第14話「呪い」
「桐嶋さん、終わりました。回収完了です」
車に戻った倉橋は、汗だくになりながら桐嶋に電話をかけていた。
エアコンの風が冷たく感じる。
「おまえは無事なんだな」
「無事です。誰にも見つかっていませんし、完璧だと自画自賛したいくらいですよ。ご指示通り、木彫りの熊ちゃんを保護しました」
倉橋の言い方は桐嶋の笑みを誘った。
「ありがとう。助かったよ」
「どういたしまして」
つけたままだった手袋に気が付き、脱ぎ捨てると手のひらにも風をあてる。
「どこかでシャワーを浴びてからそちらに行きますね。さすがにこれじゃ気持ちが悪い」
ジャージのジッパーを半分おろし、シャツの首元部分をゆるめて空気を送り込む。
「了解した。気を付けて」
「はい」
◆◇◆
午後1時。
倉橋は誇らしげな表情で秘密基地に帰ってきた。
「この鍵で大丈夫ですよね」
小指にひっかけたキーリングの両側には、大きめのシリンダー錠用鍵と鮭をダイナミックな動きで狩っている木彫りの熊がぶらさがっていた。
桐嶋はそれを受け取り確認した。
「間違いない。これだ。あとな、念のための確認だが、尾行はなかっただろうな」
「大丈夫です。途中でも何度か確認しましたし、ここの駐車場についてからも前後のドラレコを確認しましたが、それらしいのはいませんでした」
安堵の表情がうかぶ。
「じゃ、この借りはいずれそのうちに。精神的に」
「精神的に」
二人は顏を見合わせて笑い出した。
このセリフは、30年以上前に放映された、警察官が主人公のアニメで使われていたセリフだ。
去年、倉橋が知人から紹介されたアニメだったが、倉橋から「すごい面白かったので見てください!」と言われたため桐嶋も見たところ、予想外にハマってしまいTVシリーズから映画まですべて視聴済みだった。
もちろん、藤堂と鳴海も視聴しファンになっていた。ただ、藤堂は「警察はこんなヒーローにはなれないよ」とボヤいていたが。
「別荘の場所は岩手でしたっけ?」
「すぐにでも行って確認したいことがいろいろでてきたけどな。外出禁止令がとけたらすぐ動けるように準備だけはしておかないと」
「ですね。でも、さすがに月曜までは動けないでしょうから、おれの休みが終わったあとですかね」
この3日間、ほぼ一緒に行動していただけに、桐嶋はそのことを忘れていた。
「ああ、そうだった。そっか、そうだな」
倉橋の休みはあと二日間。桐嶋は少しそのことを考え始めたが、その前に昨晩のことを説明することにした。
「そういや、昨晩、鳴海から電話があってな」
桐嶋は、鳴海から送られてきたメールの画像を表示させながら話し始めた。ただし、鳴海の恋心(?)については無視した。
「このウインストンさんの名刺にあるMonuments Men and Women Foundationってなんでしたっけ?聞いたことあるような気もするんですが」
桐嶋は、事前に詳細を調べていたため倉橋に説明した。
◆◇◆
モニュメンツ・メン・アンド・ウィメン財団は、第二次世界大戦中に文化財を保護した「モニュメンツ・メン」と呼ばれる人々の功績を称え、その使命を引き継ぐために設立された非営利団体のことである。
通常は「モニュメンツ・メン財団」と呼ばれることが多い。
主な活動は、ナチスによって略奪された芸術作品や文化財の回収と、正当な所有者への返還。戦時中、連合国軍に所属した美術史家や博物館員たちが、破壊や略奪から文化遺産を守るため奔走した。
その精神を受け継ぎ、今もなお行方不明の作品の捜索や、歴史の教訓を伝える活動を続けている。
◆◇◆
「確か映画にもなっていましたね。だから聞き覚えがあったのか」
「日本で?」
「いえ、アメリカで。日本で放映されたかどうかまでは覚えてませんが、おれはブルーレイで見ました」
「いつのことだ?」
「アメリカでは2014年だったかな。ブルーレイの発売はその2年後だったような。日本でも上映予定があって吹替も完了していたのに突然中止になったはずですね」
「それは知らなかった」
「確か、あの団体は、国から勲章だったかももらっているような組織ですよ。そこの調査員ともなれば…」
倉橋が少し言いよどむ。
「桐嶋さん、一昨日の夜、二人でクリムトの絵の来歴について話し合っていたじゃないですか。あの時って結論、というかお互いの考えの結果を話していないですよね?」
「ああ、そうだな。藤堂と鳴海に送った資料にも結論的なものは記載してなかったはずだ」
「ですよね。結局、桐嶋さんはどう考えています」
「おれはナチスによって略奪された絵画だと考えている。それなら1975年に出版されたレゾネにないことの説明もつく。1975年当時、存在を公表されていないのだから当然だな」
「おれもそう思います」
大きくうなずいた倉橋だったが、続けて疑問を投げかける。
「だとすれば、それに関連しそうな財団が来日しているというのは、タイミングが良すぎると思いませんか。もしかしたら絵のことをなにか知っているんじゃ」
