第32話「祖父」
午後8時。
桐嶋はパーソナルスペースに誰もいない感覚を味わっていた。
妻ソフィアが亡くなってから7年。
今回ほどの長さで他人といることがなかったからか、ストレスを感じているようだ。
皆に対して不満もないし、気心の知れた仲間たちだとも思っている。
それでもやはり一人になる時間は必要だ。
なまじ優秀な人ばかりなだけに、自分も優秀なのではないかと錯覚することが怖い。
キャリーから自己評価を高くしろと言われたが、絵画修復の腕と、人間そのものの出来に対する評価は違うと、桐嶋は自分に言い聞かせている。
ついさきほど倉橋からメールの返信があった。
『わかりました。なにかあったら連絡ください』
律儀な文面に思わず笑みがこぼれる。
頼れる相手がいることは幸せだ。それが複数いればなおさらだ。
桐嶋はその幸せを嚙みしめながら父親の携帯を手にした。
藤原経久の名前を選択し通話ボタンを押す。
コール音がむなしく響く。
1回…3回…8回…12回…17回…。
そろそろかけなおそうかと桐嶋は思い、ボタンに指をかけた時、相手がでた。
「武夫…のわけはないな…誰だ」
言葉の圧が強い。決して齢100歳近い男性の声ではない。
気圧されながら声を絞り出した。
「…はじめまして。武夫の息子、悠斗です」
電話の相手は無言だ。
当然だろう。
会ったこともない人物の名乗りなど信用できるわけがない。
桐嶋は少し後悔したが、相手の言葉を待つことにした。
「もう40年近く前になるか。君が生まれた時、幸恵さんから写真入りの封書をもらったよ。健吾との連名でね。君の名を聞いたのはそれ以来だ」
「信用していただけるのですか」
「声が武夫似だ。信じないわけにはいくまい」
「…ありがとうございます」
桐嶋の言葉に安堵感が重なった。
「わしが、君の祖父だということは知っているかね?」
「はい、つい最近。祖父、健吾の日記で知りました」
「健吾の日記?あいつはそんなものを書いていたのか」
「はい。あなたのことも仙台の顔料屋としか書いておらず、父の携帯などを調べてようやくたどりつきました」
「顔料屋…顔料屋か…懐かしいな。健吾とは古い付き合いでね、わしのことを顔料屋と呼ぶのは、後にも先にもあいつだけだ。別の商売で必要だった鉱石を競り落とす場で、たまたま会ったのだよ。まさか、あんなに長い付き合いになるとは思わなかったなあ」
声から圧が薄れてる。
本当に懐かしがってる雰囲気が桐嶋に伝わった。
「父が亡くなったことは?」
「知っている。あそこのふもとの村には知人がいてね。亡くなった4日後だったかに聞いたよ。不思議に涙もでなかった。ひどい父親がいたもんだと自分で自分を責めたもんさ。それも5年前か、早いもんだな」
「父が別荘に行くときには送迎していただいていたらしいですね」
「あいつはひどいやつでな。わしの知らんとこで、店のもんに送迎させていたらしい」
だからトーゼンの電話番号が登録されていたのか。桐嶋は合点がいった。
「当時のトーゼンの専務は、養子に行く前の武夫を唯一知っている人間だ。だからだろうな。岩手に行く時には便宜を図っていたことを亡くなった後に聞いた。こっぴどく叱ってやったがな」
くぐもった笑い声が電話口に響く。
健吾の日記からすると、武夫は疎まれていたように感じたがそうでもないようだ。
逆に自分を頼ってこなかった寂しささえ感じる。
桐嶋は祖父・経久の複雑な気持ちを少し理解したような気がした。
そして、電話した直後より、はるかに気が楽になった桐嶋は鷺沼のことも聞いてみることにした。
「鷺沼という人のことは?」
「鷺沼?…ああ、あいつか、知っている。最初は父親の方が来ていたが、いつからだったか息子に代替わりしていたな。息子の方とは、武夫が仲良くしていたらしいことは聞いた」
「その息子の方の鷺沼も先日亡くなりました」
「本当か!…そうか…。なあ、悠斗…!いや…あの…君、悠斗と呼んでもいいか?」
爺様が恥ずかしがってる。
しかも遠慮しながらだ。
桐嶋はうれしくなってきた。
「大丈夫です。私も爺様と呼ばせていただければ幸いですが」
