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黄金の荊棘 〜下町の絵画修復家、ナチスの遺産と巨大組織の陰謀に挑む〜  作者: 秋澄しえる


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第4話「着信」

 梅雨明け間近の蒸し暑い日々が続いていた。


 団子坂の古い町並みに時折吹き抜ける風は湿気を含んでおり、涼をもたらすというよりは、むしむしとした不快感を増幅させるだけだった。


 悠彩堂の作業場では、桐嶋悠斗が4日間ほぼ休むことなく、クリムトの肖像画と向き合い続けていた。


 その集中力は、周囲の暑さや湿気にも影響されることなく、まるで絵画の中に吸い込まれていくかのようだ。


 作業場の入り口から差し込む光が、絵画の金箔部分を照らし、幻想的な雰囲気を醸し出している。


 桐嶋は、食事や睡眠はある程度とっていたため、まだ疲労の色は少ないものの、無精ひげがかなり伸び、洗いざらしの髪はボサボサで眼光だけが鋭く輝いていた。


 その目は、まるで獲物を狙う鷹のように、絵画の細部を捉えて離さない。


 この絵自体の記憶は桐嶋に存在しない。


 しかし「グスタフ・クリムト作 若い女性の肖像画」というキーワードだけで考えれば、来歴に一つ思い当たる節がある。


 確証はない。ただ、これまでの経験と勘が危険信号を点滅させ始めたことには気づかざるを得なかった。


 突然、スマートフォンの着信音が作業場に鳴り響いた。


 その音は静寂に浸っていた空間を一瞬にして現実世界へと引き戻した。


 画面を確認すると登録がなく、見覚えのない番号が表示されている。


 あまり気が進まなかったが、急ぎの仕事の可能性もあったため、仕方なく電話に出た。


 警戒心と好奇心が入り混じる複雑な感情が、彼の心を支配する。


「もしもし、悠彩堂です」


「桐嶋さんのお電話でよろしかったでしょうか」


「はい、桐嶋です」


「赤坂署の工藤と申します」


 警察!?


 様々な可能性が桐嶋の脳裏を一瞬で駆け巡ったが、声からは平静さしか感じないだろう。心臓がドキリと鳴る。


 冷静を装いながらも、彼の心拍数は急上昇していた。


「警察の方?いったいどのようなご用件でしょうか。そして、この電話番号をどのようにして知ったのかご説明いただけますか」


「実はある事件の被害者が所持していた携帯の最後の着信番号が桐嶋さん、あなたのものだったのですよ。それでお話を少々伺いたく、ご足労をおかけしますが赤坂署までお越しいただけませんでしょうか」


「任意でしょうか」


「任意ですね」


 任意だとしても警察の出頭要請は、ほぼ強制だということを桐嶋は知っている。


 素直に従った方が、かえって時間がかからないだろうという結論に至った。


「わかりました。いいですよ。送迎はしていただけるのでしょうね。パトカーはダメですよ。近所の目がありますから。一般車両でお願いします」


 電話先の工藤という人物が一瞬鼻白んだ雰囲気があった。警察にとっては異例の要求だった。


「…では1時間後にお迎えにあがります。弁護士は同席されますか」


「いえ、私だけで結構です」


「では、1時間後に」


 ゆっくりと電話は切られた。


 受話終了をタッチすると、桐嶋は深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。


 桐嶋は窓際に立ち、外の景色を眺めながら思考を巡らせた。


 通りを行き交う人々の姿が目に入る。彼らの日常とは違う世界に自分が足を踏み入れようとしていることを実感した。


 日常と非日常の境界線が、彼の目の前で曖昧になっていく。


 状況からすれば鷺沼のスマートフォンだろう。


 被害者の名前も詳細も伏せられているところを見ると死んだか。まさか事故で任意出頭はないだろう。


 警察の言葉の裏に隠された真意を読み取ろうと、桐嶋は必死に頭を回転させる。


 死亡の可能性を考えても、それほど知った間柄でもないからか、桐嶋に動揺は見られない。


 しかし、もし死亡しているとするならば残金はもらえない。仕事してももらえない。興味は大いにあるので万全に修復はしたいが、いかにもヤバそうな絵が残るだけ。


「割に合わねぇなぁ」


 多少なりとも合計一億円を手に入れたらなにに使おうと考えていたため、暗澹たる気持ちになるのは仕方がなかった。


 夢が破れたような、虚脱感に襲われる。


「さて、どうするか」


 初手から弁護士同席や黙秘するのは悪手だ。自分から後ろ暗いところがあると声高で叫ぶに等しい。


 警察がこの時点でわかっていることは、鷺沼と電話でのやり取りがあったということだけ。


 こういう状況になると、鷺沼のやり方は巧妙だったかもしれないと桐嶋は一人納得した。


 数少ない防犯カメラに写っている映像があったとしても、釣り人に近づいて釣れているかどうか挨拶程度の言葉を交わしただけの姿にしか見えない。


 鷺沼が着ていたジャージと巾着は同色だったため持ち去ったことすらわかりにくいだろう。


 第一、あの姿がある意味普通すぎて鷺沼だと特定するのは難しいと思われる。


「やるなぁ」


 感心した桐嶋は、今後の警察とおこなうであろう問答を想定した。


 警察が確認できるのは鷺沼との関係性だけ。アメリカ在住時の知人から紹介された顧客ということにしておけば不自然ではないはず。


 1週間後に来店する予定だった、ということにでもしておけばいいだろう。


 ただ、警察としても手掛かりがあまりなさそうな状況が考えられるので、ゆるやかな誘導尋問くらいはしてくるだろうな。


 桐嶋は過去の経験から、警察の尋問の手口を熟知していた。


「やはり保険をかけておくか」


 桐嶋はスマホを手に取り、登録先を確認し電話を始めた。



◆◇◆



 約1時間後、迎えにきた工藤と白井という二人の刑事とともに、無言の車中のまま赤坂署に着いた。


 移動途中の車窓から見える東京の街並みは、いつもと変わらない日常を映し出していたが、桐嶋の心境は複雑だった。


 なんとかなるという楽観的な気持ちもあるが、警察の持っている情報が不明なため不安な気持ちも強い。


 ただ、その気持ちを相手に悟らせてはいけない。それだけは強く思っていた。


 案内された場所は取調室。


 作業着のまま、髪も髭もそのままな桐嶋は不逞な人物にしか見えない。


 LEDの無機質な光が、その印象をさらに強めていた。殺風景な部屋は、桐嶋の不安感をさらに増幅させる。


「カツ丼はだしてもらえるんでしょうな」


「残念ながら饗応は禁止されているのですよ」


 心底残念そうに工藤はかぶりを振った。その表情には、かすかな親しみさえ感じられる。


「老獪だな」桐嶋はそう感じた。


「そちらにお座りください。ここでのやり取りは録音等で記録させていただきますがよろしいですか」


 まだ20代に見える白井が椅子に案内しながら確認した。その声には緊張感が滲んでいた。


 若手刑事の緊張が、桐嶋にも伝わってくる。


「構いませんよ。その方がお互いにとっていいでしょう」


「ありがとうございます」


 工藤の場慣れした感じとは違い、白井の挙動や言動はどこか初々しい。


 まだ配属されて間もないのだろうと桐嶋は感じた。


 三人が席についたところで工藤が口を開いた。


 照明の下で、その表情はさらに鋭く見えた。無感情に見える眼光が、桐嶋に向けられる。


 静寂の中で、刑事と修復家、二人の狐による化かし合いが幕を開けた。


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