闇を抱く少年
新入生の受け入れから、数日が過ぎた。
光の学院の朝は、いつも森のざわめきから始まる。
小さな鳥たちの声、葉を揺らす風の音、遠くで流れる川のせせらぎ。
それらが重なり合い、校舎の窓をやさしく叩く。
「それでは、今日も始めましょうか」
講義室の前方で、セレナは両手を軽く打ち合わせた。
新入生用の教室は、中庭が見える大きな窓が特徴的だ。
真新しい机に座っている子どもたちは、まだ緊張と期待のあいだを揺れている。
「まずは、基礎の確認からです。
光の魔力は、“心の在り方”と深く結びついています。
うまく魔法が使えない時、自分を責める必要はありません。
心が閉じているときは、魔力もまた戸惑うのです」
静かな声でそう言うと、何人かの生徒がほっとしたように肩を下ろした。
その中で、ひとりだけ、窓の外をじっと見ている少年がいる。
黒髪の少年――レオンだ。
「レオンくん」
名を呼ぶと、彼はわずかに肩を揺らし、ゆっくりとこちらを向いた。
「……はい」
「この前も少し話しましたが、あなたの魔力の流れを、一度見せてもらってもいいかしら。
無理に力を出させるつもりはありません。ただ、“どんな形をしているか”を一緒に知りたいんです」
教室の視線が、一斉にレオンへ集まる。
彼はその重さから逃れるように、視線を机へと落とした。
「……他の人とは、違いますよ」
「ええ、そうかもしれませんね」
セレナは穏やかに頷いた。
「でも、この学院は“違うもの”を否定する場所ではありません。
見ないふりをするのではなく、きちんと向き合う場所です。
それは、私たち教師も、生徒の皆さんも同じです」
しばしの沈黙。
レオンは拳を握りしめ、ため息をひとつ落とした。
「……わかりました」
彼は立ち上がり、教室の前方へ歩み出る。
足取りは重いが、それでも自分で選んだように見えた。
セレナは教卓から半歩下がり、彼の隣に立つ。
「レオンくん。いつものように魔力を巡らせてみてください。
もし苦しくなったら、すぐにやめて構いません」
レオンは目を閉じた。
教室の空気が、わずかに冷える。
……静寂。
形のない気配が、彼の周りに集まっていく。
他の生徒たちの魔力が、柔らかな光の粒として漂うのとは対照的に、
レオンの周囲には、深い夜のような色が滲み始めた。
黒――。
だが、それは完全な闇ではなかった。
よく目を凝らせば、その中に淡い青い光が混ざり、揺らいでいる。
(……冷たい。でも、どこか静かで、落ち着いている)
セレナは胸の内で、そっとその感触をなぞった。
恐ろしいというよりも、むしろ“深い井戸”の底を覗き込んだような印象だった。
「……ここまで、です」
レオンは息を吐き、魔力を引き上げる。
黒い靄のようなものは、するりと彼の中へ戻っていった。
教室の隅で、小さなざわめきが起こる。
「今の……」「黒かった……」「やっぱり、ちょっと……」
声は小さくとも、確かに届いた。
レオンの目が、かすかに曇る。
「皆さん」
セレナは振り向いた。
教室の空気がぴたりと止まる。
「レオンくんの魔力は、“闇”の性質を帯びています。
けれど、それは悪ではありません。
光があれば影ができるように、闇もまた、この世界の一部です」
彼女はゆっくりと言葉を選ぶ。
「大切なのは、その力で何をするか。
誰かを傷つけるために使うのか、
それとも、自分や誰かを守るために使うのか」
視線をレオンに戻す。
「レオンくん。あなたは、自分の力をどう思っていますか?」
彼は少しだけ考えるような顔をしたあと、はっきりと答えた。
「……呪い、だと思っています。
生まれた村でも、そう言われてきました」
その声音は、慣れと諦めが混じる。
「物が勝手に壊れたり、
動物が近寄ってこなかったり、
僕の周りだけ、空気が重くなるって。
だから、ここでも同じだと思います」
教室の一角で、息をのむ音が聞こえる。
