第39話「銀雲の光」
ラファエロ作品のキャンパスは、木枠に張った布ではなく板材だ。
これはほぼ同時代に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチも同じで、かのモナリザも板材に描かれている。
ラファエロはポプラ材を好んで使っていた。
しかも板材自体に彼が細工した透かし模様が入っていることが多い。
この作品も外側に透かし模様が彫刻されていた。
修復された真作を見るとかなり細工が細かい。
贋作の方も同じに見えるが、よくよく確認すると彫りが甘かったり、角の処理が滑らかではない箇所がある。
桐嶋は、リカルドに、よく切れる彫刻刀の手配を依頼し、結局その日は、表面のクリーニングと贋作の修正箇所の確認で終了した。
夜、コンビニ弁当を食べながら、桐嶋はリカルドに疑問をぶつけた。
「なぁ、鷺沼は、なぜ5年前に殺さなかったんだ?」
「やつはな、この5年間、行方をくらませていたんだ。なにかを察知したのかもしれんな。だから逆に、日本に来ていたことの方が驚いたよ。しかも、同じホテルに逗留しているときたもんだ。神様の存在を信じたね」
リカルドが、わざとらしく胸前で十字をきった。
「…じゃあ、鷺沼が来日した目的や行動は?」
「知らんな。ツレが執行したのが、鷺沼をホテルで見かけた2日後だ。タイミングを見計らって尾行はしていたが、来日目的までは調べてはいない」
鷺沼の死が偶然の産物だったことに桐嶋は驚いていた。
偶然と必然が連続した結果、勝手な深読みが横行した先に、現在の状況がある。
「そうだな。おれも神様の存在を信じる」
「ん?どうした?」
「いや、こっちの話。ならば、クリムトの絵のことは?」
「正直、知らなかった。だから、おまえさんがちゃんと持ってきたことに驚いたよ。存在も中川の店で発見した資料で知ったのだがね。悠彩堂とやりとりした絵画リストの唯一の不一致点が、そのクリムトだったんだ。組織の管理は意外と杜撰で、不一致はよくある話なんだ。おまえさんの家はよほど誠実だったんだな」
『これも深読みの結果か…』
桐嶋は忸怩たる思いだ。
結末をハッピーエンドにしないと、すべてが裏目にでるかもしれないと身震いした。
◆◇◆
翌日から桐嶋は、板材の透かし模様の彫刻を含めた贋作製作作業に没頭した。
桐嶋の作業中は、見張りとしてリカルドが必ず同席している。
リカルドもそこにいるだけでは暇なのだろう。
桐嶋が聞いているかいないか、わからないにも関わらず雑談をしてくる。
その中で、クリムトの絵の謎が一つ解けた。
「その絵…ようやく見ることができたよ」
「知っているのか?」
「ああ、おれのじいさんからの伝聞だがね。何回も聞かされたもんさ」
桐嶋は内心身構えた。
このクリムトの絵を見たことがあるということは、直接的にハンナ一家へ関わりがあった可能性があるからだ。
惨劇の話なら聞きたくはない。
「おれのじいさんは大戦中、軍人でね。当時、イタリアと同盟関係だったナチスの将校から武勇伝として聞かされたそうだよ。絵の美しさは、ことさら夢見ごこちに語っていたそうだ。幾度も聞いたので、絵のことは詳細まで覚えてしまったと言っていた」
桐嶋の想像とは違ったらしい。
リカルドの言葉に耳を向ける。
「『やつらはこの絵の価値がわかっていない。飾る場所に嵌めるためリパーパシングするとは考えられない冒涜だ』と激昂していたらしい。だから、所持していた一家は収容所に叩きこんでやったと笑っていたそうだ。ただ、その将校が絵を賛美する言葉には惹かれたようでね。一度、見てみたいとしきりに言っていたのさ。もう、じいさんは亡くなったから、見ることはなかったがね」
リカルドは、クリムトの絵を見つめている。
伝聞が合っていたか確かめているようだ。
「じいさんの代わりに見ることになるとはね」
その口調には、故人を懐かしむような響きがあった。
この話以外にも面白い話はたくさん聞けた。
リカルドはなかなかの教養人でもあったようだ。
そんな話に耳を傾けながらも桐嶋は考えていた。
『親父はすごい技量の持ち主だったんだな。こんな我儘な絵をよくもここまで作り上げたもんだ』
ラファエロ作品の特徴は、非常に緻密で繊細な筆使いと絵具の厚塗りにある。
ラファエロは点字製作用の尖筆を多用し、下絵の輪郭を線ではなくぎざぎざの引っかき傷のような筆致で描いている。
この筆致が、画面に繊細さを与えるのだ。
緻密さはいたるところにある。
例えば、髪の毛だ。
よく見ると質感と色味の違う線で、髪の毛一本一本を丁寧に描いている。
この『若い男性の肖像』には、毛皮が描かれているが、この毛皮も髪の毛同様、いや、それ以上かもしれない繊細さで描かれている。
画面を触ると、そこに実物があると錯覚しそうなくらいの質感があるのだ。
最もやっかいなのが銀筆だ。
銀筆は、見た目は鉛筆と似ているが、芯に鉛ではなく銀を含んでいるため、より繊細で美しい線が描けるのが特徴だ。
ただし、繊細ゆえに筆圧の調整が非常に難しい。
銀筆で描かれた線は、最初は淡い灰色だが、空気に触れることで酸化がすすみ、次第に黒く変化していく。
この変化によって、時間経過とともに深みを増す、味わい深い表現が可能なのだ。
つまり、退色の加減一つですべてが変わる。
