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黄金の荊棘 〜下町の絵画修復家、ナチスの遺産と巨大組織の陰謀に挑む〜  作者: 秋澄しえる


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第36話「拉致」

 某所。


 倉橋は闇の中にいた。


 まだ意識が混濁していて状況が呑み込めないでいる。


 少しすると、自分が目隠しされていることに気が付いた。


 椅子に座り、両手を後ろ手で拘束されている。


 足が重い。おそらくうっ血しているのだろう。


 それだけでも長い時間座りっぱなしだったことがわかる。


「ボス、動いたぞ。死んではいないらしい」


 クセは強いが英語だ。


 桐嶋さんの口から時折でてくるドイツ語のニュアンスに近い気がする。


 例の組織に捕まったのかと理解した。


 東京駅で、迎えに来たという駒込署の刑事2人と車に乗り、自宅に向かってもらったことを思い出した。しかし、四谷駅近辺で急激に眠くなり、その先の意識がない。


 もしかしたら、あの眠気はなんらかの薬品の効果だったのかもしれない。


 ドラマや映画と違って、実際には即効性の催眠ガスは存在しない。


 よくあるクロロホルムにも即効性はないのだ。


 ただし、クロロホルムをある程度の時間に渡って吸引していれば話は別だ。


 思いおこせば、同乗した刑事2人はマスクをしていた。


 あのマスクには対抗薬品が塗布されていたのかもしれない。


 しかも、渋滞の多い道を選択していた。


 薬が効くまでの時間稼ぎか。


 ようやく倉橋は現在の状況を把握した。


 喉がひりつく。長時間、水分を摂取していないせいだ。


 おそらく声もまともにでないだろう。


 そう思っていたら口元になにかをあてられた。


 プラスチックのような感触。


 …ストローか?口をつけるとやはりストローのようだ。


 恐る恐る吸い込むと、口の中に柔らかい水の味が広がった。


 冷静にゆっくりと口に含ませる。


 徐々に徐々に水分を浸透させる。


 喉が広がっていくようだ。


 カサカサだった舌も味蕾が膨らんでいく。


 充分に口の中を湿らせてから水を飲み込んだ。


 食道から胃へ、


 染みわたる感覚が心地いい。


 それからは何口も飲み込んだ。


 ようやく声がでそうな気がする。


 ストローを口から離した。


「腹へった。なんかくれ。重いのはいらない。ゼリーがいい」


 肌感覚から近くにいるのはおそらく二人だ。


 一人は呆気にとられ、一人は心底おもしろそうに笑っている。


「元気そうでなによりだ。おまえさんが死んじゃいないかヒヤヒヤしてた。待ってろ、今準備させる」


 声からして笑っていた方か。


 だとすれば、水を飲ませてくれたのが、最初に聞いた声の方。


 つまり、ボスと呼ばれたのがこいつか。


 話している言葉は日本語だ。


 そこまで流暢ではない。


 先月頭に、研修で部署にきていたフィレンツェのキュレーターのようなアクセント。


 イタリア人?


