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黄金の荊棘 〜下町の絵画修復家、ナチスの遺産と巨大組織の陰謀に挑む〜  作者: 秋澄しえる


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第9話「退廃芸術」

「おお、鳴海。よく来てくれた」


 桐嶋の声には、まだ寝起きの掠れが残っていた。


「藤堂さんから大体は聞きましたけど、きちんと最初から聞かせてくださいよ。昨晩、酔って意識がなくなるまでの検討も含めてっすよ」


「わかったわかった。おい、倉橋起きろ。先にシャワー浴びてくるぞ」


「…了解です。お先にどぞ。おー、鳴海ぃ…」


 倉橋の声は、まだ半分眠りの中にいるようだった。



◆◇◆



 約1時間後の午前11時半。


 酒精が抜けきらない二人だが、シャワーを浴びた後に、鳴海が入れてくれた熱い緑茶を飲んだら多少すっきりしたようだ。


 三人になった男たちは、クリムトの絵を囲んで再び議論を始めていた。


「来てもらっておいてなんだが、こんな時間に大丈夫だったのか?」


 桐嶋が念のための確認をした。


「大丈夫っすよ。今は大きなイベントごともないし、要人来日とかもないので、主に情報収集をおこなっている時期ですから。逆になにか仕事にからむ情報をもらえるかもしれないと目論んでるとこっす」


