第3章 隣国からの侵攻 〜最強の魔王VS侵攻軍〜
この王国をほぼ掌握してから、まだ日が浅い。そんなあたしのもとに、最悪の報せが飛び込んできた。
隣国バルセオン帝国が侵攻を開始したらしい。
うちの斥候兵たちの話だと、規模は王国軍の十倍――よくそんな大部隊を早々に動かせたわね。恐れていた「魔王の復活」を先手で潰そうとしているのか、それとも単純にこちらの混乱に乗じようとしているのか。いずれにせよ、彼らはあたしを討伐ターゲットに定めたというわけ。
「……荒っぽい挨拶ね。まあ、相手の目論見はわかるわ。『魔王が現れた』って噂はあっちにも伝わってるはずだし」
ぼやきつつ、あたしは騎士団の面々を見回す。とりあえず城の一角を指揮所にして、緊急の作戦会議を開いているところだ。さすがに十倍の軍勢というのは脅威だし、真面目に対処しないとこっちが呑み込まれてしまう。
「アイリス様、数で言えば確かに向こうが優勢ですが、それだけの大軍が動けば補給線も長くなる。奇襲をかければ勝機は充分にあります」
騎士団長のレオンハルトが冷静に分析する。長身の彼は地図を指し示しながら、睨むようにその鋭い灰色の瞳を光らせている。こういう実戦的な話になると、いつもの“ドM”な忠誠姿勢よりも騎士団長らしいキレが際立つから不思議。そっちの顔は結構頼もしいわ。
「とはいえ、全正面から受け止めるのは危険だと思うけど?」
あたしが口を挟むと、レオンは「ええ」と短く肯定する。
「バルセオン帝国は重装騎士部隊と魔法師団を中心に、正面突破を得意としています。城壁を壊して、速攻で王都を落とすのが彼らの常套手段」
地図に描かれた国境線をなぞりながら、レオンは続ける。そこに、銀髪のカイルがひょいと割り込んできた。軽口ばかり叩くくせに、情報収集の腕は確かな副団長だ。
「あと、向こうには闇討ち専門のスパイもいるらしいよ。王都の混乱を煽って、内部から崩そうとしてるんじゃないかな。あちこちで変な動きがあるんだよね」
「変な動きって?」
「うーん、兵士が急にいなくなったり、物資が何者かに奪われたり。あと、たぶんセシリアが“裏”でこっそり接触してる可能性もあると思う」
カイルがふざけた口調のまま重要なことをさらっと言う。セシリア……あの腹黒姫は、あたしが王太子を処刑場で潰したときも、どこか余裕しゃくしゃくで見ていた。表面的には国を出奔したように見えるけど、水面下で帝国と組んでいるとしてもおかしくない。
「まあ、連中の裏工作なんてどうでもいいわ。結局、正面から押し寄せる軍勢を止めなきゃ話にならないもの。裏でコソコソしてるなら、それは後でまとめて駆除するわよ」
あたしが冷たく言い放つと、カイルは「それ最高!」と大げさに手を叩く。いや、そんなに喜ばなくても。こっちは一応ピンチなんですけど。
「ルーク、ユリウス、あんたたちはどう思う?」
地図のそばに立っていた赤髪のルークと金髪のユリウスに振ると、ルークは「やる気満々っスよ、アイリス様!」と拳を握りしめる。その筋肉を見せつけるなと言いたいところだけど、彼は脳筋タイプなりにやる気がみなぎっているのがわかる。
「数が多いなら、まとめて吹っ飛ばせばいいだけです! アイリス様の魔王パワーを見せてやりましょう!」
さらに無口なユリウスが小さく頷いた。
「……敵が何人いようと……滅ぼす」
ほんのわずかな声量だけど、その言葉に宿る冷酷さは相当なもの。いつも無表情の彼が、あたしの隣で剣の柄をぎゅっと握り締めている。なんだか頼もしいんだけど、ちょっと怖いかも。
