第11話 「コーヴェンとセレナ」
タレス伯爵の城があるタレス村は、ホラントの東の街道をまっすぐ行った先にあった。
タレス村というその名の通り、タレス伯爵領で最も古い村である。村と言いながら、ホラントの町よりも大きいのはご愛嬌。
さすがは伯爵の城下町と言ったところか。
城へと続く本通りを、エンゾとヒロトの二人はのんびり歩いていた。もちろん、歩きながらも、魔術の訓練は欠かさない。これはもう、二人のクセのようなものである。
二人はタレス村にある、馬車の駅まで、定期便の乗合馬車に乗ってやって来た。駅は語源通り、馬車を引く馬の休憩地である。そこからは徒歩で進む。
旅を続けるなら、小さな馬車でも買って、御者でも雇おうかという話になったのは、昨晩のこと。エンゾは馬に乗れるが、ヒロトは乗れない。
「乗馬の経験はありませんが、興味はあります。今回は乗合馬車で済ませて、王都で馬を買うというのはどうでしょう」
「構わんよ。地球には、自動車というのがあったんじゃったな。馬市で買うなら、馬主に乗り方を教えて貰うのが良いじゃろう」
以前、ヒロトがブレピーで自動車の画像を見せたことがあった。その時、エンゾは大いに興味を持ち、エンジンの大まかな構造を理解した後、こう言った。
「機械のみで再現は難しいかも知れんが、『魔導えんじん』というのはアリかも知れんの。魔道具屋が知ったら、涎を垂らしそうじゃ」
エンジンは、外燃機関と内燃機関とに分けられる。一般的には、燃料を燃やして、熱エネルギーでピストンを動かすものを指す。
しかし、アラトには外燃機関である、蒸気機関さえ存在しないという。当然、内燃機関も存在しない。
地球ではワットの蒸気機関が有名だが、その1700年ほど前に、ヘロンの蒸気機関というものが、古代アレクサンドリアで発明されている。つまり、地球人は、1700年で、産業革命を起こすほどの外燃機関を作ったのだ。途中、技術的、宗教的、社会的な壁がいくつもあったはずである。
そう考えると、アラトは遅れている――というより、自然科学の芽すら存在しない可能性が高い。魔力以外の自然現象は地球とほぼ変わらないのに、何とも奇妙な世界である。
現在、ヒロトがいるアラト世界は、コーカ暦1815年である。ユウキがアキバ帝国を建国してからすら、1000年が経っている。アラトの住人や、ユウキは一体、何をしていたのか。
ヒロトは何となく、分かるような気がした。
ユウキは、アラトを「進歩」させたいとは、思わなかったのではないか。帝国を築くほどの俺TUEEEをやっておきながら、自然科学分野については、ある種の哲学的、倫理的抑制でもって、アラトに伝えていないように感じられた。
エンゾがいみじくも「魔導えんじんなら」と言ったように、アラト人は魔術でどうにかしようと考える傾向があるのだ。それ自体、良いも悪いもない。人は、科学技術を進歩させる為だけに、生きているわけではないからだ。
全ては、まず魔術ありき。
思考停止と言えば思考停止だし、硬直と言えば硬直かも知れない。しかし、ヒロトは、そのアラト独特の文化が嫌いではない。異国情緒を超えた、異世界情緒とでも言おうか。今、自分は異世界に生きている、と実感出来るからだ。
「(ユウキは単純な俺TUEEE主人公かと思っていたが、ますます興味が湧いた)」
タレス伯爵の城が見えてきた。
城はまだ先だが、この先は城への一本道になる、というポイントに、簡易的な門が建っていた。一応、低い石塀が続いているが、城塞都市という印象ではない。異民族や魔物の襲撃は考慮されていないのだろうか。
「わしらはこういうもんじゃ。今日、訪れることは、コーヴェンには伝えてある。これがギルド証とコーヴェンの招待状じゃ」