「その可能性も考えた。だがな、結局知らないだろうという結論になった。理由はこうだ。もし知っているならば、日本の警察になんらかの照会、もしくは協力依頼をしているはずだからさ。鳴海の参加したパーティーは昨晩のこと。来日したその日にパーティーをするはずもないから、来日したのは数日前だろう。彼らの組織は公明正大な表の組織だ。裏で動くのはそれこそ考えにくいし、警察に働きかけがあったなら、部署的に藤堂も鳴海もまったく知らないなんてことはないさ」
「そうか、そうですね」
桐嶋の言葉を咀嚼した倉橋は、藤堂や鳴海の行動、言動を考えて納得した。
「であれば、あの傷だけが謎ですかね」
「それについては一つの仮説を思いついたんだよ」
「え?どんなのです?」
「アンネの日記だよ」
「アンネの日記って…オランダに住んでいたユダヤ人の少女が、ナチスから逃げ隠れていた2年間で書いたというあれですか?」
「詳しいじゃないか」
「うろ覚えですよ。『アンネの日記』という単語を聞いたことがあっても、実際に読んだことがある人は少数じゃないですかね」
「そうかもな。おれはアカデミーの授業で散々聞かされたし、テストにもでてきたからよく覚えてる。あの時の講師がユダヤ人だったからかもなぁ。日記にかこつけて、ナチスの非道っぷりを魂に刻み込むまでに教え込まれた」
当時を思い出した桐嶋がうんざりした表情をうかべた。
「でもな、そのおかげで、あの絵が同じ状況におかれていたんじゃないかという仮説を思いついたんだから、そういう意味では感謝だな」
「同じ状況?」
「隠れ家だよ」
桐嶋は椅子から立ち上がり保管庫に向けて歩き出しながら話を続けた。倉橋は目で追ってから立ち上げり、後ろについていく。
「オーストリアでもユダヤ人の迫害はひどかった。ヒトラーはオーストリア全土を占領し、併合の宣言までしている。ドイツ本国よりも凄惨だったという話もあるくらいさ」
例の絵にたどりついた桐嶋は、覆い代わりにしていた布をとりさった。金箔が光を反射する。改めて見ると無残な傷だ。
「倉橋、クリムトの絵は生前から価値が高かったという話をしていたよな」
「そうですね」
「1938年のナチスによるオーストリア侵攻時、ユダヤ人が資産家層の中で不釣り合いに高い割合を占めていたというのは有名だ。すべてのユダヤ人が資産家だったわけではないが、一部のユダヤ人がたくさんの金をもっていたのは間違いないのさ。つまり、この絵を当時を保有していたのがユダヤ人だとしても不自然ではない」
桐嶋の手が額縁におかれる。
額縁が記憶をもっていれば桐嶋の手に流れ込むのではと思うくらいにしっかりと、ゆっくりと握られた。
「ヒトラーがオーストリア併合を宣言したのは同年3月だが、ユダヤ人迫害はその後何年にも渡って続けられた。国境が先に封鎖され、ウィーンから外へ外へと猟犬は追いかけて行ったのさ。アンネの日記を読んでもわかる通り、ユダヤ人は同族意識が強い。この絵をもつ家族も何家族かで一緒に逃げていた可能性がある。やがて、隠れられそうな家屋を見つけ、身を寄せ合って隠れたのではないか」
倉橋が傷を見つめている。桐嶋の言葉を元に想像しているのは明らかだ。
「人間は高い体温と水分を発する。それが狭い空間にひしめき合っていたら、その場が高温多湿環境になっていてもおかしくはない。外気温が高い時季であればなおさらだ」
「じゃあ、この傷は…」
「家族が隠れ住んだ日数だと推測する。一日、一日とその境遇から解放される日を信じて」
「この数が日数だというのはなんとなくわかりました。でも、なぜ、この美しい絵に傷をつけたのかがわかりません。日数を数えるだけなら額縁や木枠にだっていいと思いますが」
倉橋の言葉を機に、桐嶋が待ってましたと言わんばかりに目を見開く。
アカデミー時代の講師でも乗りうつってるんじゃなかろうか、と場違いな感想が倉橋の脳裏をよぎった。
そのくらい桐嶋の言葉には熱がこもっていた。
「ヨーロッパ各地には古代から脅迫祈願の風習がある。呪術ともいえる風習だ」
「脅迫祈願…呪術…ずいぶんなワードがでてきましたね。ヨーロッパ古来のということですか」
「日本にだってあるぞ」
「え!?日本に!?」
「テルテル坊主さ」
桐嶋の言葉で、倉橋はテルテル坊主の起源が実は悪疫退散のお守りだったという話を思い出した。
首吊り人形を模したその姿には、首を吊られたくなければ願いをかなえてくださいという脅迫的な祈りがこめられているという説がある。
指でそっと傷をなぞりながら、桐嶋は戦時中の恐怖と希望が交錯した瞬間を感じとろうとした。
高価な絵画を傷つけることは、発見された際に厳しい処罰を受ける可能性があったはずだ。
それでも幼子は、自由を求めてこの行為を続けた。
お願いだから私たちを助けて、と毎日祈りながら傷をつけていた。
「人間の祈りの力強さを、これほど鮮明に感じたことはない」
桐嶋は思いを口に出していた。
美しい絵画に刻まれた57個の傷。
それは、遠い国の家族が発した命がけの祈りの証だったのかもしれない。
二人はどちらともなく絵を離れ、いつものテーブルに戻ってきた。