「みんな張り切ってるのはわかったけど、勢いだけじゃ勝てないわよ。あっちには魔法師団もいるし、城壁が破られたら市街地が戦場になる。そうなれば民衆に被害が出るじゃない」
どうせ支配するにしても、王都が焼け野原になったら後が面倒くさい。何より、王都をまとめて潰すくらいなら最初からやってる。いまこの街に住む人々は、あたしが魔王になる前からずっと怯えていたかもしれないけど、それでも彼らまで巻き込むのはやりすぎかと感じる。
「確かに、アイリス様が築き始めた“魔王領”を火の海にするわけにはいきません」
レオンハルトが地図をさらにめくり、城外の地形図を示す。
「そこで、城から少し離れた丘の上に防衛線を構築するのがいいかと。敵が城に近づく前に迎え撃ち、押し返せれば、被害も最小限で済みます」
「ふむ……確かに。そこなら見晴らしもいいし、囮を使って帝国軍をまとめて誘い込めそう」
カイルが地図を指でなぞりながら、作戦の具体案を考える。ルークは「よーし、まとめて殴り倒すぞー!」と単純な気合いを入れ、ユリウスは無言のまま何かを考えている様子。
あたしは少しだけ安堵する。これなら、単に待ち受けるだけよりは攻め手がある。
「いずれにしても、敵が攻めてくるのはもうすぐなんでしょ? 偵察兵の情報だと、数日のうちに国境を越えるらしいじゃない」
「はい。こちらの混乱を知っているなら、できるだけ早く一気に踏み込みたいはずです」
レオンの言葉通りだ。先手を打つか、あるいは城下で待ち構えるか。この判断があたしの立場を大きく左右しそう。迷う暇はないけど、どちらにしろ大軍に立ち向かうことになる。
「……行くしかないわね。むしろ、逃げるなんて選択肢ははじめからない」
そう呟くと、騎士団員たちの目が一気に輝いた。こいつら、本当に戦いたいんだろうか。いや、あたしを守りたいのかもしれないけど、その盲目的な忠誠がいつもながら痛々しいまでにまっすぐだ。
「では、出撃準備を整えます。配置や兵員の割り振りは私が指示しますので、アイリス様はご安心を」
レオンが静かに宣言すると、カイルとルークが「了解!」と同時に返事をする。ユリウスもうなずいたまま声を上げない。あたしは椅子から立ち上がり、背筋を伸ばす。
この国を守りたい――そういう意識が、あたしの中にふわりと芽生えている気がする。守るなんて最初は考えもしなかったのに、奇妙なものだ。
***
数日後、あたしはレオンハルトの策に乗って、王都から少し離れた丘の上に陣を構える。騎士団が率いる兵士たちがずらりと並び、その後方には臨時で集めた民兵や、あたしに降った貴族の私兵などが控えている。正直、士気がバラバラなんじゃないかと不安になるけれど、騎士団の存在だけで全体が不思議にまとまっているから不思議だ。
「敵は……見えてきたわね」
遠方の地平線に、黒い影が幾重にも連なっているのが見える。重装騎士がぎらぎらした武具を輝かせ、魔法師団の旗印がいくつもはためいている。確かに圧巻の大群だ。十倍という規模は伊達じゃない。地面が微かに振動して、兵士たちのざわめきが高まる。
「あっちもやる気満々みたいですね。ざっくり数えただけでこちらの十倍は軽くいる」
カイルがわざと呑気な口調で言う。隣ではルークが「多いほど燃えるっス!」と鼻息荒く槍を振っている。いや、あたしの計算では多ければ多いほどきついと思うんだけど……。
「アイリス様、民衆が怯えています。ここで踏ん張らないと、王都にまで被害が出る」
