すみません、やってしまいました
七歳のとき、第一王子の婚約者に指名されてから、わたくしの生活は一変してしまった。
家族から離れひとりで王宮に入り、厳しい教育係に囲まれてまるで監獄に閉じ込められた囚人である。ひとつミスをすれば十の言葉で叱られる。食事のときに音を立てれば鞭で手を打たれる。涙を流せば泣き止むまで説教が終わらない。
どうしてわたくしがこんな目に?
わけもわからず詰め込まれる日々のスケジュールをただ淡々とこなしながら、わたくしの感情はだんだんと失われていった。うれしいとか、悲しいとか、楽しいとか、悔しいとか、そういったものが全部なくなって、ただただ口もとに笑みを浮かべる令嬢。第一王子を支え、子どもを生むだけの――。
婚約者となった第一王子は、定期的に茶会がもうけられた。何を言われても、許された言葉のみを返す。余計なことを言えば、後ろで控えている家庭教師にあとで何をされるかわからないから。
背筋はまっすぐ。背もたれにはもたれない。足はしっかり閉じる。手もとは膝の上。指はまっすぐ。お茶を飲むときは音を立てない。口もとの笑みをどんなときもたやさない。
決められたことを忠実に守ること。お茶会の時間は、わたくしにとって指示通りのことが守られているかを確認するテストだった。
「今日は君が好きそうなお菓子を用意したんだ」
「ありがとうございます」
「好きなだけ食べてね」
「はい」
「……王妃教育はつらくない?」
「とんでもございません」
これがいつものわたくしたちのやり取りだった。
第一王子の言葉をさえぎらない。第一王子の言葉を否定しない。返事は決められた言葉のみ。第一王子が不愉快な思いを覚えないよう失礼な言動は厳禁。――家庭教師の言葉を反芻しながら、わたくしは決められた言葉のみを婚約者に返していく。
周囲が気になり、目の前の第一王子がどんな顔をしているのか、わたくしには何ひとつ見えていなかった。
五歳のとき、王妃である母が催したお茶会で、私は一人の公爵令嬢を見初めた。笑顔がかわいらしく、ころころ変わる表情が魅力的で、こんなふうに明るく可憐な人となら、きっと幸せな未来が描けるに違いない。そんなことを無邪気に考えていた私は、母に「あの方がいいです」と言ってしまった。
その後、彼女がどんな目に遭うか、想像すらせずに。
私が母に伝えてからその二年後、彼女は正式に私の婚約者となった。家族のもとを離れて王宮で暮らす彼女が不安に思わないよう、なるべく彼女が過ごしやすいように母に頼んだが、そんな私の願いは何ひとつ叶うことはなく、彼女は厳しい王妃教育を受けることになった。
王妃に求められることは多い。語学、歴史、地理、経済、帝王学以外にも、その仕草ひとつひとつ、ありとあらゆるマナーを身につけた「完璧な女性」が求められる。国を導き、国王を隣で支えるために。
定期的に開催されるお茶会で、どんどんとあの心ひかれた笑顔を失う彼女に、私の胸が痛んでいく。お茶会のときくらい人払いをしてほしいと頼んでも、何かあってはと許されることはなかった。
「今日は君の好きそうなお菓子を選んだんだ」
一生懸命彼女に話しかけても、今日も目は合わない。用意したお菓子にも手をつける様子もない。――そもそも、私は彼女が何を好きなのか、知りもしない。
「……王妃教育はつらくない?」
もし彼女が私に助けを求めてくれれば、何をしてでも全力で守る。そう覚悟を持って言っても、彼女はほほ笑みを崩さない。それはそうだ。後ろには彼女の家庭教師がいる。彼女が本音を言えるわけがない――。
