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黄金の荊棘 〜下町の絵画修復家、ナチスの遺産と巨大組織の陰謀に挑む〜  作者: 秋澄しえる


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3/20

第3話「57の傷」

「思ったより小さいな」


 ロッカーの中にあったのは60cm四方程度の紙包みだった。


 桐嶋は慎重に包みを取り出し、重さを確かめる。キャンバスと木枠の重みが手に伝わる。


 すぐにタクシーを拾い、団子坂の悠彩堂へと戻った。


 車窓を流れる東京の街並みが、どこか遠い世界のように感じられた。


 アトリエに戻ると、すぐに鍵をかけ、カーテンを閉め切る。


 静寂に包まれた空間は、桐嶋にとっての聖域だった。


 桐嶋は椅子に座ると、紙包みをほどき、件の絵をとりだし、比較的きれいそうなイーゼルにセットした。


 包装紙を丁寧に外し、絵画と対面する瞬間、桐嶋の心臓は高鳴った。


「やはり小さいな」


 現状確認のために、デジタルノギスで計ると、縦52.1cm、横49.3cmのサイズだった。


 クリムトの作品にしては、かなり小さい部類のものだ。


 しかし、丹念に構図やモデルを確認するとある答えが導き出されてきた。


「リパーパシングしたのか」


 リパーパシングとは、元の作品の一部を切り取り、新しい作品として再構成することをいう。


 上辺と右辺の空き具合、モデルの目線や肩の向き、手の組み方等、サイズという疑問を元に状況証拠を集めていけば一目瞭然だった。


 元の絵画がどのような構図だったのか、切り取られた部分には何が描かれていたのか、桐嶋の頭の中で想像が膨らんでいく。


 桐嶋は絵画に近づき、その細部を注意深く観察した。


 金箔の装飾が施された背景部分が、照明の柔らかな光を反射して輝いていた。金箔の輝きは、絵画に神聖な雰囲気を与えている。


 ただ、事前知識なしに、元からこの絵だと言われれば違和感なく受け入れてしまうだろう。


 それくらい再構成の出来が良い。おそらく1900年代前半に、それなりの技術とセンスをもった人物の手によるものだと思われる。


「いい仕事だ」


 同業者として称賛したいくらいの出来栄えに、桐嶋の口元が緩む。


 これほどの技術を持つ修復家が、かつて存在したことに畏敬の念を抱く。


 そして問題の剥落だ。


 桐嶋は拡大鏡を取り出し、剥落部分を覗き込んだ。


 レンズ越しに見る世界は、初めて目にした写真とは全く異なる様相を呈していた。


「…傷?」


 剥落に見えた箇所は、剥落ではなかった。


 絵具が剥がれ落ちたのではなく、何かが押し付けられ、えぐられたような痕跡だった。


 しかも、一つや二つではない。


 顔の部分を中心に、無数の細かい傷が刻まれている。


 桐嶋は数えてみた。


「57個…」


 57個の傷。


 それらは不規則に、しかし何か意図を持ってつけられたかのように見えた。


 何か鋭利な道具でつけた傷か?


「パレットナイフ?…いや、違うな。筆でもないし、ブラシとも異なる」


 少し歪んだライン、深くはなく、おそらくゆっくりつけられたであろう傷。


 桐嶋の頭の中で、様々な可能性が巡る。そして、ある可能性に思い至った瞬間、背筋に冷たいものを感じた。


「…爪…?」


 その瞬間、桐嶋の背筋に冷たいものが走った。


 美しい少女の肖像画に刻まれた無数の傷。


 それはまるで、断末魔の叫びを封じ込めたかのような、怨嗟の痕跡に見えた。


 その瞬間、桐嶋は急に疲労感に襲われた。


 長時間の緊張と集中が一気に押し寄せてきたようだ。冷や汗が背中を伝う。


 顔をあげると、壁掛け時計の針が午前2時を指していた。時間を忘れるほど集中していたらしい。


 深いため息をつき、椅子から立ち上がった。体を伸ばすと、関節がきしむ音がした。


 桐嶋は絵画を慎重に保管用の棚に収め、作業場を整理した。


 絵画を布で覆い、大切に保管する。


 当分急ぎの仕事がないことを確認してから、ゆっくりと2階の寝室へ向かった。


 階段を上がりながら、桐嶋の頭の中では今日の出来事が走馬灯のように巡っていた。


 謎が謎を呼ぶ絵画、そして正体不明の依頼人。


 寝室に入ると、窓から東京の夜景が見える。


 遠くに輝くビルの明かりを眺めながら、明日からの修復作業に思いを巡らせ、桐嶋はベッドに横たわった。


 しかし、その夜は長い間、眠りにつくことができなかった。絵画の謎が、桐嶋の心を捉えて離さない。


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