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黄金の荊棘 〜下町の絵画修復家、ナチスの遺産と巨大組織の陰謀に挑む〜  作者: 秋澄しえる


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第28話「帰国」

 日曜日。


 午前7時半をすぎる頃、倉橋の姿が羽田空港の国際線到着ロビーにあった。


 目線が出口と腕時計を往復している。


「慎ちゃん!ただいま~!疲れたーーー!!」


 出口から走ってきて倉橋に飛びついたのは、倉橋の妻、奏だ。


 抱きついた拍子に、手に持っていたストラディバリウスのケースが背中にぶつかる。


 その痛さをものともせず、倉橋は奏を強く抱きしめた。


「おかえり奏。会いたかったよ」


「もう!慎ちゃんは人前でも平気でそういうこと言うからなぁ。照れるぜ」


 そう言いながら、満更でもない奏は倉橋の頬に自分の頬を押し付ける。


「さぁ!帰ろう帰ろう我が家に帰ろう!もう当分ブリテンは行きたくない!やっぱ日本のメシが一番だわぁ。慎ちゃんが作ってくれるメシが恋しくて仕方なかったです!」


「うれしいこと言ってくれるなぁ。今晩のメシの準備は万端。奏の好物ばかり準備してる」


「お?鶏のコンフィ!?じゃがいもとオリーブのサラダ!?」


「どっちもさ。それにご飯とみそ汁だろ?」


「それそれーー!うー、ハラヘッタ。早く帰ろう」


 現金な奏は、ヴァイオリンのケースとキャリーケースを振りながら歩き始めた。


「で?車はどっち?」


「P5駐車場」


「やるー!できる男は違いますなぁ」


 P5駐車場は国際線ターミナルの建物に直結しているうえ、予約も可能なためため非常に使いやすい。


 倉橋は、妻が手にもっていたケースを二つ受け取り、先導して歩いていく。


「荷物これだけ?」


「他は全部送ったよ。3~4日後に届くんじゃないかな?日本と違って適当だから多分そのくらいっていう目安でしかないけど」


「期日通りなのは日本くらいしかないからな。そんなもんさ」


 二人は倉橋の車に乗り、四谷のマンションに向かった。


 去年、購入した中古マンション。


 駅から歩いて7分。2LDKで駐車場も完備の使いやすい物件だ。


 道すがら、倉橋はここ数日間の話をした。奏は、桐嶋、藤堂、鳴海の3人と仲が良く、なぜか全員を「クン」呼びだ。


 3人もその呼び方に違和感がないらしく文句もない。


 なお、奏は自分のことを「僕」と呼ぶ。


「僕がいない間にそんなことなってたのか。桐嶋クンも大変だぁ。で、キャロラインちゃんは美人?」


 妻からそう聞かれると返答に困る。倉橋は簡潔に伝えた。


「美人?…美人だな」


「写真ないの!?写真!」


「岩手で別荘の内装をスマホでたくさん撮ったからもしかしたら写っているかも?」


「どれどれ…」


 奏は倉橋のスマホを遠慮もなしに操作し始めた。


 倉橋もその行動をとがめるでもない。そういう夫婦なのだろう。


「やー、いっぱい撮ったねぇ…お、この人?」


 渋滞で車が止まった時を見計らって倉橋が確認する。


「その人はミラーさん。ウインストンさんの護衛」


「へー、この人も美人だねぇ…あ!このコ!このコでしょ!」


 その画面には確かに彼女が写っていた。


「なにこのコ!めっちゃ美人じゃん!テンションあがるー!桐嶋クンもメロメロじゃないの?」


 倉橋は桐嶋の行動や言動を思い出しながら首を傾げた。


「いや…むしろ扱いに困っている感じ?」


「わー、うちの男どもは枯れてんなぁ」


 奏は心底呆れた表情をした。


「僕が男なら放っておかないけどなぁ。ありえん、こいつら」


「旦那にそう言われても。あ、鳴海が瞬速で失恋したとか言ってたか」


「鳴海クンだけ正常。他はダメだね」


 スマホに桐嶋の名前が表示された。


 奏は躊躇なくスピーカーボタンを押す。


「やっほー!桐嶋クン!ただいまー」


「ん?あれ?…奏か!おかえり!いつ帰ってきたんだ?」


「今日今日、ついさっき。慎ちゃんは運転中さー。僕が替りにとっておいた。それでね、キャロラインちゃんに会いたいぞ」


 奏が何の前情報もなしに突然言い放つ。


 桐嶋は面食らったが、倉橋の妻がそういう人物だと理解してもいるので気分を害することはなかった。


「これ、スピーカー?」


「そうそう」


「倉橋、聞こえてるか?」


「はい、大丈夫です」


「今回の件は?」


「さっきすべて説明しました」


「そうか…おれはかまわんが。おまえはいいのか?巻き込むことになるぞ」


「おれが今回の件にどっぷり浸かっていますから。帰国した以上、完全に関わらないようにするのは無理です。だから逆に、一緒にハマってもらうつもりで説明しました。すでに巻き込んでいるも同じです」