レオンが真剣な面持ちで報告してくる。あたしは柵越しに後方の人々を見やる。年端もいかない子どもを抱えた女性や、高齢の人たちが不安そうにこちらを見つめている。みんな、あたしを“魔王”だとか“悪役令嬢”だとかいろいろな呼び方で噂しているけれど……今はそんな次元じゃない。ここで踏みとどまらなきゃ、彼らの生活が完全に踏みにじられる。
「……守る、か。おかしいわね。滅ぼすことしか考えていなかったあたしが、いつの間にか守る側にいるなんて」
苦笑しつつ、やるしかないと肚をくくる。視線の先で、帝国軍が整然と展開しているのがわかる。大きな旗印が上がり、ざわざわとこちらを嘲笑うような声が遠くから聞こえる。こんな広い戦場でも、向こうの罵声が耳に届く気がする。血の匂いさえ漂ってきそうだ。
「……ま、相手のほうから仕掛けてくるわよね」
あたしがつぶやいた直後、帝国軍から突撃ラッパのような甲高い音が響いた。すると重装騎士たちが大きく隊列を組んで、一斉に駆け出してくる。それはまるで大きな鉄の塊が押し寄せるみたいな迫力で、地鳴りのような振動が足元に伝わってくる。
「早いな……。みんな、構えて!」
レオンが低い声で指示を出すと、配下の兵たちが弓を引き絞り、魔法使いが詠唱を始める。戦の始まりを告げる重苦しい空気が一気に広がり、周囲が緊張に包まれる。
「アイリス様、危ないので後方に下がっていてください!」
レオンが振り返りながら叫ぶ。あたしは思わず笑ってしまう。そういう台詞、何度も聞いた気がするけど、下がるつもりはない。
「ふん、さすがに十倍の大軍相手にのんびり引っ込んでるわけにはいかないの。……あたしがいれば、火力増すでしょ?」
「しかし……」
「却下!」
レオンハルトの心配をあっさり切り捨て、あたしは闇の魔力を手のひらに集める。視界の端では、カイルが「さすがアイリス様、攻める気ですね♪」と嬉しそうに笑っている。
その瞬間、帝国の重装騎士たちが丘の斜面を一気に駆け上がってきた。ものすごい勢いだ。こちらの兵士が焦って矢を放つが、帝国兵の前列は頑丈な盾を構えていて、簡単には突破できそうにない。
「どうせ正面がダメなら……穴を作ればいいわ」
あたしは息を詰めて魔力を集中させる。地面から黒い稲妻のような魔力がほとばしり、地面を抉り取る。すると、突撃してきた騎士たちの一部が大きな穴に落ちて、悲鳴を上げながら転落していく。
「おおっ! いいですね、アイリス様!」
カイルが思わず声を上げる。こちらの兵たちも士気を取り戻したらしく、次々と魔法や弓矢を放って帝国の前列を攻撃する。けれど、敵の数は多すぎる。穴を掘ったぐらいではたかが知れているし、騎士団ですら手こずりそうだ。
「ここからは騎士団が一気に斬り込む! アイリス様の邪魔にならぬよう、散開しろ!」
レオンが鋭い声を響かせると、ルークが「了解ッス!」と猛然と槍を構えて突撃し、ユリウスは無言で雷の魔法をまとって駆け出す。その姿を見た帝国兵たちは戸惑ったように叫ぶ。
「な、なんだあの連中は! 一瞬で間合いを詰めて……がはっ!」
ルークの槍が重装騎士の防御を貫き、ユリウスの雷撃が魔法師団の詠唱を中断させる。さらにカイルが風の魔力で高速移動し、指揮をとる帝国将校と思しき男を背後から一刀両断。気がつけば、帝国の陣形がわずかに乱れ始める。
「すごい……本当に強いわね、この騎士団。なんであたしを守りたいなんていうのか意味不明だけど」
ぼそりと呟きながらも、あたしは地面の奥から闇の魔力をさらに引きずり出す。すると、ズゥンという振動と共に地面から黒い棘のような魔力の柱がいくつも隆起し、敵兵の足元をかき乱す。
