第12話「追憶」
一気に静かになった秘密基地内。
二人がいなくなってから、桐嶋は父親のことと、自分自身のことを考えていた。
地下室の静寂が、彼の思考をより鮮明にさせる。
親父は10日も店を閉めて別荘でなにをしていたのか。
そのことがどうしても頭から離れない。
店を閉めていたこと自体が問題ではない。
来店客はほぼいないし、絵や額を売るために店に商品を陳列していることもほぼなかったからだ。
桐嶋は、修復やコンサベーターを主な稼ぎにしているし、たまに依頼された絵を仕入れて販売するくらいだ。だから、店に残っている絵画は、父親死亡時からほぼ変わっていないうえ、在庫全体を把握しているわけでもない。
それは価値のあるものがここに残っているとは思っていないからだった。
実際、相続の時も在庫全般が低額評価の烙印を押され、家庭用財産として一括計上されて終わっていた。
正確な資産評価をしたわけではないが、土地は借地、築79年の家屋に資産価値はない。そんな場所に乱雑に置かれた美術品に価値があるはずもないというわけだ。
桐嶋自身もまったくその通りだと思っている。
子供のころに贅沢というものをした覚えがない。
毎月、ギリギリのお金で親子3人暮らしていた記憶しかない。
その母親も桐嶋が4歳の時に亡くなったので、母親の記憶もほとんどない。覚えているのは、スモーキークォーツにも似た、印象的な濃い茶色の瞳だけだ。
「おふくろに似てるのは瞳くらいか。他は親父似だしなあ」
今考えるとウィーン美術アカデミーへの入学意志を示した時の父親の反応は薄かったと思う。
渡航費用と1年次の学費だけを負担してもらい、その後は自分でなんとかすると宣言したからかもしれない。
なんなら一人分の生活費が減るから楽になると、あの父親なら考えたとしてもおかしくないくらいだ。そのくらい桐嶋に対する興味は少ないと感じていた。
だからだろうか。東京から早くでていきたかったし、日本に留まりたくもなかった。
ウィーン美術アカデミーを選択した理由もそこまで大きいものではない。
子供の頃から父親の仕事を見ていたせいで、自分もいつかは同じことをしたいと考えていた。しかし、父親は一切その技術や知識を教えてはくれなかった。桐嶋が聞いても一切教えてくれない。ある意味徹底していた。
今考えると、自分と同じ職業にはつかせたくなかったのだろうと思う。
安定した収入があるわけではないし、親からすれば、ある意味当然のことかもしれない。
ならば自分で絵画修復の技術を学び自得するしかない。
日本の学校や絵画修復家に弟子入りすることも考えたが、美術史の本で知ったウィーン美術アカデミーに魅力を感じていた。
なぜならウィーンは、当時傾倒していたエゴン・シーレのお膝元であり、世界最大のシーレ・コレクションをもつレオポルド美術館があるからだ。
いつかシーレの作品に携われる日がくるかもしれない。そういう欲があった。
ウィーンに行くのであれば、公用語であるドイツ語を習得しなければ入学することすらできない。だから、高校時代は学校の授業もそっちのけでドイツ語を学んでいた。
ただし、ドイツ語教室に通うようなお金はなかったため完全に独学だ。
それもドイツ語の教本などではなく、自宅にあったドイツ語の美術史が教科書であり、ラジオで聞こえてくるドイツ語のオペラがヒアリングの教材だった。
英語はウィーンに行ってから覚えた。忙しい毎日ではあったが、日本では考えられないほど充実した日々だった。
その間、父親に連絡した覚えがない。特段、話をしたいという気持ちにもならなかったからだ。
そろそろ卒業を考え始める時期に、同じくアカデミーに留学していた2歳下のアメリカ人女性、ソフィア・ローズ・アンダーソンと結婚した際にも連絡はしなかった。ただ、これはソフィアが両親とすでに死別していたため遠慮したという気持ちもあったかもしれない。
