第1話「一億円の修復依頼」
夏を告げる蝉の声が、東京の下町にむせ返るように響き渡っていた。
文京区団子坂。
赤茶けた瓦屋根と色褪せたモルタル壁の古い建物が立ち並ぶ中、一軒の建物だけが異彩を放っている。
「悠彩堂」と書かれた木製の看板が、白壁に映えるその建物は、かつての町家を改装したアトリエであり絵画修復の工房でもあった。
室内は、古い木材の香りと油絵具、ニス、テレピン油といった画材の匂いが混ざり合い、独特の雰囲気を醸し出している。
夕暮れの柔らかな光が古びたレースカーテンを通して差し込み、壁に掛けられた絵画たちを優しく照らしていた。陽の光と影のコントラストがアトリエの静寂をさらに際立たせている。
その静寂を破るように、桐嶋悠斗の声が響いた。
「なんだこりゃ」
桐嶋の手は、一枚の写真をいぶかしげにつまんでいた。若い女性の油彩肖像画の写真だった。写真用紙の質感が指先に伝わる。
つい先ほど届いたメール便には、一通の手紙と一枚の写真が入っていた。
差出人は「鷺沼 蒼二郎」。記憶にない名前だった。
アトリエの店主であり、絵画の修復を生業としている桐嶋の元にはたまにこのようなものが届く。修復の依頼かもしれないと思った桐嶋が、期待を込めて中身を確認した結果がこれだ。
肖像画の女性は淡いアイボリーのドレスを着ており、開いた襟元と豪華なレースの装飾が特徴的だった。
ドレスには大きなパフスリーブがあり、19世紀末から20世紀初頭の貴族的な服装を思わせる。写真では色の判別は難しいが、おそらくはシルクかサテンの光沢のある生地だろう。
彼女の髪は頭の上で複雑に編み込まれた明るい茶髪。
その髪には、真珠や宝石がちりばめられた精巧なティアラが輝いている。
表情は真剣で、どこか物思いに耽っているようだった。
しかし、顔の一部が歪な円形に剥落しているせいで、表情がゆがんで見える。
背景に輝く金箔が無惨な印象を助長していた。
それは、女性の美しさと、その背後に潜む不安や哀しみを暗喩しているようだった。
「クリムトか。しっかし、もったいないねぇ」
桐嶋は独り言を呟きながら、窓際の古びた木製の椅子に腰を下ろした。
軋む音が静寂に吸い込まれていく。
夕暮れの空が徐々に赤みを帯びていく様子が、窓越しに見えた。茜色に染まる空は、どこか物悲しげな雰囲気を漂わせている。
グスタフ・クリムト。
まさにこの写真の絵に描かれた女性と同年代に生きたウィーン出身の画家で、後世の画家に多大な影響を与えた一人だ。
金箔や装飾的な模様を多用した独特のスタイルを確立し、エロティシズムと神秘主義を融合させた作品が多い。
彼の作品は、退廃的な美しさと官能性をたたえており、見る者を惹きつけてやまない。
まじまじと写真を観察した桐嶋は思い出したかのように同封の手紙に目を移した。
手紙には「この絵を修復して欲しい。報酬は一億円。受けていただけるのであれば下記の電話番号に電話をしてほしい」と書かれていた。シンプルな文章だが、強い意志が感じられる。
報酬額の数字を数えて目を見開いた桐嶋は口笛を吹こうとしたが失敗。かすれた音が弱々しく漏れただけだった。
驚きと興奮が、彼の心を駆け巡る。
クリムトのオークション額は1億ドル前後で落札されることが多い。
胡散臭い来歴の依頼として、口止め料まで考えると妥当な金額とも言える。だが、それでも一億円という金額は、桐嶋の人生を変えるには十分すぎるほどの額だった。
「さて、どうしようか」
一人での生活が長くなった桐嶋は、誰に話すでもない独り言が多い。部屋に響く自分の声が、妙に空しく感じられた。静寂の中で、彼の心の葛藤が大きくなっていく。
「怪しい出所の品なのは間違いない」
後ろ暗いところがなければ、このような何かを警戒したような方法をとるわけがないだろう。
桐嶋は過去の経験から、美術品の闇取引の世界がいかに危険なものであるかを知っていた。
「でもなぁ、一億か。一億あったらここの土地買えるかもな」
悠彩堂の立つ土地は借地であり、現在も賃料の支払いが滞っている。
