三つの契約事項
婚約してから半年が経過した頃。
カレンが、グレースに嫌がらせをするようになった。
その日も、酒場に行くと彼女が泣きながら俺に抱きついてきた。
今にも消えてしまいそうな儚げな彼女の肩を抱きながら、店内に入る。
グレースは嗚咽を漏らしながら言った。
「この前、 カーター家のお嬢様がいらっしゃったわ。あなたと別れるようにって……」
カーター家の令嬢、カレン・カーター。
年齢は、十六歳。
彼女が十七歳を迎えたら結婚する予定だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいで……」
「グレースのせいじゃないよ。顔色が悪いんじゃないか?ほら、今日はもう横になった方がいい」
グレースは泣き濡れた顔で俺を見た。
目は充血しており、鼻の頭も赤くなっている。
さんざん泣いたのか、目元が腫れていた。
あまりにも痛々しくて、俺は眉を寄せた。
「マシュー、お願い……ぎゅっとして」
「……人目に付く。きみの部屋に行こう」
グレースの肩を抱いて、奥の階段に向かう。
二階に、彼女の部屋がある。
グレースの部屋に入り、ベッドに座らせた。彼女は俯いて、震えていた。
俺は、その背をさすりながらゆっくりと彼女の話を聞き出した。
「カレンが来たんだって?きみに、なんて言ったんだい」
「あ、あなたと……」
嗚咽を零しながらグレースは話す。
しかし、しゃくり上げながらなので、聞き取りづらい。根気強く彼女の話に耳を傾けていると、突然グレースが俺の胸に飛び込んできた。
「あなたと別れないと、この店を潰すって……!」
「そんなことを?」
「私、嫌だっていったの……」
「大丈夫。きみの店は潰させないよ」
俺は、カレンの姿を脳裏に描く。
嫋やかな容姿をしている彼女は、黙っていれば白百合のように美しい少女だ。
彼女は、婚約者に愛人がいることを不快に思っているのだろう。
顔を合わせた時から、彼女は責めるように俺を見つめてきた。
しかし、『愛人がいても構わない。愛人が子を宿してもいても良い』と言ったのはカーター家だ。
責めるなら、この婚約をゴリ押しした王家、神殿、そして許諾した自身の父にして欲しいものだ。
カレンは、何度となくこの店に足を運んではグレースに嫌がらせをしていく。
声高に罵倒したり、別れを強要したり。
その度にグレースは泣いて、俺は彼女を慰めた。
カレンの護衛に暴力を振るわれそうになったと聞いた時は流石にこれは、とカーター家に抗議しようとした。
愛人を認めたのはカーター家だ。
それなのに、彼女を攻撃するとは話が違う。
しかし、グレースがそんなことをしたら俺の立場が悪くなると止めた。
俺は、卑劣なことが嫌いだ。
身分を笠に着て、グレースを虐げる彼女には腹が立ったし、そんな女と結婚しなければならない現実に嫌気が差していた。
こうなった以上、俺にはグレースを守る義務があった。
☆
カレンと結婚する一週間に、父が亡くなった。
結婚は喪が明けてからになるかと思いきや、ごくごく内々の結婚式を行い、披露宴は後日、という形をとることになった。
そこまでして、俺とカレンの子が欲しいのか?
王家と神殿の意図を察した俺は、ますますこの結婚に悪印象を抱いた。
そして、結婚したその日の夜。
俺は、彼女に言った。
「これは白い結婚だ。俺はあなたを愛さない。妻として遇することは誓うが、こころは求めないで欲しい」
白い結婚だと宣言したのは、彼女がどうこうより、王家や神殿への抗議に近かった。
俺と彼女の間に子が出来なければ神殿とて諦めるだろう。
カレンはきょとんとしていた。
どうやら、驚いているらしい。
まさか、白い結婚を強制されるとは夢にも思っていなかったのだろう。
彼女とは数回程度しか話をしたことは無いが、グレースにさんざん嫌がらせをしていたのだ。
とんでもなく性格が悪いのだろう。
激昂して怒鳴り散らすかと思えば、彼女は呆然としていた。
沈黙に耐えかねたのは、俺の方だった。
「カレン?どうしたんだ?」
声をかけると、カレンはハッと我に返ったように俺を見る。
そして、少し考え込むように黙った後、俺に言ったのだ。
「承知しました。では、旦那様。私と契約をしましょう」
と。
驚くほど落ち着いた、静かな声で。
カレンが提示したのは、三つの条件だった。
一つ目。
三年経過したら、離縁すること。
※離縁理由は子供が出来なかったから、というものとする。
二つ目。
慰謝料を求めること。
※ただし金額は、そこまで大きなものではない。手切れ金代わりとする。
三つ目。
邸からひとつだけ、気に入ったものを持ち出すこと。
※家宝や貴重品では無い。
話を詰めて、内容をまとめた俺は首を傾げた。
カレン・カーターは話に聞いていたよりずっと落ち着いた、マトモな女だった。
もっと手の付けられない苛烈な令嬢だと聞いていたのに。
契約に合意すると、彼女はにっこり笑って言った。
まるで、大輪の向日葵を思わせるようなキラキラとした笑みだった。
「これで、契約書は完成ですわね!三年したら、離縁届を出しましょう」
にこにこと、何がそんなに楽しいのか機嫌よく言う彼女。
グレースから聞いていた姿からはかけ離れている。
一瞬、もしかしたらこれが彼女の素顔なのかもしれない。
グレースとは行き違いがあっただけなのでは?
そう考えたが、まさにそれこそが彼女の手口なのだろうと気が付いた。
危ない。俺までもが騙されるところだった。
気を引き締めて、俺は彼女を見た。
「では、三年。何事も問題を起こさないように。グレース……俺の恋人にも手を出すなよ」
あえてきつい言い方をすると、カレンはまたしてもきょとんと俺を見る。
それから、ふわりと朗かな笑みを見せたのだ。
「もちろんですわ!その……グレース?様には一切関わりませんし、私から会おうなんていたしません。私は私で、この三年。公爵夫人として恥じない振る舞いをいたします。三年間という短い期間ではありますが、協力者として!よろしくお願いいたしますね、旦那様」
とても楽しそうに笑う彼女の言葉には、一切の含みを感じなかった。
しかし、そんなはずはない。
なぜなら、彼女は何度となくグレースに会いに行き、その度に嫌味や暴言を吐いてきたのだから。
これも、演技に違いない。
そう思った俺は、騙されてたまるものかと彼女を強く睨みつけた。