門兵が緊張した様子で、エンゾとヒロトのギルドカードを受け取る。領主から事前に言われていたのだろう。恐ろしく丁寧な対応で、二人は門を通された。
「まぁ、一応、伯爵じゃからな。これくらい厳重なんじゃ」
エンゾの視線の先には、物見やぐらがあった。侵入者を見つける為だろう。
エンゾは厳重だと言ったが、ヒロトには到底厳重には思えなかった。異民族どころか、魔物までいる世界である。地球なら中世のイメージだが、それにしては温い。日本の戦国時代のように、異民族も魔物もない世界なら、城の周りに城下町が出来るのだろうが、大陸では壁で囲まれた、城塞都市が常識だ。都市は壁の内側に作られるのだ。
ヒロトには、物見やぐらが、むしろ牧歌的なのんびりしたもののように感じられた。
さらに進むと、もう一つ門があって、そこからは、近衛と思われる、門兵よりも強そうな男に引率された。
ヒロトは城壁を見上げる。
防衛上の為と、生活排水を流す為だろうか、城壁の周りには堀が掘られていた。橋が架けられ、城内に入る。
すぐに目に入った建物は、城というよりは、ヨーロッパの白亜の大邸宅、といった感じである。さすがに城の周りの城壁は堅固で立派だったが、城壁を越えられたら、後はどうしようもないと諦めている印象を受けた。
やはり、ヒロトの予想通り、城壁の中に都市があるわけではなかった。高い城壁の中は、タレス伯爵とその関係者しか住んでいないようだ。あとは、伯爵の私兵や守備隊の宿舎らしき建物や、厩舎があるくらいだろうか。
城に入ってから、客が待つ待合室のような部屋で待たされた。
「(調度品も立派だけど、メイドさんも美人だ)」
城勤めのメイド長と思われる美人と執事らしき男が、エンゾとヒロトに挨拶をする。メイド長は40歳くらいだろうか。執事は、ヒロトが「執事」という言葉で連想するイメージそのままの年恰好であった。
「本日はようこそ、おいでくださいました。主もすぐに参りますので、今しばらくお待ちください」
重くもなく、軽くもない声質が、執事の優秀性を物語っているようであった。
その言葉が合図であったのか、メイド服――だが、メイド長よりも下の者と分かるメイド服を着た少女が、ワゴンに載せた紅茶と茶菓子を持ってきた。
「何かございましたら、この者にお言いつけください」
メイド長と執事は挨拶をした後、退出した。
「(うむ、特にイベントは起きないようだ)」
ドジなメイドが、部屋に入るなり、飲み物をブチ撒けるようなイベントは起きなかった。メイド少女は視線を下げたまま、二人に目を合わそうとはしない。特に理由はなく、メイドとはそういう仕事なのだろう。
整った顔をした人族の少女である。着ているメイド服は、テンプレにあるような、フワフワしたものではない。色こそ黒白ツートンカラーだが、デザインはすっきりとした、細身のシルエットだ。エプロンにも、飾りレースなどはない。カチューシャではなく、帽子であった。
「(昔映画で見た、女性看護師の雰囲気に似ているかな)」
ヒロトが考えていたのは、昔のテンプレの主人公達は、どうしてメイド服にこだわっていたのだろうか、という点であった。
キャラがことごとく巨乳だったのも謎だ。
テンプレに登場するキャラたちは、一様に、「貴様はメイド服の良さが分からんのか~ッ!」などと言いながらメイド服に執着していたが、テンプレだから執着するのか、執着するからテンプレなのか、2031年に生きたヒロトにとっては、ひたすらに不可解であった。
10分ほど過ぎた時、扉がノックされ、40歳くらいの領主が入ってきた。
別段、太った豚ガエルでもないし、金ピカでもなかったが、一目で高貴な血統と知れる貴族であった。
