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黄金の荊棘 〜下町の絵画修復家、ナチスの遺産と巨大組織の陰謀に挑む〜  作者: 秋澄しえる


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第8話「刻まれた指紋」

 夏の夜が明け始める時間帯。


 東京の空はまだ薄暗かった。


 二子玉川の高層マンション群の隠れた地下室。


 そこは、都会の喧騒から完全に遮断された静寂の空間。


 地下室の冷たい空気の中、倉橋の声が響いた。


「指紋?」


 桐嶋の声が、静かな空気を切り裂いた。


「そうです。例の傷の左下のところに複数。ここです」


 倉橋が拡大して印刷した写真の箇所を指さした。


 LED照明の光が、写真の表面で反射する。


「画像処理して確認したところ、おそらく同一人物による親指の指紋です。しかもこれ、子供ですよ」


 言われて自分の指と見比べてみても明らかに小さい。


「桐嶋さんはこの傷をどう見てます?」


「爪でつけた傷だと思っている」


「まったくの同意見です。湾曲具合、幅、奥行、爪で刺した以外に考えにくいような傷です。つまり、57個もの傷を、親指で保持しながら等間隔に人差し指の爪で刺していった」


 桐嶋は倉橋に言われた光景を脳裏にうかべた。


 暗い室内で少女(少年?)が無言で一つずつ丁寧に傷をつけていく。


 確かに背筋が寒くなるような光景だ。


 地下室の冷気が、さらにその感覚を増幅させる。


「しかし、なんのために」


 桐嶋の声には、困惑が滲んでいた。


「それはまだわかりませんけどね。なんらかの理由がなければ、さすがにこんなことしないでしょう」


「だよな。しかもだ、この傷は完成した後につけられている。つまり、なにかの理由で絵具が少しでも柔らかくなっていなければ、このような傷をつけるのは不可能だ」


 一度乾燥した油彩絵具に爪を刺すのは難しい。通常であれば刺した箇所が割れてしまうからだ。この絵の傷の周囲は割れていない。


 つまりそれだけ柔らかくなっていたということだ。


「おそらくだが、クリムトの没年や作風から考えて、この絵が描かれたのは1900~1910年あたりだろう。100年くらいで酸化油の分解による柔化は考えにくいし、わざわざ溶剤を使って柔らかくして刺したなんてのも考えにくい。ならばその時は、高温多湿の環境にあったってことなんだろうな」


 倉橋はなにかに気づいたように桐嶋に確認した。


「桐嶋さん、オーストリアの夏は涼しかったですか?」


 倉橋に問われた桐嶋は、ウィーン美術アカデミー在学中のことを思い出し言葉を選んだ。


 記憶の中でウィーンの街並みが蘇る。


「東京と比較すれば涼しかったよ。湿度も少なかったから体感気温は随分違うがね…ああ、そういうことか」


「そうです。グスタフ・クリムトはオーストリアの画家。生存している時から評価が高い画家でしたが、作品自体が国外にでたのはずっと後年のことでしょう。ならばこの傷は、どこでいつ誰がつけたものなんでしょうね」


「いやいや、なんか怖いから」


「おれも怖いですよ。この想像してから背後から目線を感じるような気がしてるし」


「おれが言っているのはおまえの顏だよ」


 倉橋の顏には恐怖が貼り付いていた。


 オカルト的なものは好きだけど、すごく怖がるという典型的なオカルト好きの一パターンが倉橋だった。


「あ、そっちでしたか…こういう話をするには時間と場所が悪すぎますね。もう少し絵そのものの考察を進めましょう」


「その方がいいか」


 そのまま酒と検討は進んだが、午前4時半くらい、地下室ではわからない朝日が昇った辺りで急速に収束した。


 飲み終わった瓶や缶が、高さ順にきれいに並べられているのが逆にシュールな光景だった。



◆◇◆



 盛夏の太陽が容赦なく照りつける東京の街。


 アスファルトから立ち昇る熱気が空気を歪ませ、遠くの景色をぼやかせている。


 そんな暑さとは無縁の地下室で、桐嶋と倉橋は深夜から朝方にかけての激しい議論の後、疲労と酒の影響で眠りこけていたが…。


「どうもっす!みなさんの鳴海がやってきましたよっと…って、ぎゃー!酒くっさ!」


 秘密基地の扉を勢いよく開けた、鳴海涼の声が静寂を破った。


 その声に驚いて目を覚ました二人の顔には、まだ酔いの残滓が見て取れる。


 テーブルの上には、空になったワイン、日本酒、ビール、ハイボールの瓶や缶が林立し、昨夜の激論の痕跡を如実に物語っていた。


「ほらほら!起きてください二人とも!」


 鳴海は折り畳み式ロードバイクを壁際に置くと、テーブルに近づいた。


 そこには、徹夜の激論を物語る空き缶の山と、大写しにした一枚の写真。


 写真には、様々な書き込みがなされており、二人が徹夜で検討を重ねた形跡が見て取れた。


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