絶叫が沸き起こり、混乱した敵兵が次々と倒れていく光景は凄惨といえば凄惨。でも、やらなきゃやられるだけ。
「下がれ、下がれー! 隊列を崩すな!」
帝国の指揮官が必死に叫ぶ声が耳に入る。けれどその声をかき消すように、黒い闇の棘が勢いを増して、魔法師団の展開しようとしていた防御結界を崩し始める。
「そこだ!」
あたしが手を振り下ろすと、闇の棘が一気に形を変え、鞭のように敵兵を絡め取る。悲鳴と絶望の声が混ざり合い、血のにおいがさらに強くなる。こんな破壊力……確かに、自分でも怖いと思う。
でも、この力を使わなきゃ守れないものがあるのなら、遠慮はしないわ。
「あ……あり得ない……なんでこんな……」
吹き飛ばされて転がった帝国兵の顔が恐怖に染まっている。自慢の重装備も、あたしの闇魔法の前では大した意味を持たない。どうせ相手もあたしを“魔王”として潰すつもりで来ているなら、こっちも容赦はしない。
「魔法師団、結界を張れ! 張れっ……! ぐあああっ!」
相手の魔法使いが声を張り上げた直後、どこからともなく雷が落ち、彼らを薙ぎ払う。ユリウスの魔法だろう。あの人、何を考えているかわからないけど、アイリス様を傷つける敵は一瞬で排除するという執念だけは伝わってくる。
「すごいな……でも、帝国軍の数はまだまだ減らないわね」
あたしは荒い息を吐きながら、遠くを見据える。確かに前線の一角は崩せた。騎士団とあたしの攻撃で、多くの帝国兵が混乱に陥っている。しかし、それはあくまで全軍の中の一部。まだ後方には援軍や魔法師団が控えているのが見えるし、補給部隊も続々と到着しているようだ。
「アイリス様、大丈夫ですか!」
急いで駆け寄ってきたレオンハルトの鎧は、敵兵の返り血で赤黒く染まっている。でも本人はまったく動じていない様子だ。さすが剣術無敗と言われるだけはある。
胸の奥からわき上がる尊敬を、あたしはちょっとだけ感じている。いや、そんな場合じゃないけど。
「まだ全員を片づけるのは無理そう……。一旦、部隊を再編するわよ。下手に深追いしないで」
「かしこまりました!」
レオンがすぐに兵たちに指示を出し、前線を引き戻す。あちらもすぐに立て直すだろうし、仕切り直しだ。とはいえ、状況は悪くない。何しろ帝国軍はまさかあたしが自ら前線に立って魔法をぶっ放すなど予想していなかっただろう。彼らの攻勢は明らかに鈍っている。
「アイリス様、休んでください。少しでも回復を」
カイルが真剣な顔で言う。あたしは軽く息をついて、用意された魔力回復用のポーションを受け取る。……疲労を自覚するのは久しぶりだ。処刑場で覚醒したときは、怒りや絶望にまかせて力を解放していただけだから、今ほど自分を客観視できていなかった。
でも、今は明確な“目的”がある。守るべきものがある、なんて言い方は照れくさいけど。
「どうしてかな……。あたし、こんなに必死になる必要ある?」
「アイリス様が必死にならなくて、誰がこの国を救うんです?」
カイルがあっけらかんと返事してくる。その笑顔はいつもの軽薄さも混じっているけど、底にあるのは揺るぎない“信頼”だというのが見て取れる。
あたしは観念したように苦笑する。本当に、どうしてこんな連中があたしに惚れ込むのかわからない。でも、悪くはない……かもしれない。
***
再び帝国軍が総攻撃をかけてきたのは、陽が高く昇りきった頃だった。どうやら向こうも本腰を入れて押し潰す気らしい。魔法師団の詠唱が戦場の空気を震わせ、重装騎士の突撃が土埃を巻き上げる。
「よし、あたしが前衛に出るから、後方は任せる!」
「アイリス様、それだけは……!」