 桐嶋のため息が聞こえる


「わかった。キャリーに聞いてみる。ちょっと待っててくれ」


 保留音が車内に流れた。


「あれれ?一緒の部屋にいるんじゃない?」


「そうかな」


「別な部屋だったら切ると思うよ。絶対一緒だね!」


 ほどなく保留音が解除された。


「会うそうだ。倉橋にも世話になっているからかまわないと。ホテルはわかるな?」


「ええ。鳴海から聞いてます」


「表にミラーが迎えに行く。では、後ほど」


 言葉の最後に切断音が重なる。


 電話の切り方は人それぞれだ。


 仕事の電話で相手が切るのを待っている人ほど、プライベートでは切るのが早い傾向がある。


 桐嶋はどっちも早そうだと倉橋は感じた。


「さて、旦那様。お許しもでたことなので…進路変更!四谷からどこか!」


「了解!新宿に向かいます!」



◆◇◆



 桐嶋の部屋の扉がノックされた。


 どうやら倉橋夫妻が着いたようだ。


 招き入れられると、奏はズカズカと一直線にキャリーに向かっていき、片手を差し出した。


「はじめまして!キャリーちゃんと呼んでもいいかい?」


 礼儀が一切感じられない奏の行動にミラーが眉をひそめる。


 倉橋がミラーに謝っている姿を見ながら、桐嶋は頭をかかえていた。


 しかし、キャリーは奏の顏を見るなり、両手で口を押えている。


「え?え?…カナデ・クラハシ…?」


「ん?確かに僕は倉橋奏だが?どこかで会ったことあったかな?」


「本当に??…ファンです!大ファンなんです!去年のクリスマスコンサートにも行きました!」


「あー、カーネギーホールの。METオーケストラと一緒に公演したね」


「それです!そこに私もいました!」


 キャリーの頬が紅潮している。


 聞いていたミラーも驚きの表情だ。彼女も知っている名前らしい。


 桐嶋が倉橋に寄っていき、怪訝そうな表情で聞いた。


「奏ってそんなに有名なのか?」


「一応、世界中からオファーがあるヴァイオリニストですから」


「え!そんなにすごかったのか!?」


「そうですよ。うちの奥さんすごいでしょ」


 倉橋が誇らしげだ。


 見ると、ミラーも奏に握手してもらいたそうに近づいていた。


 奏はキャリーを抱擁していたが、ミラーに気づき握手している。


「こうやって見ると、日本人は演奏者に対して淡泊だよな」


「そうですね。アイドルやバンドマンに対するものとは明らかに違います。ウインストンさんやミラーさんの姿は、欧米圏では自然な反応ですが、日本ではまず見ないですね」


 倉橋が思い出したように言葉をつなぐ。


「以前、こんなことがありましたよ。知人が趣味でヴァイオリンをやっているんですが、ミニコンサートを開いた後、打ち上げ的に二人で行きつけのスナックに行ったんですよ。そこで、まぁ、普通に飲んでいたんですが、酔った知人が店主の求めに応じて、手持ちのヴァイオリンで演奏した途端、店内の雰囲気が変わったんです」


「ほう。どんな感じに?」


「他の客の会話がピタッとやみ、みんな姿勢を正し始めたんですよ。これがアメリカやイギリスなら口笛や手拍子が入りますからね。あれはなんですかね、強迫観念?」


「単純に慣れてないというのもあるかもしれないが、小学生の時にあった音楽鑑賞とやらの影響もあるのかもな」


「なるほど。慣れてない楽器の音楽を無理やり姿勢を正して聞かされた影響ですか。言われてみると、あの時の客は年配の方ばかりでした」


「我々の世代はそうでもないが、親世代となるとまさにそれだろうなぁ」


 二人の会話が聞こえたからではないだろうが、奏が演奏の準備を始めた。


 調律の音からして違う。


 やがて演奏が始まった。フリッツ・クライスラーの「愛の喜び」だ。


 この曲は演奏者の技量によってまったく異なる趣きになる。


 奏の演奏は、軽快で喜びに満ちたメロディラインに感情がのっているかのようだ。


 世界的ソリストと、世界的名器に相応しい演奏だった。


 演奏が終わると自然と拍手が湧いた。キャリーは微かに涙まで流している。


 女性陣3人はそのままソファに陣取り、なにやら話し始めた。


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