 「37歳? 良いとこ18歳くらいじゃろうて。それで37歳は、人族にしてはあり得んぞ。ああ、わしは251歳じゃ」


 「に、にひゃっ! 失礼しました。私は17歳です。何だか、上手く呂律が回っていないようです」


 言われて気付いたが、手の甲の皮膚の張りが、若者のそれであった。裕人は鏡が欲しいと思ったが、今、鏡を要求すれば、異変に気付かれると思い、嘘を重ねた。

 この世界で生きていくなら、自分の年齢プラス20年というのは、計算しやすいと、裕人は咄嗟に判断し、17歳とした。


 エルフが長生きだというのは、良くあるテンプレだが、実際に251歳と言われると、なかなかに迫力であった。

 実年齢37歳とは言っても、人に揉まれた経験の少ない裕人は、老人の迫力が伝わるのみで、底を知る手段を持たない。


 「そうか、17か。まぁ、そんなところか」


 エンゾは、裕人が嘘をついていることは見逃すつもりだったが、さすがに37歳はないだろうと、思わず突っ込んでしまったのだ。

 裕人の嘘など、とっくに気付いているのだが、老人には老人の都合と、思惑があるのだろう。


 裕人の問題はここにあった。

 つまり、裕人は相手が何者であるかも知らないのに、テンプレを流用し、軽い気持ちで嘘をついたばかりか、それが通用していると考えているのだ。

 ようは、「俺の嘘くらいバレているだろう」という、当たり前の感覚が欠けている。人間関係における経験不足、その一言であった。


 (地球に限らず)社会とは様々な世代、様々な人間によって形作られている。バラエティに富んでいるとも言えるし、複雑怪奇とも言える。裕人の人生経験は、ごく限られた狭い世界で成立していた為、経験値が圧倒的に足りないのだ。

 しかも、相手は「大魔導師」を自称する者である。裕人の口から出任せ程度、話す前から丸裸も同然と考えるのが自然だ。


 「命を助けられた上に、本当に申し訳ないのですが、何だか、身体に全く力が入りません。出来れば、少し眠らせて頂けないでしょうか。今後、出来る限りのお礼はさせて頂きますので」


 「うむ、それが良いの。晩飯まで眠ると良い」


 「本当にありがとうございます」


 シンプルな椅子から立ち上がると、エンゾは静かに部屋を出て行った。


 裕人が全身に力が入らなかったのは事実だ。

 痺れているわけではないのだが、例えば血とか、空気とか、身体を正常に動かす為の何かが、決定的に足りないような感じであった。


 もっとも、内臓破裂どころか、ブチ撒けた状態から復活したのだ。例え、高位の大魔術とはいえ、痛覚神経がおかしくなるほどの痛みも味わった。さすがに、体力はかなり消耗したようであった。

 眠る前に、自分の設定を確認しようとするも、気を失うように眠ってしまった。


 しかし、眠りに落ちる寸前、裕人は願った。


 「(また同じ夢が見られると良いな…)」


 夢ではなく、異世界転移だと確信していながらも、自分を「特別な」存在だとは思えない、臆病者の言い訳だろうか。


 願いが叶わなかった場合、あるいは、期待していた未来と違っていた場合に備えて、予め期待値を下げておくという、裕人の哀しい処世術である。

 裕人が37年の人生で学んだことなど、その程度であった。



 ◇◆◆◆◇



 「あれは流人じゃな」


 エンゾはゆったりと、お気に入りの安楽椅子を揺らしながら、一人つぶやいた。


 ヒゲの先にミルクティーが少しついているのは、最近、町に出掛ける機会がなかった為だ。伸びた口ヒゲを揃えていないのだ。エンゾは外出する時でないと、ヒゲは整えず、放置するタイプのエルフであった。

 ティーカップをテーブルに置き、器に入った木の実を2~3個取り出す。慣れた様子で、口に放り込み、コリコリと齧る。


 「(それにしても、どうしたものかのぅ)」


 流人とは一般には、流刑人、すなわち、追放刑の者を指す。もしくは、言葉通り、故郷を失った流浪人などを蔑視した言葉。

 しかし、一般に知られている意味とは別に、もう一つ意味があった。


 それは、「異世界から流れてきた者」という意味である。


 エンゾがそう考えたのは、召喚錬成の際、召喚魔法陣が最初全く動かなかったからだ。

 召喚錬成は、召喚と錬成の二つの魔術を合わせた混合魔術である。召喚魔法陣が正常に発動し、裕人の失われた血肉を召喚出来なければ、錬成魔法陣も発動しない。材料が無ければ、動きようがないからだ。その最初の段階で、召喚魔法陣が発動しなかったのだ。

 考えられる理由は二つ。一つは召喚しようとするものが存在しない。二つ目は魔力が足りない、である。


 ヒロトの内臓が生まれた時から無かったわけはないので、魔力が足りなかったということである。

 魔力がエンゾの想定以上に必要となった理由は、ヒロトが流人で、ヒロトの血肉が異世界にあった為、召喚する為の魔力が膨大になった、といったところだろう。


 エンゾの召喚魔法陣は特別製で、例え、錬成の材料が100km先にあろうと、別大陸にあろうと、壁にこびりついた血肉ですら、召喚する。

 エンゾがこの世界で召喚できないものは、その血肉を別の生物が食べてしまい、組織変化を起こした場合や、同じく時間経過によって変質した場合くらいであろうか。


 しかし、その場合でも、魔法陣が発動しないということはない。召喚するだけ召喚して、錬成の際に「足りない」という結果になるのだ。例えば、失われた腕を召喚錬成しようとして、血肉が足りず、元よりも、細い腕になった、などである。