教会での結婚式には、お互いの友人たちと、アメリカからやって来たソフィアの母方の叔母一家だけが参列した。
叔母一家とはこの時に初めて出会った。快活で幸せそうな家族。叔母夫婦と男の子と女の子の兄妹。子供たちには随分と懐かれた記憶がある。
ソフィアがアカデミーを卒業したことを契機に、自分も卒業することにした。
アメリカで就職し修復家の道をスタートさせることにしたのだ。
在学中に、ある程度の実績を残していたおかげで就職そのものはスムーズに決まった。
ソフィアがせがむので、アメリカに渡る前に日本に帰国。
そこで父親に初めて結婚したことを伝え、妻を紹介した。言葉少なではあったが大いに祝福されたことを覚えている。
あの時は、日本に立ち寄って本当に良かったと思ったもんだ。
その後、アメリカに渡った後も、ソフィアの希望や就労ビザ更新のタイミングで帰国した際には、必ず顏をだしていた。
しかし、ソフィアが7年前に事故で亡くなってからは実家に戻らなくなった。
そして、5年前に親父は死んだ。
◆◇◆
桐嶋は手元のコップになにも入っていないことに気が付いた。
時計を見ると午後9時半。ずいぶん長いこと物思いにふけっていたもんだと妙な感心をする。
夕食は早い時間にカップラーメンで済ませていたが、さすがにこの時間になると小腹がすいてくる。その辺に置いてあった、かき燻製油漬けの缶詰を開け、冷蔵庫から日本酒をとりだし空いていたコップに注いだ。
「親父はいったい誰といたんだ」
最も疑問に思っていたことが独り言になった。
状況から考えれば一人でいたとは考えにくい。
おぼろげな記憶をたどると、10日も滞在していたわりにはゴミも少なかったように思う。
「あの辺りにゴミ収集がくるわけがないしな」
一つ思いつくと次々とおかしげなことが思い出されてくる。
なぜ郵政職員があのタイミングで配達にきたのだろうか。DMなわけはないし、配達された郵便をもらった記憶がない。もしかしたらポストの中に入ったままだろうか。
疑問ばかりだが、5年前の記憶を鮮明に思い出せるわけがない。推測するしかないのがもどかしい。
「やはり現地で確認したいよなあ」
しかし、藤堂から外出禁止令がでている以上、出歩けば迷惑がかかることくらい子供でもわかる。
思案しつつ、頬杖をつきながら日本酒の量を確認していた時、スマホのメール着信音が鳴った。
「鳴海か」
内容を確認すると件名はなく、名刺の写真だけが送られてきていた。
Monuments Men and Women Foundation
Research Assistant
Caroline Bell Winston
名前を見ても記憶がない。
首をかしげていると鳴海から電話がかかってきた。
「鳴海。この名刺は?あとな、倉橋から資料は送られてきたか?」
「わーん、桐嶋さんのバカーーーー!!!」
「…なんだよ、いきなり」
大声の音量を忌避した桐嶋は、反射的に耳からスマホを離した。声が聞こえなくなったことを確認してから戻す。
「なんだよ、どうしたんだ」
「ただのやつあたりっすよ。気にしないでください。あと、資料はついさっき確認したっす」
「じゃあ、気にしないことにするが、この名刺はなんだ?」
「名前に覚えはないっすか?」
「ないな。ちょうどそれを考えていたところだ」
「キャロライン・ベル・ウインストン。たぶん20代。でも、幼い顔立ちをしてるのでもう少し下にも見えます。キュートなそばかす顏で知的な眼差し、典型的なアメリカ美人な感じです。濃紺のロングドレスがめちゃくちゃ似合ってたっす」
「…話の筋が見えないのだが…」
鳴海は彼女と出会った経緯を話した。
アメリカ大使館でのパーティーで、鳴海の上司がアメリカの駐日大使からウインストン女史を紹介された。その流れで鳴海も名刺交換をしたらしい。
鳴海は公安なので社交用の名刺を彼女に渡した。女史のたたずまいや笑顔が、鳴海の琴線にふれ心臓が跳ね上がったらしいが、それは割愛。