「“光の学院”なんでしょう」
レオンはセレナを見ずに、窓の外を見た。
「こんな魔力を持っている僕が、ここで学んでいい理由なんて、どこにもない」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
(……似ている)
かつて、自分も思っていた。
魔力がない自分には、貴族でいる価値も、誰かの隣に立つ資格もないのだと。
「いいえ」
セレナは静かに首を振った。
「ここは、光を“学ぶ”場所です。
最初から、美しい光だけが集まる場所ではありません」
レオンが、少しだけこちらを見た。
「あなたの中にあるものが、今は“呪い”のように感じられるのなら……
その意味を、一緒に変えていきましょう」
「……簡単に言いますね」
レオンの瞳に、凪いだ湖面の下で、かすかな流れが生まれる。
「村の連中は、皆そう言いましたよ。
“きっと良くなる”“神様は見ている”“お前にも居場所がある”って。
綺麗な言葉はいくらでも聞きました。
でも――誰も、僕の側には残ってくれない」
教室の空気が、少し重くなる。
「だから、期待はしません。
この学院だって、どうせそのうち……」
そこで、彼は自分の言葉を飲み込むように口を閉ざした。
「“どうせ”?」
セレナが問い返すと、レオンは睨むような目で言い放った。
「……光の人間に、闇の痛みがわかりませんよ」
鋭い言葉だ。
だが、それはセレナに向けた刃というよりも、
世界そのものに対する、長い叫びのように聞こえた。
しばしの沈黙のあと、セレナは小さく微笑んだ。
「……そうね。
すべてをわかる、なんて言ったら嘘になるでしょう」
その答えに、レオンの表情がかすかに揺らぐ。
「私は、あなたと同じ経験をしたわけではありません。
同じ景色を見てきたわけでもない。
だから、“全部わかる”とは言えません」
彼女は胸に手を当てる。
「でも――知ろうとすることはできます。
あなたが何に傷つき、何を恐れているのか。
そのそばに立とうとすることは、諦めたくありません」
「……綺麗事だ」
レオンは吐き捨てるように言った。
しかし、その声には先ほどほどの尖りは隠れている。
「そうかもしれませんね」
セレナは否定しない。
「でも、私はその“綺麗事”に救われたのです。
誰かが、私のそばにいてくれたから。
だから今度は、私が誰かのそばにいたい」
彼女の脳裏に、森の小屋と、ぶっきらぼうな老人の姿がよぎった。
あの日差し込んだ一筋の光が、今も胸の奥で温かく燃えている。
「……授業を続けましょう」
セレナはそれ以上は追い詰めなかった。
レオンに戻る場所を残すように、一歩だけ距離を取る。
「レオンくん。
今は、あなたの魔力の形を知るところまでで十分です。
少しずつ、一緒に進んでいきましょう」
レオンは返事をしなかった。
けれど、すぐに席へ戻るのではなく、しばらく前に立ったまま――
やがて何も言わずに、静かに腰を下ろした。
その横顔には、怒りとも諦めとも違う、
名付けがたい揺らぎが浮かんでいた。
*
その日の午後。
学院の裏庭では、実技の授業が行われていた。
木々に囲まれた一角で、小さな光の球や、風の流れを生み出す練習が続いている。
「焦らないで。
光は、掴もうとするほど逃げていきます。
水を両手ですくうように、そっと、受け止めるつもりで」
セレナの言葉に、生徒たちは真剣な表情で目を閉じた。
レオンは、少し離れた場所に立っている。
他の生徒の邪魔をしないように、と自ら距離を取ったのだろう。
彼の周りだけ、空気が澱んでいるようにも見える。
しかし、その中心に立つ少年の背中は、どこか頼りなく、細かった。
(……怖いのね、自分の力が)
セレナはそっと歩み寄る。
「レオンくん。
よければ、個別に見てみましょうか?」
「……大丈夫です。
僕の魔法は、見ても気分のいいものじゃありませんから」