どう見ても、普通の貴族であり、普通の領主であった。テンプレにあるような、頭のおかしな領主が、そうそういるわけがない。
テンプレイベントが起きる気配はまるでない。
「エンゾ・シュバイツ殿! 久しいな!」
ヒロトはほとんど条件反射的に、相手が気付きにくい、足首辺りを狙って、魔力波を放った。
(1)RaC:HUM
(2)LvP:34
(3)SkL:8
(4)MgP:513/519
「(平均よりはちょっと魔力容量が多いけど、やっぱ、普通の人だな)」
「コーヴェン、お主はいつも声がデカい。わしは人族と違って、耳が遠くなったりはせんぞ」
「はははは。エンゾ殿は相変わらずだな。250歳を超えて、ジョークにもますます円熟を感じさせる」
ピクピクと大きなエルフ耳を動かすエンゾ。
そんな特技があったのかと衝撃を受けているヒロトに、エンゾが目線で合図を送る。
「本日は、私までお招き頂き、ありがとうございます。目指すは魔道の極み、『大魔導師』エンゾ・シュバイツが弟子、ヒロト・コガと申します」
「そなたが、『大魔導師最後の弟子』と噂のヒロト殿か! なかなかの面構え――ではないかなぁ」
顔のことは、ヒロトとしても自覚がある。日本では平均以下であった。テンプレと違って、黒髪黒目が特に何の価値もないことも、10ヶ月もアラトで暮らせば、十分に理解している。
しかし、この場合は、明らかにコーヴェンのジョークである。と来れば、怒ったり、落ち込んだりは下策。突っ込むのも、失礼に当たる可能性がある。そこで、ヒロトはボケ返すことに決めた。
ヒロトは一瞬で巨大な魔力を集めると、魔力のみを自身の周囲に展開する。多少なりとも魔術の知識があれば、間違いなく腰を抜かすほどの魔力量である。魔術を展開すればシャレにならないが、魔力のみなら、ボケ返しとしては、許されるだろう。
桁外れの魔力が、物理的な圧力を伴って、タレス伯爵に迫る。
「じょっ、じょ、冗談だ。わははは。さすがは『大魔導師最後の弟子』ヒロト殿だ。その若さで、魔人並みの魔力量とは、本当に恐れ入った」
「さっきから、最後最後と、わしはまだまだ生きるつもりじゃぞ、コーヴェンよ」
「わははっは。相変わらず、元気な魔術師様だ。まぁ、ここで話し込むのも楽しいが、とりあえず、客室に行こうか。こっちだ」
若いメイドは、依然として目線を上げず、タレス伯爵から少し遅れて、二人をエスコートする。どういう意味があるのか、とにかく目線を上げない。ヒロトに分かるはずもないが、興味深い習慣だと、観察を続ける。
「ほぅ、ヒロト殿に、あの大森林を……」
「お主には伝えておかねばと思うてな。一応はわしの森じゃが、後見はコーヴェンじゃからな。これから国王にも伝えるつもりじゃよ」
別名「シュバイツ大森林」は、エンゾが生きている限り、エンゾの土地であるが、エンゾが死ねば、後見のコーヴェン・タレスが受け継ぐことになっていた。
エンゾには血縁がいない為、いつかはタレス家のものとなるはずだったが、ヒロトに譲ったので、その芽はなくなった、と伝えたのだ。
シュバイツ大森林は戦争の報酬として、当時の国王より賜ったものである。その為、純粋なエンゾの資産と言える。一代男爵という役職にある為に受け取ったものではない。
「失礼は承知だが、ヒロト殿は間違いなく、A級かS級になるのだろうな。一代男爵が資産を生前贈与するのは面倒だぞ」
コーヴェンの指摘は間違っている。シュバイツ大森林は純粋なエンゾの土地だからだ。エンゾが一代男爵だから受けた土地ではない。つまり、ヒロトがS級になろうが、なるまいが、関係のないことである。
エンゾが国王より土地を賜ったのも大昔だが、一代男爵になったのも大昔だ。いずれもコーヴェンが生まれる前の話の為、勘違いしているのだろうか。
