第6話「秘密基地」
夏を告げる蝉の声が、東京の喧騒に溶け込んでいく。
夕暮れ時の文化庁。古びた建物の窓から漏れる光が、徐々に暗さを増す空と対照的だった。
午後8時。業務が終わり、文化庁を後にした倉橋慎太郎のスマホが鳴った。
着信音はヴィヴァルディの四季・冬。
ヴァイオリニストである妻、倉橋奏が演奏した曲そのものを着信音にしている時点で愛妻家ぶりがうかがえる。
薄暮の中、画面を見ると桐嶋からだった。
「お久しぶりです!飲みのお誘いですか!いいですよ!」
倉橋の普段と変わらぬ調子に安堵した桐嶋から苦笑がもれる。
「相変わらずだな倉橋。あいにく飲みの誘いではないが話があってね。あ、いや、酒とつまみを買ってきてもらおうかな」
「お、それでもいいですよ。妻は公演でイギリスに行っているので、10日くらいは独身生活ですから!悠彩堂に行けばいいですか?」
「ニコタマ(二子玉川)で」
唇の端が悪そうにあがった。
倉橋の直感が、何か普通ではない事態が起きていることを告げていた。
「あらら、楽しそうなお話になりそうで。ちょっと待ってくださいね」
通話を保留にした倉橋は足早に駐車場に向かい、愛車アルファロメオジュリアに乗り込んだ。
ドアを閉める時の音が、いかにもイタリア車であることを感じさせる。倉橋はそこも気に入っていた。
荷物を助手席に乗せシートに落ち着くと保留を解除した。
夜の帳が降りる東京の街並みが、車窓に映り込んでいる。
「お待たせしました。危ない話になりそうだったので車に乗りました」
楽しさを隠そうともしない倉橋の声は、桐嶋の気分をいくらか楽にした。
「助かる。おまえのそういう気の使い方、好きだよ」
「やめてくださいよ、おっさん同士のイチャラブは需要ないですよ?」
「少なくてもおれは見たくないな」
「でしょ?」
二人の笑い声が響くが、車外に漏れるほどではない。
「ちなみに、明日から有給含めて4日間の休みなんですよ。タイミングがいいとはこのことですね」
「ホントか。じゃあ自由に動いてもらえるな。助かる」
「桐嶋さんには世話になりっぱなしですから恩返しの良い機会です。当初は妻の公演に併せて渡英しようと思っていたんですけど、母校がらみらしく集中したいからと、すげなくあしらわれてしまいました」
「相変わらず奥さん一番なヤツだな」
「それはもう当然ですよ!妻の良いとこだったら…いやいや、この話すると長くなるので本題に入りましょう。藤堂先輩もご一緒で?」
「いや、あいつはもう帰った」
「相変わらずの家族大好きパパですね」
「おまえら二人とも似たようなもんだよ」
倉橋はなにか反論したそうだったが、それを察した桐嶋が強引に本題に戻した。
夜の街にたたずむ車の中で、二人の会話は次第に緊迫感を帯びていく。
「できればでいいんだが、ここに来る前に団子坂の方をちらっと見てから来てくれないか」
「現状がわかるようなご依頼ですね」
倉橋の瞬時の想像は、リアルよりも5段階ほど悪い想像だったかもしれない。
通りかかった車のライトが車内に差し込み、その表情を一瞬照らし出した。
「どこまで想像しているかわからんが、たぶんまだ、おまえが考えているほどじゃないとは思っている。念のための偵察だよ」
「わかりました。では、悠彩堂を見張っている怪しいヤツがいないか確認してから買い出しして向かいます」
「頼む」
「秘密基地でいいんですよね?」
「秘密基地ってなんだよ。セーフハウスだよ」
「えー、秘密基地の方がワクワクするじゃないですか。絶対そっちの方がいいですって」
「わかったわかった、じゃあ秘密基地で。では、後ほど」
「はいな」
倉橋は電話を切ると、ナビで到着予想時間を確認してから車をだした。
夜の東京を縫うように走る車の中で、倉橋の頭の中は次々と浮かぶ想像で満ちていた。
◆◇◆
ニコタマ(二子玉川)のセーフハウス。もとい、秘密基地は、藤堂啓介のセカンドハウスだった。
元々の所有者は違う。藤堂の親戚の知人らしいのだが、どこをどう巡ったかいつのまにか藤堂のものになっていた。
今も新しいマンションや住宅が建ち続ける二子玉川だが、30年ほど前にその所有者が隠れ家的に造った地下室だ。
広大な土地に5棟のマンションがあり、そのどれからも行くことができる。
当然、地下室に行くための扉や通路も一般人やマンション居住者は知る由もなく、地下室の存在を知っている人物だけに限られる。
都市の喧騒から隔絶された、まるで別世界のような空間だった。
車で現地まで来た場合でも、屋内駐車場から外にでることなくたどり着けるので利便性は高い。
10人がストレスなく居住できるほどの広さと設備があり、地下であるために防音性が高いのは言うまでもない。
もしかしたら元の所有者は核シェルターのつもりで建設した地下室だったのかもしれなかった。