「たとえそうだとしても、私は見ることを恐れたくありません」
セレナが穏やかに言うと、レオンは一瞬だけこちらを見た。
「どうして、そこまで……」
「理由が必要ですか?」
「……普通は、“光の子”たちだけ見ていればいいはずでしょう。
癒せる者や、輝ける者だけ。
あなたには、そういう生徒がたくさんいるじゃないですか」
レオンの視線が、遠くで光の球を浮かべてはしゃいでいる子どもたちへ向く。
その表情には、羨望と嫉妬と、諦めがすべて溶け合っていた。
「……そうですね。
私には、すでにたくさんの“光”が見えています」
セレナは静かに頷いた。
「でも、私が目を向けたいのは、“まだ形になっていない光”です。
闇の中で、震えながら、それでも消えずに残っている小さな灯り。
それを守れるようになりたい」
レオンは、言葉を失ったように黙り込む。
風が、二人の間を通り抜ける。
木々の葉が揺れ、小さな光の粉が舞ったように見えた。
「……好きにすればいいです」
ようやく絞り出した声は、投げやりに聞こえた。
だがその奥には、“完全な拒絶”は感じられない。
「ただ、勘違いしないでください。
僕は、自分の力を受け入れるつもりはありませんから」
「ええ。それも、今はあなたの大事な気持ちですね」
セレナは否定しない。
すぐに変わることを求めるのではなく、“今ここにある感情”をそのまま認める。
「でも、いつか――
この学院を出る日が来るとき、
少しでも、自分を嫌いすぎないでいられたらいいなと願っています」
レオンは何も答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ、視線を下げる。
その背中を見つめながら、セレナは決意を新たにした。
(この子の中の“闇”を、否定しないでいたい。
それでもなお、一緒に光を探していけるように)
その日の夕方。
学院の塔の上で、セイグランは静かに空を眺めていた。
日が傾き、森の影が伸びていく。
茜色の光が校舎の屋根を染め、窓ガラスに反射する。
ふと、下の中庭に目をやると、セレナとレオンの姿が見えた。
遠く離れていても、二人の間に流れる空気が伝わってくるようだった。
(……あの子は、まだ自分を許せていないんだな)
(闇を抱く者は、自分を責めることに慣れている。
“そうすることでしか、ここにいてはいけない”と、どこかで思っているのだろう)
セイグランは目を細める。
レオンの背に、薄く黒い影がまとわりついて見えた。
(……ただの属性によるものではないな)
魔力の質としての“闇”とは別に、
彼の心に巣食っているものがある。
そのとき、一瞬――
レオンの背に、細い黒い線が浮かんだように見えた。
蛇のようにうねる紋様。
それはすぐに衣服の下へと沈み、姿を消した。
(今のは……)
セイグランの額にうっすらと汗が浮かぶ。
(彼の魔力の流れに、何か“別のもの”が入り込んでいるようだ)
セイグランは杖の先で、空間を軽くなぞった。
学院の結界が薄く輝き、その表面を黒い点のようなものがかすめる。
(……結界にも干渉があるが、まだ影響は僅かのようだ。放置はできないが)
セイグランは思案したが、やがて淡く笑った。
(だが、彼女はきっと――それでも、あの少年のそばに立つことを選ぶだろうな)
視線の先では、セレナがレオンに何か穏やかに話しかけていた。
少年の表情はこわばっているが、その肩の力は抜けてきている。
(私が彼女を信じている以上に、彼女は“誰かを信じること”を選んできた。止める理由はないな)
(闇を抱く少年と、光を抱く少女。
その行く末を見届けるのが、今の私の役目だろう)
遠くで、夕暮れの鐘が鳴る。
一日の終わりを告げる音が、森と学院をやわらかく包み込んだ。
光と闇が混ざり合う、その境目に――
新たな気配が、静かに芽吹いていた。