「実力では既にわしを超えとるよ。こやつ以外に、わしの財産を継がせる者などおらんわい。王都で養子縁組の予定じゃ」
「(!?)」
突然のことに、ヒロトはびっくりした。実力云々の話ではない。もちろん、養子縁組の件が初耳だったからだ。
しかし、それもそうかと、すぐに納得した。つまり、一代限りとは言え、男爵と同等の権威を持つ者が、広大な土地を、赤の他人に譲るのは、あり得ないのだろうと。
「なっ! 何と、それは本当か!?」
「嘘を言ってどうする」
「(こんな時、どういう顔をすれば良いのやら…)」
どうやら、コーヴェンは勘違いしていたわけではなく、エンゾが森を譲る相手の「格」を問題にしていたようだ。ようは、譲るなら譲るで、後々禍根が残らぬように、相応の相手にして欲しい、ということである。A級やS級になれるほどの弟子になら、コーヴェンとしても、好きにして構わないと思っているのだろう。
「S級推薦でB級デビューした後、まだ、ランクはそのままだと聞いているが」
「誰に聞いたか知らんが、ギルドの依頼を受けておらんのだから、仕方ないのぅ」
「師匠、一応、9件受けています」
「まぁ、そういうことじゃ。迷宮に入る前に、A級に上げておこうと思っとる」
「つまり、依頼を受けさえすれば、すぐに上がると」
コーヴェンは冒険者ギルドの全て把握しているわけではない。また、自身も冒険者の経験はない。
あくまでもコーヴェンは優れた事務処理能力と、統治能力で、伯爵領を治めているのだ。そのことに関しては、領民の信頼もあつい。
その一方で、魔力的、戦闘能力的には、凡庸な男であった。今が戦乱の世であれば、一転、領民の評価も変わったかもしれない。
しかし、戦闘に関して凡庸であるからこそ、A級がどれほどのものか、誰よりも知っているつもりであった。男に生まれた以上、強者に対しては、ある種の尊敬に似た感情も抱いているのだ。
兵の編成などは得意分野であったが、その経験から、確信していることがあった。
こと戦闘能力に関しては、A級以上の者は、化物であると。
「(この若者が、S級のエンゾ殿を超えると? 迷宮に入る前に、A級に上げておく? A級はそんな簡単なものなのか?)」
コーヴェンのA級冒険者というものに対する認識が、揺らぎそうであった。
「まぁの。わしが頼んで弟子にしたやつよ。冒険者ランクなんぞ、大した意味はないわい」
『大魔導師』が自ら頼んで弟子にしたと聞いて、コーヴェンのヒロトを見る目に力がこもる。エンゾ・シュバイツが冗談でそんなことを言うわけが無いと知っているからだ。
「(魔力波は感じないが…、何か、変な感じの視線だな)」
自分の魔力を対象に通す『鑑定』とは違うようであった。ヒロトは魔力も飛ばしていないし、魔術も展開していないので、『解析』でもない。
「(アラトには『魔眼』なんかも、あったりするのかね)」
「……さっき、エンゾ殿は旅に出ると言われたな」
コーヴェンの声音が少し低くなった。
「うむ」
「旅の前に、清算出来るものは清算しておこうということか。本当に最後の旅にするつもりなのか?」
「かも知れんの。まぁ、実際、わしも歳じゃ。こやつと最後に迷宮を巡ってみるのも悪くないと思っての」
「……それは、セレナには言えんなぁ」
コーヴェンはソファに深く座り直し、腕を組んで考え込んでしまった。特に考え込むようなことはないはずであった。単に、エンゾがヒロトに森を譲る、というだけの話である。何も問題はない。
問題は、目の前に、S級クラスの実力を持った魔術師が、二人もいるという事実である。S級など、マレ大陸中を探しても、五人といないレベルである。一国の軍隊に匹敵するのだ。それが、二人も揃って、のんびり国外に旅に出ると? それは本当に許されるのか?