 裕人の失われた血肉を召喚する際に、召喚魔法陣が異常な魔力を要求した為、エンゾは己の魔力を、全て吸い取られるのではと錯覚したほどであった。

 「まずい!」と思って、召喚魔法陣に魔力を注ぐのを止めようとした時、やっと動き出し、ホッとしたのだった。


 「ヒロトの血肉がこの世界にあるのなら、あそこまで魔力を取られることはない」


 裕人に向かって嘔吐したのは、急激な魔力欠乏によって引き起こされたものであった。何しろ、以前魔力欠乏に陥ったのは、100年以上も前のことである。感覚を忘れていたのだ。さらに、エンゾは経験上、召喚魔法によって、今回ほど魔力を使ったことはなかった。そのことも原因の一つだろう。


 魔術師にとって、魔力の残量は死活問題なので、常に意識している。それは宮廷魔術師10人分以上の魔力量を誇るエンゾであっても同じである。魔力欠乏に陥るなど、修行時代や実験中の事故を除けば、エンゾにとってはあり得ないことであった。ましてや、対象に吐瀉物を撒き散らす醜態を晒すなど。


 その為、先の結論に行き着いたのだ。この世界にない血肉を要求した為、想定以上の魔力を必要とされたのだと。


 「それでも」とエンゾの右のヒゲが、ニヤリと笑ったように、持ち上がる。

つまり、わずかな量ではあったが、図らずも、血肉の異世界召喚に成功したことを誇っているのだ。わずかとは言っても、血も入れれば、5kg近くはあっただろう。

 エンゾが持っていた杖には、大きな魔石が使われている為、外部魔力の役割もあるが、それを使わなかったのもプライドゆえである。


 魔石も使わず、己の魔力だけで、血肉の異世界召喚に成功したことは、魔術師としては、十分に誇ってしかるべき成果である。


 お陰で、魔力をほとんど使い果たし、裕人の身体を洗おうとした時は、水魔術ごときで気を失いそうになった。さすがに水魔術を失敗するなど、大魔導師を自認するエンゾは耐えられなかった為、別の方法に切り替えた。


 肩で息をしながら、何とか裕人を井戸の側まで連れて行き、そこで水魔術ではなく、召喚魔術で井戸の水を手元から召喚した次第である。

 召喚魔術は、召喚したいものが近くにあるほど、消費魔力を減らすことが出来るからだ。


 「まぁ、最初から奇妙ではあった」


 裕人の周りには血肉は落ちていなかった。つまり、ここではない別の場所で腹を貫かれたということを意味していた。エンゾは最初、腹のない死体が忽然と現れた、という印象を受けた。


 発見場所は、エンゾの家から50mほど離れた森の一箇所。人が歩くような道はない。しかし、一帯の山々はエンゾの持ち物であり、半径50m程度は庭のようなものである。


 突然、異様な魔力波を感じ、エンゾが急いで現場に駆けつけると、腹の抉られた死体――のように、その時は見えた――が転がっていた。確認すると、心臓がわずかに動いていた為、戸板に乗せて、家の前まで運んだというわけだ。


 死体なら、あり得たかもしれない。

 別の場所で腹を抉られ、捨てられたと。しかし、裕人が生きていた以上、攻撃を受けて、それほど時間は経っていない。血肉の痕跡を全く残さず、そんなことが可能か不可能かは、常識で考えれば分かることであった。


 生きているのなら、見捨てるのも忍びないと、随分使っていない召喚錬成を久しぶりにやってみようと思い立ったのだ。


 当たり前だが、エンゾが『流人』を見たのは初めてである。流人がどんな経緯でアラト、つまりこの世界に流れてくるのかも知らない。一応、過去に流人を調べたことがあり、召喚魔法によって召喚可能であることは知っている。しかし、辺りに召喚魔法陣などなく、誰かが意思を持って呼んだわけではないことは一目瞭然であった。ただ何の前触れもなく、忽然と現れたようであった。


 神の奇跡としか思えないような、そんな恐るべき確率で起きた偶然の為せる技だろうか。それともヒロトは何かを隠しているのだろうか。可能性は様々考えられるが、想像の域は出ない。


 エンゾは裕人が嘘をついていることに気付いている。251年も生きたエルフの観察眼を、簡単に欺けるものではない。しかし、エンゾとしては、久しぶりに興味が湧いた為、裕人の嘘に付き合ったのだ。


 目下、どうやって自分から話をさせようかと作戦立案中である。無理矢理聞き出すのは趣味ではなかった。


 「お迎えも近いと、森に引きこもっておったが、長生きはするもんじゃのぅ。30年以上ぶりになるか、レベルが上がったのは。ただそれだけのことで、何やら、生きる気力が湧いてくるようじゃ。くふふふ」


 楽しそうに、独り言を呟いた。


 いつもの独り言よりも、声のトーンが高く、音量も大きかった件については、251歳のエンゾも無意識であった。

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