「ちゃっかりしてるなぁ」


 鳴海の所属する警視庁公安部外事四課は特殊な部署だ。


 他の課は、明確に特定国に対応するための課だが、四課だけは「国際テロ対策」が主要任務となっている。


 とはいっても、ドラマのように外国で銃をバンバンなんてことはありえず、国際テロに関する情報収集・分析とテロ未然防止のための捜査活動が主だ。


 所属員は90人以上いるといわれているが、正確な数は不明で詳細な活動内容も不明の部署だ。


「倉橋、ちゃんと録音できてた?」


 桐嶋は、昨晩から今朝にかけての様々な話を倉橋に録音依頼していた。


「大丈夫です。今、文字起こしも終わりましたので、要約したのをタブレットにだしますね」


「こういうのは生成AI様々だねぇ」


「ホント、便利な世の中です」


「じゃあ、先に目を通しますので、その後に状況説明よろしくっす」


「ああ、そうしよう」


 鳴海が読み終わるのを待っている間、桐嶋は惨状を片付けていく。倉橋は昼食用のパスタを準備しているようだ。


「OKっす」


「じゃあ、実際の絵を見ながら話をしようか」


「その方がいいっすね」


 二人は保管庫に向かっていった。


 倉橋はテーブルの上を掃除して、桐嶋の片付けの続きもおこなっていた。もし、あの惨状を藤堂が見たらどんなひどい目にあわされるか考えた結果でもある。


 ついでに、タブレットに表示していた内容をPDF化して藤堂にメールしておいた。


 やがて二人が戻ってきたときには、テーブルの上に立派な昼食がのっていた。


 人数分のトマトソースパスタとオレンジジュース、三人分にしては多めのサラダと昨晩の残りのチーズ。まるで深夜の激論など嘘のような光景だった。


「倉橋さんって、本当こういうことの手際いいっすよね。職間違えたんじゃないすか?」


「そんなことないだろ。あるもので適当に作っただけさ」


 まんざらでもないのは表情を見ればわかる。桐嶋はその表情を見てありがたみを感じたが食欲が勝ったようだ。


「いただきます」


 三人が口を揃えて言うと、静かだった部屋に箸やフォークの音が響き始めた。二日酔いが覚めてくると腹が減るのは当然のこと。


 サラダから攻めて胃が多少すっきりしたところでパスタにとりかかる。酸味のあるトマトソースが、疲れた胃に心地よい刺激を与えた。


「食べながらで申し訳ないっすけど、すごく疑問に思ったことが」


 鳴海の声に、桐嶋と倉橋は顔を上げた。


「あの絵、どこから来たっすか?」


「そりゃ、鷺沼氏が持ち込んで…あ…いや…そうか!」


 桐嶋と倉橋は椅子から立ち上がらんばかりに驚いた。その反応に、鳴海は満足げな表情を浮かべる。


「ですです。あんなヤバそうなもの、もし国外から持ち込もうとしたなら税関で確実に止められますって。あとで本庁に戻ったら鷺沼氏の来日記録や税関記録を確認しますけど、手持ちで入国できたはずがないっすよ。もしかしたら正式な輸入手続きをして持ち込んだ可能性はありますけど、レゾネにも載っていないようなクリムト作品を、資産価値も計らずに持ち込めるほど日本の税関は甘くないっすよ?」


 鳴海の指摘は的確だった。


 桐嶋は頭を抱えた。自分の不注意さへの後悔が仕草に滲んでいた。


「…言われてみればその通りだな。最初に来歴を疑ったはずなのに、現物が手元にきてからは疑ったことすら忘れてた」


 倉橋も自分の不注意を認めざるを得なかった。


「本当です。本来であればそこから考えなければいけないものでした。人のこと言えないですけど、クリムトの未発見かもしれない真作という事実に舞い上がっていました」


「ふふふん。二人を驚かせるのは気分いいっすね」


 鳴海の顔には、得意気な笑みが浮かんでいた。


「状況から考えても元々日本にあった絵だと考えるのが自然だと思うっす。じゃあどこにあったのかというのが今後の問題になるわけですけど」


 鳴海の言葉が続きそうなところで、倉橋のスマホからメール着信音が鳴り響いた。


「あ、藤堂さんからですね。どうやら赤坂署と協力関係を築いたらしいです」


 倉橋の声には、少し緊張が混じっていた。


「協力?強制の間違いだろ」


 桐嶋の言葉には、藤堂の性格をよく知る者ならではの皮肉が込められていた。


「おそらくそうでしょうけどね。あ、いやな話が書いてありますね。箇条書きで書いてあるので見てください」


 倉橋はそう言うと、テーブルの上にスマホを置いた。


 三人の視線が、一斉にスマホの画面に集中する。


『鷺沼氏は病死や自然死ではなく他殺の疑いあり』


『詳細は不明だが毒殺の可能性あり』


『桐嶋への疑いありだがこちらで抑えた』


『明日明後日は家族とキャンプなので邪魔したらわかっているだろうな』


「最後が一番怖いんですけど」


 倉橋の声には、藤堂への畏怖の念が滲んでいた。


 全員がそう感じたらしく、異口同音に賛同の声が聞こえる。


「ま、まぁ、藤堂はそう言いながらもうまく他者を使ってなにかしら動いていることが多いから」


 桐嶋が弁解めいた言葉を二人に投げかけた。このあたりは幼馴染ならではの感覚もあるのだろう。


「鷺沼氏が他殺の疑いというのもかなり気になりますね。絵がらみ?」


 倉橋の声には、不安と興奮が入り混じっていた。


「我々の持っている手札から考えられるのはそれだけっすね。他の可能性も多分にあると思いますが、この件に関する危険レベルが上がったと考えた方がいいと思うっす」


 鳴海の分析は冷静だった。その言葉に、三人の表情が引き締まる。


「ところで鳴海、さっきなにか言いかけてなかったか?」


 桐嶋の問いかけに、鳴海は腕時計をちらっと確認してから言葉を継いだ。


「そうそう、そうです。どちらかと言えばこちらの方が本題っす。藤堂さんから、未発表のクリムト作品というワードを聞いた時にピンときた話があったんすよ。お二人ともコルネリウス・グルリットという名に聞き覚えはないっすか?」