私は大好きで愛しているはずの女性を、私自身のエゴで不幸にしてしまっていた。
「そんなことで王妃が務まりますか」
家庭教師の言葉とともに、今日も鞭が飛ぶ。要領の悪いわたくしは、何年経ってもやはりミスをくり返してしまい、今日も家庭教師に説教を受けていた。しかし、十年も経つと何かを感じることもなくなって、わたくしはいつものように「申し訳ございません」と静かに返した。
わたくしの環境は、十年経っても変わらなかった。そろそろ第一王子の立太子が目前に迫っている。最近はその準備で忙しいのか、お茶会もキャンセルとなることが多かった。
そういえば、第一王子はどんな顔をしていたかしら?婚約者なのに、顔すら思い出せない。でも、どうだっていいことだ。第一王子がどんな顔だろうと、この婚約がなくならない限り、わたくしの未来は決まってしまっている。
「失礼するよ」
「これは、第一王子殿下」
家庭教師の言葉に、わたくしも反射的に立ち上がって淑女の礼をとる。約束もなくわたくしのもとにやって来るなど初めてのことで、家庭教師も戸惑っているようだ。あの冷徹な家庭教師でも、戸惑うとこんな表情をするのか。わたくしは横目でちらりと見てバレないようにほほ笑んだ。
「今度の立太子の件で彼女と話したい。二人にしてくれないか」
「……それは」
「これは命令だ」
「……は、はい」
めずらしく声を荒げた第一王子の圧におされ、家庭教師が部屋を出て行く。とは言え、扉の前で聞き耳を立てていることだろう。もしここで何か起こせば、侍女を通して家庭教師の耳に入るはずだ。
「顔を上げてほしい」
言われるがまま姿勢を正す。立つときはふらつかないように。手は前で軽く手のひらを重ねる。背筋はまっすぐ。決して第一王子と目を合わせないように。
「……これまでごめんね」
シミュレーションにない第一王子の言葉に、わたくしは驚いて言葉を返せなくなる。「ごめんね」とはどういうことだろうか。わたくしが謝ることはあれど、謝られることはないはずだ。
第一王子は何を考えているのだろう?
目線を向けそうになり、慌ててわたくしは扇を広げる。あまりのことにうっかり言いつけを破るところであった。背中に一筋の汗が伝う。
「きっと、良くなるはずだ。それまで我慢できる?」
――え?
わたくしはその言葉に、ぴしりと固まった。
第一王子が立太子したあとは、家庭教師が交代すると聞いている。教育もほとんど完了しているので、カリキュラムを少し見直し、今までよりはゆとりが出るのだと。
わたくしはそれを聞いて、忘れかけていた「よろこび」を思い出したのだ。
この監獄から抜けられる。もちろん、引き続き監視があることはわかっているけれど、それでもこれまでよりは――。たったそれだけのことが、わたくしの心のよりどころになっていたのだと今気づいた。
なのに、今、第一王子は言った。「我慢できる?」と。
それはつまり、この生活がまだまだ続くという意味だ。
七歳のときから。この王宮にきてから。ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと我慢してきた。誰にも味方になってもらえず、すべての行動を監視され、何かあれば説教と鞭が飛び、痛くても、悲しくても、苦しくても、つらくても、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと我慢してきた。
それが、ようやく終わりそうなこのときに。
――我慢できる?