S級クラスの冒険者が、一代男爵に任じられるというシステムは、為政者にとって、実は都合の良いシステムでもあるのだ。土地や年金を与え、国家級戦力をひと所に落ち着かせる為だ。なればこそ、貴族年金の半分はその国、エンゾの場合はユリジア王国が払っているわけである。
その時、ノックもなしに、客室の扉が、壊れそうな音をたてて開いた。
「父上っ! どうしてエンゾ様が来られることを、私に知らせてくれなかったのですか!?」
◇◆◆◆◇
「感情表現の豊かな子」と、地球の教師なら、成績表の総評欄に書いたかも知れない。
セレナ・タレスは王都の高等学院、魔術科に通う14歳。学年末で伯爵領に帰ってきていた。
顔は美人である。少々刺々しい印象を受けるが、それは別の問題であろう。編んだ、美しい銀髪を後ろに垂らしている。身長はスラリと高く、170cmくらい。パッと見は17~18歳に見えるかも知れない。事実、ヒロトは、「同年代かな?」と考えていた。
コーヴェンがエンゾとの話の大まかなところを説明すると、哀しい表情になったり、憤慨したり、とにかく忙しかった。
通常、14歳の娘に大人同士の話を聞かせることなどない。業務上の機密などが含まれる場合もあるからだ。しかし、今回は例外であったようだ。
セレナ・タレスはエンゾ・シュバイツの信奉者であった。
もちろん、『大魔導師』と呼ばれ、150年以上もS級冒険者をやっているエンゾのことを、尊敬の念を持って接する者は多い。セレナはその度合いが少々強すぎる傾向があるだけである。学院の魔術科所属という点も、少なくない影響を及ぼしているかもしれない。
以前、セレナは父コーヴェンに頼み込み、エンゾを家庭教師にすることを強く要求したことがあった。コーヴェンが折れる形で、エンゾに頼んだが、すげなく断られた。コーヴェンから結果を伝えられたセレナは、その場で泣き崩れた。
それから数ヶ月後のことである。心の傷も癒えて、学院で日々魔術の研鑽に励んでいた頃、どういう経緯で出席したのかも忘れた、パーティーの席で、セレナは衝撃的なことを聞かされたのだ。
王都騎士団所属のマルコ・ディランから聞かされたのは、大きく三点。
(1)ヒロト・コガという者が、エンゾの弟子になったこと
(2)どこの馬の骨とも分からない男であること
(3)エンゾが、自ら頼んで弟子にしたらしいこと
頭にカッと血が昇ったセレナは、パーティー会場で大暴れ。怪我人が出なかったのは幸運であったが、その件で、タレス伯爵は、様々なパーティーや茶会に出席するたびに、周辺貴族たちに頭を下げ続けたという。
セレナは冒険者ギルドのツテを辿って、聞きだせるギリギリの個人情報を得ていた。もちろん、ヒロト・コガについての情報だ。
コーヴェンも、ヒロトがB級デビューした後、依頼達成に熱心じゃないことを、セレナから聞かされて知っていた。
実際は9件も、ほとんどソロで達成しているにも関わらず、何故か「熱心ではない」という噂が冒険者たちの間で立っていた。ギルドにあまり立ち寄らないせいだろう。
ヒロトはすがるように、コーヴェンの方を見るが、腕を組んだまま、目を閉じている。
(1)RaC:HUM
(2)LvP:28
(3)SkL:9
(4)MgP:1389/1421
「あの、宜しければ、とうして私を睨むのか、教えていただけませんか?」
魔力容量1421は、エンゾを除けば、ヒロトが出会った中では最大であった。ヒロトはまだ、職業魔術師に会っていないので、正確なところは不明だったが、宮廷魔術師の魔力容量が1500~2000くらいと聞いていた。
「(自信あったんだろうなぁ…)」
もちろん、理由は分かっている。セレナはエンゾを慕っていて、家庭教師を断られた過去がある。そこへ、ヒロトがどこからか転がり込んで来て、『大魔導師の弟子』を名乗っている。ようは、嫉妬しているのだ。
他人の感情に鈍感なヒロトにも、そのくらいは理解できるが、ヒロトとしても、今更どうにかできることでもない。だから、これ以上睨むのはよしてくれ、という意味で問うたのだ。