「ドイツの作曲家?」


「おしい!もう一人の方っす」


「あー!!!」


 倉橋が突然大声をあげた。その声は地下室に響き渡り、桐嶋と鳴海を驚かせた。


「グルリット事件か!ナチス!退廃芸術!なんで思いつかなかった!」


「…おいおい、おれは美術史じゃなくて修復が専門なんだ。わかるように説明してくれ」


 頭を抱える倉橋に、桐嶋が助け舟を求める。興奮した倉橋が、早口でまくしたてた。


「ああ、すみません。2012年にドイツであった大事件ですよ。脱税容疑で調査に入ったミュンヘンのあるアパートから、ピカソやマティス、シャガールといった巨匠の絵画が1280点も見つかったんです」


「1280点だと!?…あ!そうか!あれか!」


「ええ。持ち主のコルネリウス・グルリットという老人は、ナチスの画商だった父親からそれを受け継ぎ、半世紀以上も隠し持っていたんすよ」


 鳴海が補足するように言葉を継ぎ、鳴海の言葉に被せるように倉橋は続けた。


「そう。ナチスが『退廃芸術』として美術館から押収したり、ユダヤ人から略奪したりした美術品が、現代までひっそりと、しかも一般家庭の中に眠っていたんです。世界中がひっくり返るような大騒ぎになった事件ですよ」


「なるほどな…。つまり鳴海は、今回の絵がそのグルリット事件に類似したなにかの絵だと?」


「可能性の一つとしてですよ。ほら、昔から小説とかのネタであったじゃないですか。Uボートで日本に亡命してきたナチス高官とか、ヒトラーの遺産が日本にある!とか。与太話のたぐいではないっすけど、当時のドイツと日本を考えると実際にあってもおかしくないとは思うっすよ」


 鳴海の言葉に、桐嶋と倉橋は深く考え込んだ。


「クリムトの作品は、ヒトラーによって退廃芸術だとみなされたと記憶してますが」


「確かにそうだ。しかもナチスがオーストリアに侵攻した際、大量のクリムト作品が略奪されたり、暴力を背景として安値で購入されたのは事実だよ」


 倉橋は考えながら鳴海に応えた。


 そして桐嶋の表情がいろいろ変化していることに気が付いた。


「桐嶋さん、どうかしました?」


「いや、ちょっとな、気になることがあってな」


 桐嶋はメールを打ち始めた。宛先は藤堂だ。


 打ち終わったところで口を開いた。その声には緊張感が増していた。


「仮に、仮にだ。あの絵がナチスの遺産だったとして、かつ鷺沼氏が何者かに殺されたとした場合、鷺沼氏を殺害した犯人はあの絵を躍起になって探してるよな」


「でしょうね。資産価値1億ドル以上の可能性がある絵を手に入れるためだったら、人一人の命なんてめちゃくちゃ軽く感じる人種は世界中どこにでもいるっすよ。ただ、鷺沼氏が来日してからの時系列を考えると、なぜそのタイミングで殺したのかという謎は残ると思うっす。だって、そうでしょ。彼の手に絵があった可能性があるのは桐嶋さんに会う前日までなんですから。絵を手に入れるためだけに殺すのなら、絵がその場にある状態じゃないと効率が悪すぎるっす」


 鳴海の分析は鋭かった。その言葉に、桐嶋と倉橋は深く頷いた。


「だよな。鷺沼氏が亡くなったのはホテルのロビーという人の目が多数ある場所だ。そして病死や自然死ともとれる倒れ方をしている以上、物取り目的だけの犯行には思えないんだよ」