わたくしの心は、このとき完全に壊れてしまったのかもしれない。
ようやく私の正式な立太子が決まり、ある程度の権限が持てるようになった。私はすぐさま父と母に、即時彼女の教育を見直すよう進言した。彼女はすでに誰が見ても立派な淑女だったし、もうこれ以上心を失っていく彼女を見たくなかったからだ。
「そうは言っても……マダムからは、もう少し自分でしっかり教育したいと言われているのよ」
母の言葉を、私はすぐに否定する。
「しかし、マダムはあまりにも厳しすぎます。私は彼女を愛しています。愛する人が苦しんでいるのをこれ以上見ていられません」
そう言っても、父も母も悩んでいるようだった。王妃は「完璧」でなくてはならない。母も同じだったからこそ、マダムが太鼓判を押すまではと悩んでいるようだ。
「私の進言を聞いていただけないなら、私は王太子にもなりませんし、王族を抜け彼女と二人で生きていくことも辞しません」
「そ、それは!」
父も母もこれでようやく焦り始めた。この国は一夫一妻制だ。そして跡継ぎは現状王妃の第一子である私ただひとりである。私が跡を継がなければ王家は終わり、他の家が王家となる。それだけは避けたい父と母は、そこでようやく彼女の王妃教育の権限を父と母から私にすべて移譲してくれた。
――もっと早くこうできていたら。
私は幼く、彼女を守る力がなかった。彼女がどんどん暗くなっていく様子をただただ見ているしかなかった。でも、これからは。
私が立太子したあとも、彼女の王妃教育は今のまま継続される予定だった。しかし私はカリキュラムを大きく見直し、家庭教師の交代も決め、彼女にもう少しゆとりが持てるようはたらきかけた。家庭教師からは反対があったが、内定した王太子の権限をフルに使って退けた。家庭教師が彼女をいじめるつもりがあったとは思っていないが、母のとき以上に厳しくしていたこと、彼女が成長してもその態度が変わらなかったことを証拠とともにつきつけて黙らせた。
立太子の準備や王妃教育の見直しの対応で、彼女とのお茶会の時間がつくれなかったが、彼女は私がいないほうが気持ちのびのびできるだろう。悲しいことであるが。
このときの私は完全に浮かれていた。
もう少しで、私は愛する人と本当に二人だけの時間を持つことができる。すぐには距離を縮めることはできなくても、ゆっくりと彼女の心を解きほぐし、またあの頃のように笑ってくれたら。
そんなことを思いながら、私は、言ってしまった。
「きっと、良くなるはずだ。それまで、我慢できる?」
「……え?」
私は侍従の報告を、すぐに理解することができなかった。何かの冗談だろうとすら思っていた。
「よしてくれ、こんな忙しいときに」
軽く笑って返し、侍従が「バレたか」と言うのを待つ。乳兄弟でもこの侍従は昔からちょっとしたいたずらが好きなのだ。とくに私の彼女への気持ちを知ってからかってくるのだから本当に困る。
「冗談ではない」
「お、おい……」
「本当なんだ」
いやだ、聞きたくない、やめてくれ。
「あの方が……護衛騎士と――」
青天の霹靂だった。
彼女が、護衛騎士と一夜の過ちを犯したという。信じられなかった。護衛騎士は信頼の置ける者を置いていたし、侍女たちもいたはずだ。
そんなこと、起こるわけがない。
侍従とともに急ぎ彼女の部屋に向かう。
これは何かの間違いだ。彼女が、そんなことをするはずがない。きっと何かの見間違いだ。
部屋に入ると、彼女は夜着のまま、ゆったりとソファに座っていた。件の護衛騎士は床に取り押さえられ、青い顔で震えている。――ベッドを見る勇気はなかった。
「まあ、第一王子殿下」
彼女が楽しそうに笑う。でもそれは、私が求めていたものではなかった。口角は驚くほど上がっているのに、目は笑っていない。ぞくりと背筋に寒いものが走る。
「何が……あったんだ?」
「うふふふふふふふ」
彼女は笑いながらソファから立ち上がり、楽しそうにくるりと回る。こんなふうに無邪気な彼女を一体いつぶりに見ただろう。誰もが彼女から目を離せないでいた。
「すみません、やってしまいました」
いたずらっぽくほほ笑む彼女に、わたしは膝から崩れ落ちる。何が起きたのか、どうしてこうなったのか、何ひとつわからない。
「わたくし、おもいっきり、やってしまいました。もう純潔ではありません。完璧な王妃には、なれません!」
護衛騎士が震えながら、彼女に勧められるがまま紅茶を飲んでからの記憶がないと証言した。何かの薬を盛ったのだろうか。彼女はいつの間にそんな薬を?
わからないことだらけだ。――ようやく、愛する人と穏やかに過ごせると思っていたのに。
「もうこれで、わたくしは我慢しなくていいんですよね?」
それでも、彼女の壊れたような笑顔を見て、わかったことがひとつある。
私は、彼女を――愛する人を、婚約者に指名するべきではなかったのだと。