第2話「赤い帽子の男」
翌日。午前7時50分。
有明西ふ頭公園には、今日も変わらない朝日が降り注いでいた。
だが、桐嶋悠斗にとって、その日は日常が非日常へと反転する境界線となるはずだった。
釣りエリアに着いた桐嶋は、赤い野球帽をかぶった人物が釣り糸をたれている姿を見つけた。
早朝の海風が頬をなで、かすかに潮の香りが漂っている。
東京湾の水面は、朝日を受けてきらきらと輝き、遠くには、埠頭のクレーンが巨大な影を落としている。海鳥の鳴き声が、静かな朝の空気を切り裂く。
なんとなく周囲を見渡し、目標を注視している人物がいなさそうなことを確認してから近づいた。
公園内には早朝のジョギングを楽しむ人々や、犬の散歩をする人たちの姿が点在していたが、誰も彼らに注目していないようだ。皆、それぞれの朝の時間を過ごしている。
「おはよう。まさか本当に釣りをしているとは思わなかったよ」
足元にある、蓋が開いた小さ目のクーラーボックスには、半分ほどの水が入っておりハゼが2匹泳いでいた。
魚の動きに合わせて水面が小さく揺れ、朝日の光を反射している。
クーラーボックスの表面には、水滴がびっしりとついていた。
「その場所に適したことをしている方が周囲に溶け込みますから」
納得しかけた桐嶋だったが、帽子以外、紺色ジャージ姿の鷺沼には鼻白んだ。
まるで昭和の刑事ドラマに出てきそうな出で立ち。周囲の風景とは明らかに不釣り合いだった。
「赤い野球帽は目立ち過ぎだと思うけどね」
もっともな桐嶋の意見を鷺沼は無視した。
彼の表情は硬く、緊張感が漂っていた。目は周囲を警戒するように動いている。
「そのクーラーボックスの隣にある巾着の中に、鍵と手付が入っています。そのままお持ちください」
一千万。
大金ではあるが、新札の百万円の帯封は約1cmなので一千万でも10cm程度。古札だとしても半分ずつの束にすれば、さほど大きくない巾着でも楽に入る量だ。
桐嶋は巾着を手に取り、その重みを確かめた。ずっしりとした重みが、現実感を伴って桐嶋の手に伝わってくる。
「了解。で、場所は?」
「上野駅です」
桐嶋は巾着の中身を軽く確認しながら上野駅の構内を脳内に描いた。
乗降客は多い駅だが、入り組んだ構内のおかげか、複数あるコインロッカーエリアの周辺には人の目が少ないかもしれない。
だいたいの人の流れを思い描き納得した。
「なるほどね。わかった。あとは自分でなんとかするとしよう」
「話が早くて助かります。目安としての納期は半年。ただし完璧な仕事をしていただければ伸びても問題ありません。目途がついた時点で電話連絡をお願いいたします。それでは」
「ああ、まかせておけ。いい仕事をしてやるさ」
別れ際、桐嶋の脳裏にある疑念が確信に近いものに変わった。
「あんた、日本人じゃないな?」
その問いに鷺沼は答えず、ただ釣り竿を握る手に力を込めただけだった。
桐嶋はそれ以上追及せず、足早にその場を去った。
背中で海風を感じながら、桐嶋はこれから始まる仕事の重さを噛みしめていた。
巾着の重みが、心地よい緊張感と共に彼の心を高揚させる。
「まずは上野か」
桐嶋はタクシーを拾うために大通りへと向かった。
◆◇◆
上野駅。
朝のラッシュアワーが終わりかけた駅構内は、それでも多くの人々で賑わっていた。
桐嶋は人波を縫うように進み、コインロッカーエリアを目指す。
無機質な金属製の扉が並ぶ空間。
冷房が効いているはずだが、桐嶋の額には汗が滲んでいた。
「ここか」
指定された番号のロッカーの前に立つ。
周囲をそれとなく確認してから鍵を回すとスムーズに扉が開いた。
金属音が静寂を切り裂き、桐嶋の緊張感を高める。
ロッカーの暗闇の奥、そこには想像よりも遥かに小さな包みが鎮座していた。