「だとすると他の理由が?」


「彼の手に絵が残っていないからこそ殺されたという見方もできると思ってね。『なんだよ、こいつ持ってねぇのかよ!むかつく!やっちまえ!』ってな」


「なんすかそれ。一昔前にいたニューヨークのチンピラみたいなもんじゃないすか」


 そういう現場に居合わせたことがある鳴海が、当時を思い出して笑いだした。


「でもそれって心情的にはわかる話ですよね。元から殺してでも手に入れようと思ってた人物がいたとすればそうなってもおかしくはない」


 倉橋の言葉に、桐嶋は深く頷いた。


「用済みだからとか、テレビドラマみたいな展開の可能性もあるけど、そういう心情の結果と考えるとしっくりくるんだよなぁ」


 その時、桐嶋のスマホが鳴り響いた。藤堂からの着信だ。


 桐嶋は二人にも聞こえるようにスピーカーでつないだ。


「桐嶋!どういうことだ!なぜおまえが検証結果の成分を知っている!?」


 藤堂の怒声が響き渡った。その声の激しさに、倉橋と鳴海が思わず首をすくめる。


「…なにをメールしたんすか」


 鳴海の小声には、好奇心と不安が混ざっていた。


「毒殺の可能性があると判断した成分に、ヘレブリンとタキシンがなかったかとね」


「なんすかそれ」


「ある植物がもつ毒だよ。特にタキシンは強力」


「おい!どうなんだ桐嶋!」


 藤堂の声には、怒りと焦りが滲んでいた。


「詳しい説明をしたいけどね。まだ憶測の段階だから会った時に話すよ」


「この野郎…」


 藤堂の歯ぎしりがかすかに聞こえる。その音に、倉橋と鳴海は思わず顔を見合わせた。


「夕方にはそっちに行く!聞かせてもらうぞ!」


「わかったよ、待ってる」


 直後に電話は切れた。部屋に重苦しい沈黙が流れる。


「さて、納得がいく説明をしないと、藤堂の怒りが頂点に達しそうだから準備するかぁ」


 桐嶋の声には、少し疲れが混じっていた。


「あのー、こちらにも説明が欲しいのですが」


 おずおずと右手を挙げながら倉橋がつぶやく。


「そうだな、藤堂が合流したら話すよ。おれもまさかという気分が強いから整理する時間をくれ。鳴海はどうする?そろそろ本庁に戻る時間か?」


 先ほど、鳴海が腕時計をチラ見していたことを思い出して確認した。


「そうっすね。今日はもう本庁に戻ります。桐嶋さんの説明をライブで聞きたいとこですが、今晩は先約が入っているので。あとで資料お願いしたいっす」


「資料は大丈夫だ。また倉橋が作ってくれる」


「了解です」


 倉橋が右手の親指を挙げて了解の意思を示す。


 その仕草に、三人の間に一瞬の和やかな空気が流れた。


「詮索するようで悪いが、鳴海の今晩の予定は飲み会か?」


「いやー、飲み会っちゃあ飲み会っすけど、あまり面白くなさそうなやつです。アメリカ大使館で情報交換会という名のパーティーに、上役の通訳兼務のお供をするもので。下っ端はつらいっすよ」


 鳴海の声には、少し苦笑いが混じっていた。


「じゃあ、鷺沼氏の来日記録や税関記録の確認はよろしくな」


「任されました」


「あと、倉橋には例の作品に使われている顔料の調査を依頼したい。見た限りでも同時代のクリムト作品と同じ顔料を使用していると思うが、万全を期したいので念のため調べてくれるか?」


「わかりました。サンプルを少しもらっていきますね。あとはあれかな、カドミウムフリーになっていないカドミウムイエローも準備しますね。顔料の調合は大丈夫ですか?」


「大丈夫だ。クリムト作品は以前に何枚か修復したことがあるからだいたい覚えている」


「正直、そんな人、日本にはまずいませんよ」


 倉橋の呆れた笑いがもれる。


「鷺沼氏が桐嶋さんに依頼するのがわかりますね。おれでもそうします」


「買いかぶりだよ」


 桐嶋は面映ゆい気持ちで苦笑した。


「さて、じゃあ動くとするか」


「承知しました」「っす」


 三人の声が重なる。


 大きく流れが動きそうな展開に、彼らの心は期待と緊張で高鳴っていた。


 だがこの時、彼らはまだ知らなかった。


 事態が既に、警察の手さえ及ばない領域へと転がり落ちていることを。


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