500年もの歳月を現代に蘇らせるため、桐嶋は神経をすり減らしながら作業をおこなった。
そして、完了予定日の夕方、ようやく贋作の製作は完了した。
「おい、リカルド。できたぞ」
桐嶋はかなり疲労しているが、おくびにもださない。
彼にとってはここからが本番だ。
一つでも弱みを見せるわけにはいかない。
「ようやくか。出来は?」
「完璧さ。見てみろよ」
リカルドは立ち上がり、修復された真作と、桐嶋が完成させた贋作を見比べる。
リカルドの本職はキュレーターだ。
絵画を見る目には自信がある。
その目で必死に粗探しをしても、違いが見当たらなかった。
「素晴らしいな。見事だ。武夫の技に見劣りしない。これまでの実績は伊達ではないということか」
『これはもう一つの真作だ』と、リカルドは感嘆した。
複製でもないし、贋作というのも違うと思わせる迫力が、その絵画にはあった。
「これなら贋作料に1億払っても惜しくはない。次も頼むぞ。近い内に連絡する」
「次か、次なぁ」
桐嶋は窓の外を見ている。
そろそろ暗くなってきたようだ。
「どうした?」
「照明を消してもらってもいいか?なあに、逃げはしないさ」
一語、一語、言葉を紡ぐごとに、桐嶋の表情が変わっていく。
◆◇◆
言葉の真意がわからないリカルドは反射的に拒否しようとしたが、これだけの技を持つ桐嶋の機嫌を損なうことは得策ではないと考え了承した。
「ああ、これでいいか?」
リカルドが照明の明かりを消すと、夕暮れの残滓が窓から伸びる。
暗闇というわけではないが、完全に視認するのは困難な程度の暗さだ。
桐嶋は二つの絵の場所の近くに移動し、予定していた行動を開始した。
「絵の場所は覚えているな?そこを見ていてくれ」
「ああ」
リカルドの返答を待ってから、桐嶋は準備してきたライトをポケットから取り出し、スイッチを入れ、絵にライトを向けた。
「…おい!どういうことだこれは!この色はなんだ!」
絵に降り注ぐ光は、現実離れした蛍光色のような淡い黄色を帯びていた。
その光は、まるで別世界からこぼれ落ちてきたかのように、不思議な存在感を放っている。
小さい範囲ではない。画面の至るところにその光は浮かび上がった。
透かし模様のところが特に強い。
片方だけではない。真作も贋作もほぼ同じ箇所が光っていた。
激昂したであろうリカルドが、銃を向けたのがシルエットからもわかる。
「今すぐ説明しろ!返答によってはただじゃおかん!」
「ああ、説明するさ。そのためにここまで来たようなもんだ」
桐嶋は動じもせずにソファに腰かけ、ライトを消した。
リカルドは大声をだしているわけではない。
抑制された響くような低音だ。
驚いた時の大声は「恐れ」の発露だ。
人によっては威圧の効果にならず、逆に侮られる結果を生む。
桐嶋が、その類だと本能的に理解しているのかもしれない。
「油彩画の顔料には様々な材料が使われる。それは知っているだろうが、その中にはこんな効果をもたらす材料もあるということさ」
「…その材料はなんだ…」
「雲母だよ」
「雲母だと?ばかな、そのような色に光る雲母なぞ、見たことも聞いたこともない!」
桐嶋は、手元のライトを手の中で転がしている。
「普通に流通している雲母は、光を反射してキラキラと光るが、蛍光色には光らないさ。この絵に使われている、他の雲母だってそうだ。しかし、特定の波長の光をあてると蛍光発光するのがこれだ」
桐嶋は再びライトをあてた。
リカルドがよく見ると、ライトから照射されている光は青紫色だった。
「ブラックライト…か」
「当たり。こいつは短波UVライトさ。通常の太陽光は長波。短波でなければ、この雲母は発光しない」
「いったいどこにそんな雲母が」
「日本の特定の地域でしか産出しない雲母なのさ。名を『銀雲』という。そして銀雲は、アウラ・ノクティスで約50年前から流通していた」
「なんだと!?」
心底驚いたリカルドは、大声がでそうになったが無理やり抑え込んだ。
桐嶋が語り始めた情報は危うい。
他の人間に聞かせてはいけないと悟ったのだ。
「鷺沼だよ。おれのじいさんから『高品質の雲母』の話を聞き、販売元に出向き、仕入れて流通させた。その総量1.8t」
「1.8t!?」
「ああ、そうだ。もっとも50年に渡っての量だから、一度の流通ではそこまでの量ではない。ただ、アウラ・ノクティスから仕事をもらっていた修復家のほとんどは使ったことがあるだろうな」
「…だとすれば、修復や贋作製作に雲母が使われている絵画は…」
「そうさ。このライトをあてればすぐにわかる」
桐嶋は再びライトを消した。
暗い場所での光は、見るものに様々な心理的効果を与える。
ライトの点滅によって、桐嶋はリカルドの不安を増幅させようとしていた。
「どれだけの数があるか検討もつかん…」
「だろうな。自分で『管理が甘い組織』と言っていたくらいだ。しかも、実際に作業に当たった修復家や、その絵に関係した画商は誰もいない。おまえらが全員殺してしまった。すべての絵を回収し、短波の紫外線をあてて確認する以外に方法はないが、そんなことは不可能だろう?」
「ああ、できるわけがない…」
リカルドは、何かを決意したように銃を構え直し、桐嶋に狙いをつけた。
「このことを知っているのは、おまえさん一人か?」
「そんなわけがないだろう」
桐嶋は立ち上がり両手を広げた。