レオンが焦り混じりに声を上げるが、待っていられない。あたしは闇の魔力で自分の身体を覆い、敵陣の目前に瞬間移動のように突っ込む。まるで地面を滑るように距離が縮まっていく。
「なんだこいつは……魔王か!?」
ざわめきと恐怖に染まった帝国兵たち。あたしは躊躇なく腕を振るい、空間に闇の一撃を叩き込む。すると前列の騎士たちが吹き飛ばされ、金属と骨が嫌な音を立てて散らばる。血の霧が視界を赤く染めるが、あたしの胸には容赦の気持ちが湧かない。生き残るには、やるしかない。
「魔法師団、あいつを……囲め! アアアッ!」
指揮官の指示に応じて数十人の魔法使いが魔力を編んでいるのがわかる。結界のようなものを張ろうとしているらしいけど、あたしの中で湧き上がる闇の力がそれを許さない。
「……逃げても無駄よ!」
黒い閃光が足元から踊り、魔法師団を一気に巻き込む。破裂音と悲鳴が重なり、敵の詠唱はすぐに途切れた。
これが本当にあたしの力なの? と我ながら嘘みたいな破壊力。こんなのを放っておいて、王国はよくあたしを処刑しようなんて思ったわね。
「アイリス様! 援護します!」
ルークとユリウスが相次いで追いつき、帝国兵の残存部隊をすさまじい勢いで蹴散らしていく。カイルは風魔法で空中を舞って、弓兵や魔法使いを狙い撃ち。そこにレオンが重剣を振り下ろして重装騎士をまとめて吹き飛ばす。……帝国軍の統制が完全に崩壊してるのが見て取れる。
「ひ、ひとりひとりの強さが……化け物か……?」
「退けぇぇ! こんなの相手にできるか!」
阿鼻叫喚の声の中、帝国兵が雪崩のように引き始める。指揮官らしい男が必死にまとめようとしているが、もう手遅れだ。最初の突撃の勢いを止められた彼らは、一気に恐慌状態に陥っている。
「……こんなもんで済むと思わないでよ」
あたしは魔力を練り上げる。視界の端で、帝国の後方部隊が撤退を始めているのがわかる。まさか魔王が本当に出張ってくるとは思っていなかったのか。その油断をついて、あたしはさらに闇の魔法を放ち、逃げようとする兵たちをまとめて叩きのめす。
「もう引き返せないでしょ。あたしを『魔王』って言うなら、それ相応の力を見せてやる」
血飛沫が舞い、轟音が戦場を満たす。崩れゆく帝国の隊列。やけに目に焼き付くような赤い風景。あたしの中に、かすかな痛みや戸惑いがないわけじゃない。でも、背後で震えている国民や、あたしを信じてくれる騎士たちを思うと、容赦できないのだ。
「アイリス様、前線はほぼ制圧しました!」
レオンが息を弾ませながら報告に来る。周囲を見ると、帝国兵の残党が散発的に逃げ回っているだけ。こちらの被害が皆無とは言わないが、十倍の兵力を誇るはずの敵が、あっという間に潰走したことに驚きが隠せない。
「……勝った、の?」
声に出してみても、実感が湧かない。王国側の兵士たちが歓声を上げ始め、あちこちで「万歳!」とか「魔王様、勝利だ!」なんて耳慣れない呼び方で叫んでいる。
何なのよ、魔王様って。
「カイル、ユリウス、ルーク……大丈夫? ケガはない?」
あたしが騎士団員の姿を探すと、ルークは甲高い笑い声をあげながら槍を掲げているし、ユリウスは傷ひとつないように見える。カイルは風魔法で空からスッと降りてきて、まったく無傷の様子。
「へへ、アイリス様がいれば、こんなの楽勝だね」
軽口を叩くカイルに、あたしは半ばあきれつつもほっとする。全員無事らしい。
そして、戦場には帝国兵の遺体が散乱し、生き残りはすでに逃げ腰になっている。
「……これで、終わりか」