「そうか…そうか。かまわんぞ。そう言ってくれる人もおらんでな」
うれしさと寂しさが混在しているような言葉だった。
桐嶋は、自分と同じで肉親との関係性が薄い人なのだろうと思い聞いてみた。
「お孫さん、いや、もう曾孫さんもいますか。みなさんは?」
「誰も来ぬさ。亮治すらもな。亮治は妻の縁戚でな。養子にはもらったが、あくまで妻の要望で店を継がせるためだけでしかない。もう、そういうものだとあきらめていた。…悠斗、おまえがわしにとって唯一の血のつながった肉親ということだ」
「爺様…」
「そう呼ばれることが喜ばしいと感じる時がくるとは、ついぞ思わなんだ。どうだ、顏を見せに来てくれんか?」
「行きたいのは山々ですが、今は立て込んでいて東京から動けないのです。落ち着いたら必ずお伺いします。その時には、健吾の日記も持っていきますので、お話を聞かせてもらえたらうれしいですね」
「おうおう、健吾の昔話ならいくらでもあるぞ。楽しみにして待っているとしよう。それで、悠斗」
声色が突然変わった。だが、最初のような威圧ではなく、多少の警戒と好奇が混ざったような声だ。
「用件はなんだ。まさか、昔話を聞くためにわざわざ電話してきたわけではあるまい?」
「はい」
桐嶋も居住まいをただす。
確認したいことは一つだ。
「鷺沼に卸していた雲母をいただきたい。加えて、これまでどれだけの量を販売していたか教えていただきたく連絡しました」
「雲母?」
「ええ、健吾の日記に『非常に質の高い雲母』という記述があり、それを顔料屋から仕入れていると」
「ああ、あれのことか。おい!」
最後の声は、側にいる何者かにかけた声らしい。
声の響きから、広く天井も高い部屋にいることが伺えた。
経久は、電話にかまわず話し続けた。
「銀雲の在庫はいくら残ってる?あとな、鷺沼に販売した量も調べろ」
電話の先で、かすかに了承した声が聞こえた。
「すぐにでてくるさ。待っていなさい」
「銀雲というのが、その雲母の名前なのですか?」
「ああ、そうだ。このあたりで採れるのだが、鉱床自体は震災の山崩れで埋まってしまった。他で聞いたこともない鉱石だ。もうここにしか残っていないだろう」
電話口で紙が渡された音が聞こえる。
「残り6kgだな。これで最後だ。鷺沼に販売したのは総量1.8t。まずまずの量だが、顔料の材料として考えれば充分な量だろう」
「最後に鷺沼に販売したのは」
「6年前だな。その後、やつはここには来ておらん」
「そうですか。その最後の6kgを頂戴することはできますか?」
「ああ、かまわんぞ。東京支社に送ることもできるが、今あっちでは鉱石を扱っておらん。何事か訝しがられるのは面倒だな」
「では、私が信頼している人物をいただきにあがらせるのはいかがでしょう」
「それならいいだろう。わしとしては悠斗に来てもらいたいが、わがままは言わんでおこう」
「すみません」
「それで?誰がいつくる?」
「日程などを調整次第、また連絡します」
「わかった。それではな」
電話は終わった。
桐嶋にとっては最大限の成果だ。
まさかここまで話がうまくいくとは思いもしなかったようだ。
桐嶋は、呆気にとられて電話を見つめていた。
「爺様か…」
感慨深いものがあった。
自分にとっては、間違いなく唯一の肉親ではあるのだが、どこか他人事のような感覚もある。
単純に慣れていないだけなのだが、肉親に慣れるということを知らなかった桐嶋にはわからなかった。
「さて、余人に頼むわけにはいかない。鳴海は確定として、奏には悪いが、倉橋にお願いするしかないか」
扉の外に顏をだすと、すぐに鳴海がいた。手招きするとすぐにやってきた。
「どうしたっすか?」
「頼みがある」
「なんすか、あらたまって」
「仙台に行ってほしい。おれの代理として、ある人物から雲母を受け取ってきてくれ」
「雲母というと…例の」
「ああ、それだ。『特殊な雲母』」
「ある人物って誰っすか?」
「トーゼンの藤原経久」
「トーゼントーゼン♪」
鳴海が歌い始めた。やはり知っていたようだ。