 そして『今準備させる』という言葉に微かな足音もつながった。


 つまり3人か。3人目がどこかに買いに行ってくれたのだろう。


「おまえさんは、二日意識を失っていたんだ。やはり素人にやらせるとダメだな。微妙な匙加減がヘタクソだ。すまなかった」


「…普通、謝るところか?」


「ああ、おまえさんには無事でいてもらわないと困る。危害を加えるつもりはない」


「じゃあ、この拘束を解いてくれないか?さすがに痛い」


「そうだな。暴れないと約束してくれるなら」


「こっちは一人だ。暴れても仕方ないだろう」


 近くにいた方が寄ってきて、拘束をすべて解いてくれた。


 腕と足をゆっくり動かす。まだ鈍い感じだが問題ない。


「目隠しはそのままにさせてくれ。さすがに顏を見られるわけにはいかないのでね」


「声はいいのか」


「録音でもしていない限り問題ないさ。群衆の中ですれ違った時にわからなければそれでいい」


「立ち上がってもいいか?」


「どうぞ」


 ゆっくりと立ち上がり、屈伸をしたり肩を回してみた。


 血液が循環し始めたのを感じる。


 少しふくらはぎがかゆい。


 手首は拘束されていた時のスレがあるようで、軽くヒリヒリする。


 ひどい感じはしないので赤くなっているくらいだろう。


「そら、飲めるタイプのゼリーだ。日本は便利だな。こういうものが簡単に手に入る。おにぎりも準備した。食べられそうなら言ってくれ」


 近寄ってきた何者かによって、手にウィダーインゼリーを握らされた。


 さきほど買いに行ってから戻ってくるのが早い。


 コンビニが近くにあるのだろう。


 扉が開けられた音も聞こえた。


 出ていく時にはほぼ聞こえなかったはずだ。


 戻ってくる時に、より大きな音がでたということは風圧か。


 かすかに大量の車の音も聞こえた。


 首都高か環状線か…いや、まだ情報が少ないな。


「水はいらんか?」


「いる」


 口元にストローがつけられた。


「いたれり尽くせりだな」


「早いとこ回復してもらわんと次の段階に移れないからな」


「桐嶋さんか?」


「そうだ。おまえさんはそのための交換要員さ。彼自身と接触できれば話は早かったが、まったく足取りがつかめなくてな。おかげで苦労したよ」


「なぜ、おれが?というより、なぜ、あの日の行動を把握していた?おれですらも前日までわかっていなかったのに」


「あの日の朝、東京駅でおまえさんを見かけてね。悪いがつけさせてもらった。当日、東京に戻ることがわかってからは状況を利用しただけさ」


「尾行?鳴海が気づかないほどの?」


「彼は警察だろう?日本の。さすがに特殊な訓練を受けた人物にはかなわないさ」


「ああ、そういうことか」


 近所への聞き込みで対象者をリストアップし、面倒ではない方の一般人を狙ったということはわかった。


 しかし、東京駅で見かけたということは、顏と名前が一致している上に、ある程度見慣れていなければ群衆の中からふいに見つけ出すことは不可能だ。


「あんた…リカルド・フェラーラ?」


「…よくわかったな」


 名前を呼ばれた本人よりも周囲がざわめいたのがわかる。


 ただし、リカルドと呼ばれた人物が肯定した時にそれはおこっていた。


「聞き込みの報告を受けた時には驚いたよ。まさか、先月、文化庁で一緒に働いた御仁がターゲットとはね」


「2週間だったか?」


「そうだな。だから余計にこんな形で死なれちゃ後味が悪かった。そういう意味では心底安心したよ」


「あんただとわかったわけだし、目隠しもとっていいか?」


「おれだけならいいが、他にもいるので勘弁してくれ」


「…わかった。しかし、いいのか?そんなにあっさり正体をばらして。表の仕事に支障がでるんじゃないのか?」


「知っているか?今の世の中は日本のコンビニ以上に便利だよ。顏と名前程度ならどうとでもなる。指紋もな。虹彩や静脈認証はまだだが、その内なんとかなるだろう。技術の発展万々歳だな」


 確かに身分証や保険証、パスポートだってなんとかなっている。


 どんなルートかは知らないが、そういうものの製造工場が摘発されたなんてニュースも流れるくらいだ。


 一般人が思っている以上に世の中は『便利』だ。


 相手がプロなら無駄なことはしないだろう。


 そういう意味では、倉橋の安全がある程度保証されたと考えて間違いない。


『桐嶋さんとも腐れ縁だよなぁ。まさか、こんなに濃いつきあいになるとは』


 倉橋と桐嶋には元々接点がなかった。


 ただ、藤堂とは大学時代の先輩後輩の間柄だ。


 桐嶋とは、その藤堂つながりで知り合い、会ったその日から意気投合。


 桐嶋が5年前に帰国してからは、絵画に関するアドバイスをたびたびもらっていた。


 桐嶋さんには切り札がある。


 それは、たぶんあの『銀雲』だ。


 それでなければ、現在の状況で自分と鳴海をわざわざ向かわせはしない。


『鳴海はちゃんと分析できたんだろうか』


 鳴海とも同じ大学だが、年齢が5つ違いのせいで在学中はまったくかぶっていない。


 こちらは桐嶋つながりだ。


 桐嶋と鳴海がどうやって知り合ったかは聞いていないが、所属組織的に考えても藤堂からなのだろうと思う。


 桐嶋との交換材料に使われることには、忸怩たる思いはある。


 ただ、倉橋は自分が捕まったこと自体は、まだ良かったと思っている。


 自分がターゲットになっていたならば、よりガードの薄い、奏が狙われていた可能性もあったからだ。


 もし、奏が誘拐されたとしたらどう行動しただろう。倉橋はしばし考えた。


『東京を壊滅させていたかもな。エヴァの使徒なみに』


 非常に物騒な結果が想像されたようだ。


 自分の想像を脳裏に描いて面白くなり、気分が楽になった倉橋は、これからのことを考えるよう気持ちを切り替えた。


「それで?これからどうするんだ?」


「今準備を進めている。もう少しかかる」


「今、何時だ」


「午前8時」


「そうか。なぁ、おにぎりもくれるか?」


「…元気なようでなによりだ」


 倉橋は、味気ないコンビニおにぎりをゆっくり食べながら、奏の卵焼きが食べたいと痛切に思っていた。


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