高騰し続ける東京の地価とともに賃料も上昇し続けており、年々いたちごっこ感が増していた。
小一時間、桐嶋は警戒心と報酬金との間を揺れ動いていた。
窓の外では、街灯が一つ、また一つと灯り始めている。オレンジ色の光が、街並みに温かみを添えていく。
結局、桐嶋は受けることを決意したようだ。
覚悟を決めた彼の表情は、どこか吹っ切れたように見えた。
手紙を再度確認し、記載されていた番号に電話をかけると3回のコール後に鷺沼であろう人物が出た。
夜の静けさの中、電話の呼び出し音が妙に大きく響いた気がする。心臓が耳元で大きく鼓動しているのがわかる。
「鷺沼ですが」
低く落ち着いた声が受話器から聞こえてきた。
「鷺沼さん?桐嶋です」
「…お電話いただいたということは、依頼をお受けしていただけると理解してよろしいのでしょうか」
鷺沼と名乗る人物の声からは、長く欧米圏に住んでいる人が、日本語を話す時特有のニュアンスが感じられた。
桐嶋は、相手が日本人なのか外国人なのかすら判断できなかった。
桐嶋は窓際に立ち、夜の闇に包まれた街並みを見つめながら会話を続けた。
街灯の明かりが点々と輝き、遠くには上野の街の明かり浮き上がって見えた。きらびやかな夜景は、桐嶋の不安な心をさらに掻き立てる。
「先に聞きますけど、このクリムトはあなたの?」
「現在の所有者という意味では、私ということになるのでしょうね」
「随分、奥歯にものが挟まったような言い方をするもんだな」
「少々複雑な事情があるものでして」
桐嶋は眉をひそめた。電話の向こうの男の声には、何か隠し事をしているような緊張感が感じられた。その言葉の裏に隠された真意を探ろうとするが、桐嶋には何もわからなかった。
「だからのこの金額というわけかい。普通に考えれば、おれみたいなとこに話がくる絵じゃあないわな。ちなみに報酬は現金?振込?小切手?」
「現金です」
「あまり足がついてほしくないだろうから、そうだろうね」
振込であれ小切手であれ、銀行を介すれば口座に履歴が残る。
ヤバい仕事の場合の報酬は、現金でのやり取りが一番だということを桐嶋は知っている。
彼は過去の経験を思い出し一瞬躊躇したが、すぐに気持ちを切り替えた。一億円という大金が、彼の心を支配していた。
「こんな怪しい依頼、普段だったら一顧だにしないがね。正直今のおれには渡りに舟だ。受けるよ」
「ありがとうございます。助かります」
「で、ブツは?ここに持ってくるのかい?」
「いえ、誰の目があるかもわかりませんので直接手渡しはしません。明日、お時間ありますか」
「どうしてもの予定はないので時間はとれるさ」
「では、午前8時に、有明西ふ頭公園の釣りエリアにてお待ちしてます。目印に赤い野球帽をかぶっておりますので」
桐嶋は思わず笑みを浮かべた。
まるでスパイ映画のような段取りに、少し興奮を覚えた。退屈な日常にはありえない期待感が、彼の心を高揚させる。
「念入りだね。もらえるのはコインロッカーの鍵かな」
「さすがですね」
「この手の取引は初めてじゃないしね。手付金はそこでもらえると考えていていいのかな」
「ありがとうございます。手付金一千万もその時に。では、明日を楽しみにしております」
電話を切った桐嶋は、深い溜息をついた。
窓の外では、夜更けの風が木々を揺らし、かすかな音を立てていた。風の音だけが、桐嶋の心のざわめきを鎮めるように響いている。
「実際にいるのはこの人じゃないかもしれないがね。そもそもこのスマホの持ち主だって鷺沼という人のものかは怪しいし、なんなら鷺沼という名前だって偽名の可能性が高いさ」
桐嶋の独り言が、誰もいない店内に流れた。
しばらくの間、彼は自分の決断の是非について考え込んでいたが、やがて肩をすくめた。不安と期待が入り混じる複雑な心境だった。
「どっちにしろ金が入りさえすればいいのさ!」
その言葉と共に、桐嶋は明日の準備を始めた。
窓の外では、東京の夜景が静かに輝いている。
その無数の光の中に、これから踏み込む深い闇が潜んでいるとも知らずに。