しんとした静寂が戻り始める。倒れた兵士たちのうめき声や、死に絶えた馬の匂いが生々しい。そんな光景の中でも、騎士団や兵士たちはみな歓喜に震えている。
大軍を撃破するなんて、普通は考えられない出来事だ。
あたしは荒れた呼吸を整えながら、胸の奥で少しずつ何かが変わっていくのを感じる。
……守った。いや、むしろ徹底的に殲滅してしまった。
でも、結果的に王都やこの国の人たちは救われた形になる。あたしが憎んでいたはずのこの国だけど、いまは少し違う思いがある。複雑な感情がごちゃまぜになって、頭が痛い。
「アイリス様! 見事な勝利です! これで帝国軍も迂闊に手を出せないでしょう」
レオンハルトが嬉しそうに声を張り上げる。その灰色の瞳には明らかな歓喜と崇敬が混じっていて、少し直視しづらい。あたしは苦笑いしながら、戦場を見渡す。
「まったく、殺りすぎたんじゃないの……?」
「敵ですよ。アイリス様を害そうとした連中です。むしろ生温いくらいかと」
カイルが軽やかに肩をすくめる。ルークも「これ以上ないくらいスカッとしました!」と豪快に笑う。ユリウスは何も言わないが、冷たい瞳の奥で安心しているように見える。
「まあ、いいわ。それより、ケガ人の救護とか捕虜の処理とか、やることが山積みよ。レオン、すぐに部隊を指揮してちょうだい」
「かしこまりました、アイリス様」
レオンハルトが即座に行動を開始し、騎士団員が散っていく。勝利の余韻に浸る間もなく、後始末が待っているのが現実だ。血生臭い風に髪を揺らしながら、あたしは空を見上げる。よく晴れた青空が腹立たしいほど平和そうで、こっちの戦闘が嘘みたいじゃない?
「……それにしても、セシリアの姿が見えないわね。まあ、こういう場所には出てこないわよね」
ぼやき半分に呟く。バルセオン帝国と繋がっているという噂は本当かもしれないけど、確たる証拠がない以上、今は追求できない。ここで勝利したのは大きな一歩だけど、根本的な脅威が去ったとは言い難い気がする。
「アイリス様ー! 被害は最小限で済みましたよ! 民衆もみんな感謝してます! もう『魔王なんて怖い』っていうより、『アイリス様は救いの神』って感じになってますね!」
カイルが地面に散らばる兵の鎧を飛び越えながら、器用に走ってくる。
何その言い方、救いの神? やめてよ、あたしは別にそんな殊勝な目的で戦ったわけじゃない。
「ふん、勝手に言ってればいいわ。あたしはあくまで自分のためにやったの」
そう答えても、カイルは「へいへい」と笑っている。どうせあたしの強がりを見透かしているんだろう。悔しいけど、彼らの忠誠は本物だし、あたし自身も自分の行動に嘘はついていない。
「やることが多いのはわかってるけど、ひとまず一息つきたいわね。夜になったら宴でも開いたら?」
ちょっと疲労感を紛らわせる意味で冗談めかして言ったら、カイルは目を輝かせる。
「うわ、本当ですか? 宴いいですね! みんな喜びますよ! アイリス様が主役ですけど、ぜひ僕にも構ってください♪」
「……うるさいわね。落ち着きなさい」
彼がはしゃぐのを苦笑まじりにあしらいながら、あたしは改めて周囲に視線を巡らせる。帝国軍の兵士が多数倒れているが、すでに騎士団や兵士たちが残党の掃討と救護を進めている。民衆も遠巻きにこちらを見ている。皆が恐怖と安堵の入り混じった表情をしているのが印象的だ。
「……まあ、いいわ。とにかく、この国は守られたってことね」
