第10話「記憶の扉」
午後5時40分。
藤堂啓介が地下室にたどり着くと、入口の扉に一枚の紙が貼ってあった。
『秘密基地』
達筆な字でそう書かれてある。
一瞬、激情にかられてやぶいて剥がしそうになったが「悪くないか」と思い直し、苦笑しつつ扉を開けた。
扉の向こうでは、桐嶋と倉橋がカップラーメンを食べながら討論をしていた。
まるで学生時代に戻ったかのような光景だ。二人は来訪者に目線を向けた。
「さて、桐嶋よ。納得のいく説明をしてもらおうか」
藤堂の声には、わずかな苛立ちが混じっている。
「まぁ、待てよ。食い終わってからな」
桐嶋は平然とした様子で答えた。麺をすする音が重なる。
「もうちょいだから」
さぐり箸で麺を拾い集めて口に放り込み、水を流し込んだ。
長年の習慣なのだろう。これまでの生活感が垣間見える。
「さあOKだ。まずはこいつを見てくれ」
そう言いながら一枚の紙を藤堂に渡した。家から持ち出した荷物の中に放り込んでいたものだ。
倉橋は、自分と桐嶋が食べきった空のカップを持ち、シンクに向かった。ただし、耳は二人の会話をロックオンしている。
「死体検案書?親父さんのか」
藤堂の声には、驚きと疑念が混ざっていた。
死体検案書には、桐嶋の父親である桐嶋武夫の名が記載してある。
その文字を見つめる藤堂の目には、複雑な感情が浮かんでいた。
「そう。そこの…ここだ。見覚えのある単語がならんでいるだろ?」
藤堂に見せたい箇所を指で探してから示す。
そこに目線を移した藤堂は唸るように言葉をだした。
「ヘレブリンとタキシン」
「おれもまさかと思ったよ。ただな、5年の間があるとはいえ、自分に関係がある二人の状況が同じ急性心不全じゃあな。さすがに多少の関連性は疑うさ。だから、記憶に残っていた名称を聞いてみたというわけさ」
「なるほどな。理解した」
なにかに気づいた藤堂がスマホを操作しながら言葉を続ける。
「おれはな、この検案書を見て多少ではない関連性を疑うことになったぞ。どうしてくれる」
藤堂の言葉に、桐嶋が怪訝そうな表情になった。
「これを見てみろ」
それは鷺沼氏の死体検案書の写真だった。
スマートフォンの画面に映し出された情報が、部屋の空気を一変させる。
「おいおいおいおい…冗談だろ?」
「そう思うしかないよな」
そこに写っていたのはヘレブリンとタキシンの検出された成分量。
その数値は、武夫氏の死体検案書に記載されていた成分量とほぼ同じだった。小数点以下の誤差でしかない。
「5年前、警察から聞いた説明は、ヘレブリンもタキシンも致死量にはほど遠い数値のため、死因として特定することはできないということだった」
桐嶋の声には、過去の記憶を掘り起こす苦痛が滲んでいた。
「赤坂署の鑑識による見解も同じだ。致死量には届いていない。死因に結び付けることはできない、だとよ。だがな、同じものが二つあるとなると話は変わってくる」
「どういうことだ?」
「どちらとも身体的な異常を認める所見なし」
藤堂はスマホの画面と、桐嶋が持っていた死体検案書を再度確認しながら続けた。
「だとすれば、このような結果がでるように調整された毒薬という可能性がでてくる」
「…ああ、そうか。…そうだな」
5年前に突然おこった父親の死。自然死ないしは病死という結論で桐嶋は納得していた。
しかし、そうではない可能性がでてきたせいで胸がざわつき始める。
過去の記憶が、まるで古い映画のフィルムのように、桐嶋の脳裏に次々と蘇っていく。
「赤坂署の刑事は検死の結果から他殺を疑っている。そしておまえを疑っている。というより唯一の接触者である、おまえにすがるしかないと考えている節がある」
藤堂が桐嶋を見ながら言い聞かせるように話した。
「じゃあ、その二つの関連性を教えてやれば…」
洗い物を終わらせた倉橋が椅子に座りながら疑問を口にしたが、語尾には藤堂の怒声が重なった。
「バカかおまえは!唯一の肉親の死因と唯一の接触者の死因が同じだったら疑う人間も一人しかいなくなるだろうが!」
藤堂の声が地下室に響き渡る。
「…あ、そうですね…考えなしでした。すみません」
「いや、おれこそ大声だしてすまん」
二人のやりとりを桐嶋は無表情で見ていた。
「さあて、どうしましょうかね」
椅子に深くもたれかかりながら天井を見上げる。考えがいくつか頭を巡るが、妙案と呼べるものが簡単にでてくるわけがない。
地下室の天井に浮かぶわずかな影が、まるで桐嶋の混沌とした思考を映し出しているかのようだった。
「桐嶋、疑問なんだが、毒性成分が検出されていたのに、えーと、宮古?宮古署ではなぜすんなりこの状況で不問にしたんだ?」
「ああ、それはな、ヘレブリンとタキシンがたくさんあるところで死んでたからだ」
藤堂の表情が困惑に変わる。眉間にはシワが寄り、桐嶋の言葉を理解しようと努めている様子が窺えた。
「どういう状況だ…」
「親父は、岩手の早池峰山のふもとにある別荘で亡くなっていたんだよ。配達にきた郵政の職員が発見してくれてね。その別荘の周辺には、ヘレブリンをもつクリスマスローズと、タキシンをもつイチイの木が群生してるんだわ」
「それだけ聞くと、とんでもない魔境にしか聞こえんのだが」
「どちらとも適正に扱ってさえいれば問題ないのさ。特にクリスマスローズなんかは注意は必要だが、普通に栽培している家庭もたくさんあるくらいだ。イチイの木だって、果肉の種子は要注意だが、なにもしなければ毒になるくらいに接種するわけがない代物だ。…いや、待てよ。言われてみれば確かにそうだ」
桐嶋が勢いよく体をおこした。
「なぜ、あんなにあっさり不問にしたんだ?当時は、警察からの説明でもあったことだし、親父を早く東京に連れ帰ってやりたい気持ちが強くて、田舎の警察だから仕方ねぇか、くらいにしか思わなかった。でも、今回のことを併せて考えるとおかしいと思えてくる」
桐嶋の声には、過去の自分の判断への後悔が混ざっていた。
「別荘の状況は?」
「あの後にいろいろ片付けに行って、最後に行ったのは2年前かな。良いところではあるんだけど、やっぱり不便な場所でね。あまり長居はしたくないのが正直なところだ」
桐嶋は当時の状況を思い出していた。
「あの時、警察の話では、親父は10日くらい前から滞在していたらしい。あんな僻地に?周囲になにもない。買い出しに行くとしても車で30分はかかる…待て待て待て!親父は車を持っていないぞ!?」
桐嶋の上ずった声には、突如として気づいた真実への驚きが込められていた。
「桐嶋さんがアメリカに行っている間に車を買ったんじゃ?」
倉橋が疑問を口にしたが、桐嶋が即座に否定した。
「親父は免許も持っていなかったんだ。仮に、おれがいない間に免許をとって車を買ったと仮定するなら、別荘に車がなければおかしい。そんなものはあそこにはなかった」
「第三者の関与を疑うのが自然だな」
藤堂の重々しい言葉が響く。
長年の捜査経験から来る冷静な判断から導き出されたのは明白だ。
父の死は、病死ではなかったのか?
5年前の記憶と現在の事件が、一本のどす黒い線で繋がろうとしていた。