「ヒロト・コガさん、私とお手合わせ願えません? 私はあなたに少々興味があるのです」
「痛いのは苦手なので、怪我をしない程度なら」
ヒロトは全力で断りたいところだが、断り方が分からない。エンゾ以外の魔術師を知らないので、いくらか興味があることも否定はしないが、現実問題、接待模擬戦は「ゲームですら」得意ではなかった。
ヒロトはエンゾとは何度か模擬戦をやったことがあったが、セレナがエンゾ以上に強いはずがない。エンゾとの模擬戦は、詰め将棋の後手持ち(詰められる側)の楽しさがあるが、セレナ相手では、期待薄だろう。とするなら、セレナとの模擬戦は完全な接待になる。
ヒロトにとって、何一つメリットがないばかりか、万が一、セレナに怪我でも負わせれば、伯爵家に対して、ただでさえエンゾの弟子の件もあるのに、さらに余計な恨みを買いかねない。
ヒロトは「無理無理無理無理」と全力回避できたら、どんなに楽だろうかと考えていた。
「あら、エンゾ様の弟子でありながら、たかが学院の小娘の魔術を恐れるのですか?」
「いえ…そういうわけでは…」
「イベントキターーーーッ」と無邪気に喜べる状況ではない――にも関わらず、一方では、「この子の頭をスパッと『風の大鎌』でブッタ斬ったら気分良いだろうなぁ…」とも考えていた。
人間関係で面倒なことが起きると、その場をめちゃくちゃにしてリセットしたい衝動に駆られるという、ヒロトの悪い癖であった。
現実には不可能なことを妄想し、実現不可能なことがストレスになるから、さらに人間関係が希薄になるという、悪循環である。
ストレスフリーな人間関係など存在しないのに、頭のどこかでそれを望んでいる。
「すまんが、セレナさん。わしが見てきた限り、ヒロトは手加減があまり上手くない。大怪我でもさせたら大変じゃ。やめておきなさい」
「(師匠、それは仲裁になっていませんよ…)」
案の定、セレナの表情が一変した――というより、元々、必死に隠していた表情が、エンゾの言葉で隠せなくなった、というところか。
ヒロトも覚悟を決めるべきであった。ヒロトは『大魔導師の弟子』という責任を果たさなくてはならない。渡世の義理は果たすべきなのだ。
「(つまりは、それが「生きている」ということなんだろうな)」
ヒロトは、再び一瞬で巨大な魔力を集めると、自身の全身からゆっくりと魔力を立ち昇らせる。もし、魔力に火属性を持たせていたなら、全身が燃えているように見えたかもしれない。
「ッ!!」
セレナは、ヒロトの魔力の奔流に圧倒されるも、わずかに足を引いただけで、何とか耐えた。
「良いでしょう。ただし、『大魔導師の弟子』と手合わせするのですから、腕の一本や二本は覚悟してもらいますよ」
「は、伯爵の娘にそんなことをして、ただで済むと思って?」
「ならば、伯爵家ごと潰すまでですよ。『大魔導師の弟子』は、いつ、何処で、誰が相手でも、全てを蹂躙するのみです」
この時、コーヴェンは「あ、こいつ、ヤバいやつだ」と思ったという。
さらに巨大な魔力が集まると、タレス伯爵はソファに座っていた為、何とか耐えたが、メイドが気を失って倒れた。それでも、ヒロトは魔力を集め続ける。
ここは室内である。魔力は、特殊な魔力遮断加工が為されたもの以外、あらゆるものを通過するが、それでも室外に比べれば、集まる魔力は少ない。魔力が少ない場で、魔力を集め続けるとどうなるか。
そこにいる者たちの体内魔力から魔力を集めるのだ。そして、ヒロトはただの魔力吸収に、指向性を持たせることが出来た。
『魔力ドレイン』
距離は、ほんの数mといったところだが、室内では、逆に効果的であった。対象は目の前のセレナ。
セレナの体内魔力が、凄まじい勢いで減っていく。魔力欠乏がセレナの身体を襲い、不安と恐怖が脳内を渦巻く。魔術を展開しようにも、セレナの意志に反して、魔力が身体から抜けて行く。頭がフラフラと揺れ、目の焦点も合わなくなっていた。
それでも、気を失わなかったのは、魔術師としてのプライドだろうか。
