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吾輩はダンディに憧れている。

掲載日:2026/10/27

そう、近所に住まう、あのスマートでニヒルな成犬のような男を目指しているのだ。

彼は無駄に吠えず、走るときも走っているのか滑っているのかわからぬほど静かで、横顔にはいつも物思いの影が差している。少なくとも吾輩にはそう見える。

あれこそ真の成犬である。

ああなりたい。いや、ならねばならぬ。


ところが世間とは、まことに皮肉なものである。


吾輩がどれほど胸を張り、前足を高く上げ、視線を遠くへやっても、ご主人は目を細めてこう言うのだ。


「かわいいねえ」


違う。

いまのは愛らしさではない。威厳である。

未来のダンディが放つ、静かな気品である。

だがご主人はまるでわかっていない。

のみならず、その言葉を聞いた近所の人々まで、「ほんと、かわいい」と続ける始末である。

誰ひとりとして吾輩の志を正しく評価しない。


たとえば食事の時間である。


ご主人が「ご飯だよ」と声をかける。

吾輩はもちろん、内心では喜ぶ。喜ばぬ犬があろうか。

だが、そこで浮き足立ってはならぬ。

真のダンディたるもの、皿の鳴る音に魂を揺さぶられてはならないのである。

吾輩はできるかぎり落ち着いた足取りで、あくまで毅然と、ごく自然に食卓へ向かう。

そのつもりなのだが、ご主人に言わせると、その「いっしょうけんめい平静を装っている感じ」がたまらなくかわいいらしい。


解せぬ。


散歩の支度のときもそうである。


首輪が出てくる。

胸が高鳴る。

だが吾輩はそれを顔に出さず、窓の外など眺めて、いかにも「たまたま今、外気に思いを馳せておりました」という顔をつくる。

するとご主人は笑いながら、「行きたいのを我慢してるの」と言う。

我慢ではない。

節度である。

だが、その節度すら、この家では幼さの証拠に数えられてしまう。


そうした誤解は二度や三度では済まなかった。


そしてある日、ご主人は吾輩を連れて公園へ向かった。

近所の犬たちと合流するのだという。


吾輩は喜んだ。

広い。

とにかく広いのである。

風は遠くから走ってきて、草の匂いは土の匂いと混ざり、空は妙に高い。

犬という生き物の奥底にしまわれている何かが、こういう場所へ来ると急に目を覚ます。

心が喜ぶ。

身体が喜ぶ。

いますぐ駆け出したくてたまらない。


だが、待て。


あのダンディな成犬は、こういう時ですらきっと余裕たっぷりにしているに違いない。

広いからといって目を輝かせたりはすまい。

風に鼻先を向けて、静かに世界を受け入れる。

そういうものではないか。

そう思うと、吾輩もまた、毅然としていなければならぬ気がしてきた。


胸を張れ。

足をばたつかせるな。

しっぽに本音を語らせるな。


そう己に言い聞かせていた、その時である。


「ほーら、取ってこい!」


ご主人の声とともに、何かが飛んだ。


次の瞬間にはもう、吾輩の身体は地を蹴っていた。

精神に相談する暇などなかった。

四肢は勝手に伸び、耳は風を切り、目は飛んでいく獲物らしきものだけを追っていた。

しまった、と思ったのは走り出した後である。

しかし、犬というもの、いったん走りに火がつくと止まれぬ。


吾輩は見事にそれをくわえ、全速力で戻った。

そして獲物らしきものを、ご主人の足もとへ誇らしく置いた。


「えらい!」


ご主人は満面の笑みを浮かべ、褒美をくれた。

好物である。


その瞬間、吾輩は悟った。

もう敗北は確定である。

ダンディへの道は、たったひとつの投げられた物体と、ひとかけらの好物によって、あまりにもあっさり脇へ逸れてしまった。

こんなはずではなかった。

吾輩の威厳はどこへ行った。

落ち着きはどうした。

涼しい顔は、いまや息とともに荒く出入りしている。


失意のうちに、ふと吾輩はあの成犬を見た。


するとどうだ。


あのスマートでニヒルな成犬が、しっぽをぶんぶんと振りまわし、実にはしゃいでいるではないか。

目は輝き、足取りは弾み、顔つきなど、もはや哲学を知る者のそれではない。

ただ純粋に楽しい犬の顔である。

吾輩は愕然とした。


何ということか。

あれではダンディさの欠片もないではないか。

いや、少なくとも、吾輩が思い描いていたダンディとはまるで違う。

理想とは、もっとこう、静かで、影があって、何かを達観しているものではなかったのか。


吾輩は少し落胆した。


だが、その落胆は長く続かなかった。

なぜなら、その成犬の姿が、どうにも無理をしているようには見えなかったからである。

はしゃぎ方が自然なのだ。

喜ぶべき場所で喜び、走るべき場所で走り、うれしいときには全身でうれしがっている。

そこには照れも気取りもなかった。


そこで吾輩は、はたと考えた。


もしかすると、この場では、あの立ち振る舞いこそが正解なのではあるまいか。

広い公園で、投げられたものを追いかけ、ご主人の声に応え、仲間と駆け回る。

そんな時まで格好をつけて、本心を押し殺していては、かえって不自然ではないか。

真に大人であるとは、いついかなる時も渋い顔をすることではなく、その場にふさわしくあれることなのかもしれぬ。


だとすれば。


だとすれば、今この時、吾輩がなすべきことはひとつである。


全力で遊ぶことだ。


吾輩は地面を蹴った。

風は気持ちよく、草はやわらかく、ご主人の声は明るく響いた。

もうしっぽを取り繕うのはやめた。

嬉しいものは嬉しい。

走りたいものは走りたい。

それでよいのだ。

いや、たぶん、それがよいのだ。


遠くであの成犬がこちらを見た。

そして一度だけ、いかにも当然という顔で吠えた。

来い、と言われた気がした。


吾輩は走った。

ただ前だけを見て、風のほうへ。

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