その場はそれで終わりだったのだが、その後、幾人か集まっての歓談中に絵画修復の話になり、そこで彼女が桐嶋の名前をだしてきたらしいのだ。
鳴海の状況説明を聞く限り、彼女がそう誘導したようにも思える。
「貴国には優秀な修復家がたくさんいらっしゃるでしょう」
これは鳴海の上司のお仲間による鼻の下を伸ばしながらの言葉。
おべっかのつもりだったのだろう。そしてウインストン女史による次の言葉が問題だった。
「なにをおっしゃいますか」
流暢な日本語が少し厚みのある魅力的な唇から流れ出る。
「誰も彼も御国の桐嶋氏にはかないません」
「桐嶋…?」
「桐嶋悠斗氏です。5年前までアメリカにいらっしゃいましたが、残念ながら帰国されました。現在は日本にいらっしゃるはずです。何度もあのお方が修復された絵画を拝見しましたが、あれほどの御業を他に見たことがありません」
頬を紅潮させながら話す彼女の瞳は、少々潤んでいたらしい。
「ものの数分でおれの恋は終わりました。あれは完全に恋する女性の顏っすよ」
「いや…そんなこと言われても」
「彼女は桐嶋さんに是非とも会いたいらしいっすよ!どうします!?」
「はぁ!?」
「おれも上司から『なんとかならんか』とか言われたので、適当に言葉を濁しておきましたけど、桐嶋さんの名前は、おれや藤堂さんの協力者として、警視庁の上役だけが見れるデータベースにあるはずですから、探そうと思えば探せてしまうっす。その前におれが橋渡しをすれば、穏便にすますことはできると思うっすよ?」
なんでこんな時にそんな話がくるんだよ!?
桐嶋が頭をかかえた瞬間、脳裏にある案が浮かんだ。
「鳴海、ウインストン女史は大使館にいるのか?」
「日中は大使館にいるらしいっすよ。2週間くらいだったかな」
大使館がらみなら大使館の車が使える。外交官特権で。
その車には日本の警察は手をだすことができない。
「会ってみるか」
「本当っすか!?彼女の肩書きも確認しました?」
「ああ、それも込みでだ」
「勝負師っすね」
「ただ、藤堂や倉橋にも情報共有して相談したうえで会いたい。まだ先方には言わないでくれ」
「わかったっす。悪い方に転んだら目も当てらんないっすからね」
「ああ、そうだな。しかし、うまくすれば恩を売ることもできるかもしれん」
「立ち回り次第ってことっすか。おー!背筋がぞくぞくしてくるっすねぇ!」
「楽しんでやがる」
「ちょっと楽しくなってきたっす」
「ところで、おまえのところで、例の赤坂署の動きはわかるか?月曜までは藤堂が役立たずだから」
「可能です。赤坂署が状を手配する時の検察もだいたいわかりますので、そっちも手配しときます」
こういうところが公安の怖さだ。桐嶋は工藤警部補に少しだけ同情した。
「よろしく頼む。じゃあ、後は連絡を待っててくれ。あと、倉橋の上首尾も祈っておいてくれるとうれしい」
「ですね。倉橋さんの成果次第っすね。では、また」
「ああ、またな」
桐嶋は電話をきった。
ウインストン女史の肩書に気づいた時、もう一つの可能性が頭をよぎった。
暗闇の中で突如として光る火花のような閃きだった。
今回のクリムトの絵。グスタフ・クリムト、オーストリア出身。
大戦時、ナチスによるオーストリア侵攻によってクリムトの絵の多くが略奪された。
そして当時、クリムトの絵は裕福なユダヤ人が所有していることが多かったという。
長期間の高温多湿環境。爪の刺し傷と指紋の跡。
これらの事実が、桐嶋の脳裏で一つの可能性へと収束していく。その思考の過程は、まるで複雑な糸がほどけていくかのようだった。
「アンネの日記か…」
その言葉が、重い空気の中に静かに響く。
桐嶋の表情には、新たな真実に直面した者特有の緊張と覚悟が浮かんでいた。
地下室の静寂が、その言葉の重みをさらに増幅させていく。