それとも貴族としての矜持か。
フラリと、下半身がグラついたセレナを、ヒロトが受け止めた。
「どうして、私が油断している時に、即座に魔術を展開しなかったのですか? 伯爵家の娘が、そんな卑怯な真似は出来ないと? それとも室内だから? 広い場所でやると思いましたか? 伯爵の娘だから、手加減してもらえると? あなたの都合通りの手合わせなどに、何の意味があるのですか?」
「……」
「私だったら、相手が誰であろうと、場所がどこであろうと、躊躇はしませんよ。私が目指すのは魔道の極み。他のことは瑣末なことです。魔道を極める為に必要なら、伯爵家の一つや二つ、私一人で潰しますよ」
セレナにしてみれば、今まで会ったこともないタイプだろう。
そして、今後も会うことはないと思われた。
領主を目の前にして、言葉の綾でも、「潰す」などという言葉を使って、悪びれる様子すらない。伯爵家において、伯爵を目の前に、伯爵の娘を脅しにかける。いっそ、頭のおかしい者だったなら、どんなに楽であったろうか。
ここまで露骨に、貴族を貴族とも思わぬ発言は、さすがにエンゾに迷惑を掛けるかも知れなかった。貴族――それも伯爵家である。貧乏な泡沫貴族とは訳が違う。まさに傍若無人。しかし、無法者が暴れたのとも違う。もっとタチが悪い。
「(だが、これで良い)」
エンゾに迷惑を掛けるというのなら、エンゾと別れれば良いのだ。目標はエンゾもヒロトも魔道の極み。目標が同じなら、また出会うこともあるだろうと、ヒロトは考えていた。
「(賢く生きるなんて、糞食らえだ)」
貴族の矜持に対抗するには、魔術師の矜持しかないだろう。
結局のところ、覚悟の問題なのだ。
魔術師が、己の魔道を自由に歩けなくなったら、それで終わりだ。
ヒロトはその心地良さに酔いそうになっていた。しかし、その気持ちを抑える。なぜなら、心地良くなることが、ヒロトの目的ではないからだ。
「ヒロト殿、そのへんにしてやってくれ」
ヒロトが魔力を霧散させた瞬間、コーヴェンが割って入った。ヒロトは抱きかかえるようにしていたセレナを、コーヴェンに引き渡す。
「さすがは我が弟子じゃ、ヒロト。だが、ちとやりすぎじゃ。セレナさん、こいつを飲みなさい」
エンゾがセレナに手渡したのは、魔力回復薬、すなわちポーションの魔力特化版であった。一本飲んだくらいで、魔力容量が全快するようなことはないが、魔力欠乏から来る脱力感と不快感程度は、すぐに回復する。
「確かにやりすぎたようです。申し訳ありません」
などと言って頭を下げてはいるが、ヒロト自身はやりすぎだとも、申し訳ないとも思っていない。「風魔術で、首をスパッと斬らなかっただけでも、ありがたいと思って欲しい」くらいに考えている。それが分かっているのか、エンゾはニヤニヤしている。
エンゾは、ヒロトのことが誇らしかったのだ。
魔道を極める為なら、相手が貴族だろうと、ヒロトは一切の躊躇もしないだろうことが、今の一幕で確信出来たからだ。
「(ふふふ、師匠すら、踏み台にする覚悟とは、その意気や良し)」
もし、先のヒロトの言動が大事に発展すれば、エンゾに迷惑を掛けることくらい、ヒロトには予想出来たはずだ。それでも尚、ヒロトは必要とあらば、師匠であるエンゾすら養分とする覚悟を見せたのだ。
エンゾは、そのことが堪らなく誇らしかった。
エンゾ自身、魔道を極めようとするのなら、そのくらいの覚悟がなくてどうする、と考えているからだ。
「いや、ヒロト殿、謝る必要はないぞ。全ては、娘の無作法が招いた自業自得だ。魔術師でもない私には分からんが、娘はまだ魔術師としては、覚悟も、実力も、考え方も、あらゆる点で未熟なのだろう」
ソファに深く座って、グッタリとしているセレナを横目に見ながら、コーヴェンは言った。謝罪は不要であると。
「……ちっ」
セレナの小さな舌打ちが、なぜか客室に響いた。
わずかな時間だったが、コーヴェンの言葉に、不機嫌な態度を示すくらいには、セレナは回復したようである。