第23話「軌跡」
結果から言えば、乱雑な筆跡で綴られたその記録は、戦火のヨーロッパから極東の島国へと流れた、ある男の魂の遍歴だった。
◆◇◆
エリアス・ブラウの日記。
(英語とドイツ語が混在。一部に日本語、ラテン語、ヘブライ語有り)
1946年 5月10日:おれたちはオーストリアから上海に逃れ8年すごした。今度はニューヨークへ渡る。新しい生活が始まる。今日から日記を書くことにした。悪いことばかりにならないといいな。
1953年 9月20日:父の再婚相手が金持って逃げた。
1954年 2月14日:父が自ら命を絶った。
1954年11月 1日:遺産を三分割したおれたち兄弟は、それぞれの道を歩むことにした。
一人はアメリカに残り、一人はブラジルへ。おれは日本に行く。
おれは、幼い頃から上海で慣れ親しんでいた、日本の文化に触れてみたいと思った。
絵が得意だし絵画関係の仕事をしたい。
1956年 6月10日:日本に来てから、もう1年が経とうとしている。
横浜に降り立った日から、1年。早い。
祖国オーストリアを後にしてから、上海、ニューヨークと、まるで流れ者のようだ。
ここ日本では、たどたどしい日本語でもたまに通じるのが救いだ。
上海で覚えた甲斐があったというものだ。
それでも異国の地には違いない。金もそうだがどうもに落ち着かない。
1956年 6月17日:上野の博物館で開かれていた展覧会を見に行き、その足でふらふらと歩き回っていたら団子坂という場所にいた。
「悠彩堂」という名の画廊があったので、ひやかし半分で入ってみた。
そこで素晴らしい女性に出会った。
透き通るような白い肌、吸い込まれそうな茶色の瞳。
名をエヴァといった。
偶然にも同じユダヤ人のようだ。
彼女以外に、おれの人生を彩る女性はいないと、そう確信した。
1959年 4月20日:エヴァと結婚した。彼女は太陽のような心の温かい女性だ。
結婚と同時に、この「悠彩堂」に住み込みで働くことになった。
婿入りという形をとったのでエリアス・ローゼンタールとなったが、この機会に日本名を名乗ることにした。
「桐嶋健吾」。
エヴァは「桐嶋彩子」になった。
戸籍もなんとかなった。
やっぱり世の中、人脈と金だな。
義父であるザムエルさんは、寡黙だが職人気質の男だ。
彼の下で、絵画修復の技術を磨いていくことにした。
◆◇◆
桐嶋…。桐嶋健吾。
もしかして…祖父なのか?
エリアス・ブラウ…ローゼンタール。
◆◇◆
1960年10月 2日:娘が生まれた。
「サラ・ローゼンタール(日本名:桐嶋幸恵)」
娘か。このおれに娘ができたのか。
1961年 9月 3日:「悠彩堂」には、価値の高い絵画の修復依頼が後を絶たない。
クレー、カンディンスキー、エルンスト、シャガール。
どれも素晴らしい作品ばかりだが、どこか不自然な点がある。
修復を必要とする絵画の状態が、あまりにも似通っているのだ。
煤けているものや絵具が溶けかけているものが多い。
ザムエルさんに尋ねてみたが、「時期が来たら分かる」と、はぐらかされてしまった。
1965年 11月12日:今日、修復依頼の絵の中に、グスタフ・クリムトの作品があった。
タイトルは分からないが、若い女性の肖像画だ。
見た瞬間、心臓が凍りついた。
この絵は、幼少の頃、オーストリアの隣家に飾られていた絵画だ。
見間違えるはずがない。
隣に住んでいたのは、ハンナという女の子。
俺より一つ年上で、よく一緒に遊んだものだ。
そしてこの絵には、当時なかったはずの小さな爪で刺したような傷跡が無数に刻まれていた。
ナチスがオーストリアに侵攻してきた時、おれたち一家はすぐに逃げ出したが、ハンナ一家はどうだったのだろう。
この絵が「悠彩堂」に持ち込まれたということは…。
ハンナ、君たちは一体どうなってしまったんだ?
そしてこの傷は?
1965年 12月 1日:
このクリムトの絵だけは依頼者に渡してはいけない。
おれは強烈にそう思った。
贋作を造ろう。
いつどこで贋作を造るか。
悠彩堂はダメだ。
ザムエルさんの目がある。
その時おれが思ったのは仙台だった。
顔料の買い付けで、3~4ヵ月に一度、一週間程度の期間で仙台に行っている。
顔料を販売してくれている彼に場所の提供を頼めないだろうか。
彼はおれが見つけてきた顔料の入手ルートだ。
◆◇◆
ページをめくる指が止まる。
これ以上読んではいけないような気はする。
だが、やめるわけにはいかない。
逡巡はしたが、桐嶋は翻訳作業を続けた。