秘密基地の電子キーが開錠された音とともに扉が開かれた。その瞬間、地上とは全く異なる空気が倉橋を包み込んだ。
「大変お待たせしました。買い出し部隊隊長、倉橋!参上いたしました!」
「お疲れさん。ありがとな」
「いえいえ、桐嶋さんと藤堂さんのお二人のユニットに混ぜてもらえるだけで光栄です!こちらこそありがとうございます!」
「しっかし大荷物だな」
敬礼した倉橋の足元には、大型のスーツケース1つ、ボストンバッグ1つ、酒とつまみが入っているであろう大きい買い物袋1つ。
腰にはシザーバッグ、背中にはバックパックを背負っていた。
まるで長期の探検に出かけるかのような装備だ。
「家に帰ってお泊りセットも持ってきたので準備万端ですよ。良いタイミングすぎて笑いがこみあげてきますよ」
勝手知ったるなんとやらで、倉橋は冷蔵庫を開け、持ってきた備蓄品をいそいそと入れ始めた。
「そういえば悠彩堂ですが、いましたよ怪しいのが一人」
「やっぱりいたか」
「20代後半くらいですかね、この暑いのにしっかりスーツを着込んだ男でした。店の前を通ったあと、ぐるっと回って坂下からも確認したので間違いないです。一か所にいて見張っている感じではなく、歩きながらチラチラ見ている感じですね。おれが言うのもなんですが、動きが素人ですね」
「そいつに見つかりはしなかっただろうな」
「おそらく大丈夫です。目線の先には悠彩堂しか写ってなさそうでしたから」
「それならたぶん赤坂署の刑事だよ。白井さんだったかな」
「え?あれで?んー、いろいろやり直した方がいいですね。さて、まずは飲みましょうか」
言葉の最後にはプシュっという音が重なった。
倉橋は自分の分も開けながら桐嶋に缶ビールを渡す。冷えたビールの缶から立ち上る霧が、地下室の空気に消えていく。
「再会を祝して」
お互いに掲げた缶ビールを軽く合わせると、桐嶋は半分、倉橋は一気に飲みほし2本目を開け始めた。
「さっそくですが、ここまでの状況をお聞かせください」
「ああ」
桐嶋はここまでの状況と経緯を詳しく説明した。
憶測を交えず事実のみを伝えることは情報共有の基本と言える。
初動でいらない情報を他者に与えると、後々齟齬が大きくなることを桐嶋は知っていた。
桐嶋が話し終えると倉橋が周囲を見渡しながら確認した。
「で、ブツはどちらに。あ、これがその写真ですね」
倉橋の目線はテーブルの上に無造作に置かれた写真にとまり、そして手にとった。彼の指が写真の表面を軽くなぞる。
「確かに。前情報がなければこの傷は剥落に見えなくもないですね」
倉橋は考え込むように眉をひそめながら、写真の隅々まで確認している。
「現物は保管庫ですか?」
「ああ、そうだ」
4年前、桐嶋は藤堂に頼み込んで、ここの一室を絵画の保管庫にさせてもらっていた。
空調が完璧で太陽光が入り込まない地下室は、絵画の保管に最適と言える。
現在はクリムトの肖像画を含めて13枚の絵が保管されていた。
「さっそく見せてもらっても」
「そうしよう」
保管庫は一番奥の部屋になっている。
桐嶋が照明をつけると、様々な絵画が壁一面に立てかけられている光景が視界に入った。
そして一番手前のイーゼルにクリムトは乗せられていた。
LEDの冷たい光の下で、金箔が施された背景が鈍く輝く。
倉橋はルーペを取り出し丹念に確認し始めた。時折、写真と見比べながら小一時間ほども見続けていた。
その集中力は、まるで時間が止まったかのようだった。
部屋の空気は次第に緊張感に満ちていき、桐嶋でさえ、その場の雰囲気に飲み込まれそうになった。
桐嶋は椅子をたぐりよせ、背もたれを前にして腕と顎を乗せた状態で倉橋の姿をぼんやりと見ていた。
時計の針が静かに動き、夜が深まっていくのを感じる。
「リパーパシングしたと見ているがね、おまえの意見を聞きたい」
倉橋は首だけ動かして桐嶋を見た。
「間違いなくリパーパシングしてますね。ただ、相当古い時期にやってますよ」
「そこまでわかるのか」
「桐嶋さん、また悪いクセを発動させましたね?食う寝る忘れて作品に見とれてたんでしょう?」
桐嶋は首をかしげながら笑みをうかべ、ご明察とばかりに両手を広げた。
「先ほど聞いた情報でも、絵そのものに対する情報が妙に少なかったのでだいたいわかりましたよ。最初は先入観を植え付けないようにかなと思いましたが、途中からいやこれは違うなと」
倉橋はシザーバッグからタブレットをとりだしクリムトの写真をとりつつ、気になったことをスタイラスペンで都度記入していく。
スタイラスペンがスクリーンをなぞる音が、静かな部屋に響く。
「だいたいわかりましたので、飲みながら話しましょうか」
「ああ」
二人はさきほどのテーブルに戻っていった。