そう呟くと、不思議な達成感が湧き上がる。それは復讐や破壊とは違う、温かい気持ちが混じった何か。あたしは混乱する頭を振りながら、胸の奥でこの感覚を噛み締める。騎士団が守らなくちゃいけない存在なのはあたしのほう、と思っていたけれど、いつの間にかあたしが彼らやこの国を守る側になっている。おかしなものだ。
「ありがとう、アイリス様!」「命の恩人だ!」と声が遠くから飛んでくる。
民兵や市民らしき人たちが、傷つきながらも笑顔で手を振っている。これまであたしは、憎いはずの王国の民衆の嘲笑しか知らなかったのに。やや戸惑う気持ちを抱えつつ、あたしは彼らにちらりと視線を返す。
「……あんまり慣れてないんだけど、こういうの」
小声で呟いたあたしに、いつの間にか隣に現れたレオンハルトが深く頭を下げる。
「慣れなくとも、アイリス様はこの国の希望です。どうか、そのお力で皆を導いてください」
その言葉に、あたしは複雑に眉をひそめる。希望……ね。悪役令嬢で、処刑台に上がるはずだったあたしが、いつの間にこんな役回りになったんだか。でも、不思議と悪い気はしない。むしろ、背筋が伸びる感覚さえある。
「……ま、今のところはやるしかないわね。次、どんな奴が攻めてきても、ぜんぶまとめて叩き潰す。騎士団、手を貸しなさいよ」
「もちろんですとも!」
レオンをはじめ、騎士団の全員が堂々とうなずく。その姿に、あたしは心底呆れながらも笑ってしまう。こうなったら、もう突き進むしかない。頭の片隅にはセシリアや他国の思惑もチラつくけど、今はこの勝利を手にして、王都を守った自分を誇ってもいいだろう。
「じゃあ、戦場の整理と捕虜の対応、よろしくね。あと、負傷した味方の手当ても念入りに。できれば帝国兵の命だって、必要以上には奪わなくていいわ」
軽く指示を出すと、レオンとカイルたちは即座に動き出す。あたしは戦いの疲れを感じつつ、惨禍の広がる丘の上に立ち尽くす。国を守る側というのは、こういう景色と向き合っていくことなんだろう。
血と煙の臭いにむせ返りながら、なんとも言えない苦い思いがこみ上げる。
「……守るために、また滅ぼしてしまった。皮肉なものね」
誰に言うでもなくつぶやいた言葉が、風にさらわれて消えていく。日差しが強くなり、熱気がじわりと頬を汗ばませる。まるで、あたしの内側にある魔王の力が沸き立っているようで、少し気恥ずかしい。
「ま、いっか。勝ったんだから、これでいいのよね」
そう自分を納得させるように呟くと、遠くからルークの豪快な笑い声と、カイルの弾んだ呼び声が聞こえ、ユリウスの静かな足音が近づいてくる。
あたしは赤い瞳を細めながら、彼らを迎えるためにくるりと振り返った。
「……次があるなら、どんな敵でもまとめて返り討ちにするわよ。魔王様をなめないでほしいわね」
そんな強がり混じりの決意を胸に、あたしは血にまみれた戦場をもう一度見渡す。
騎士たちや民衆の声が一斉に背を押すようで、妙に心がざわつく。憎しみだけではない、新しい感情が確かに生まれ始めているのかもしれない。もちろんあたしは“悪役令嬢”で“魔王”だ。それは変わらない。けれど、こうして守りたいと思えるものができたのなら、この力を思う存分使ってみるのも悪くない。
──そう、これはあたしが選んだ道。ひとまず、勝利の余韻くらいは味わっておこうじゃない。
あの腹黒姫がどう暗躍しようと、あたしと騎士団を甘く見て痛い目を見ればいいんだから。ほら見てなさい。王国を、そしてこの世界を……あたしがどう変えてやるか、じっくり観察してなさいよ。
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