嫌がらせの道具
正一さんには、想い人がいた。
それは、彼の幼馴染だった。
宣言したとおり、正一さんは、愛人を屋敷に招いた。
愛人の前に顔を見せるな、と厳命された私は、こそこそと隠れるように生活することになった。
幸せになれると思っていた。
幸せになるはずだった。
家族に祝福された結婚式。
まさか、こんなことになるなんて。
涙を拭いながら、窓を拭く。
私は、家政婦長に指示を受け、下働きの娘たちと一緒に働いていた。
「どうして、奥様が働いているのですか?」
「旦那様はね、特権階級の人間が嫌いなのさ。戦争でぜーんぶ失ってざまあみろと思っているのよ。高貴な人間が這いつくばって掃除婦をする。何とも、笑わせるじゃない!」
家政婦長の声が聞こえてきて、私はあかぎれだらけの手を握った。
正一さんは、華族を嫌っていたのだ。
今回、高階の家を救うために政略結婚をしたのだって、今までの鬱憤晴らしと、嫌がらせだ。
それは、彼と結婚し夫婦となってから知った。
「時代に取り残された、愚かな金の亡者」
没落する華族を、正一さんはそう揶揄していた。
ある日、私は幼子の声を聞いた。
「キャハハッ!」
「ふふふ……。……は……ね」
そして、穏やかな女性の声。
瞬間的に、私は確信した。
何か、確たる証拠があったわけではない。
ただ、本能的に思ったのだ。
(正一さんと、愛人の──)
咄嗟に、私は駆け出していた。
辿り着いたのは、離れだった。
そこで、ひとりの女性が男の子を抱いて笑っていた。
彼女は、私に気付くと目を見開いた。
綺麗なひとだった。
艶々とした黒髪。口元のホクロ。
大きな瞳。美人だった。
彼女は、一目で私が誰か分かったようだ。
「あ……あ……。奥、様」
「その子……」
私と彼女の声が、重なる。
彼女が胸に抱いていた子は五つか、六つか。
赤子とは到底言えない、おおきな子だった。
私と彼が結婚して、一年。
それなら、この子は……?
私と婚約するより前に、生まれた子──。
「千代?」
正一さんは、在宅だったようだ。
彼女の後ろから、ジャリジャリと砂利を踏みながらこちらにやってくる。
そして、私を見ると。
「……花恋」
「旦那様、これは──」
一体、どういうことですか。
そう、聞こうとした時。
「何しに来た!?離れに来ることは許可していない!早く出ていかないか!!」
旦那様の怒声が響いた。
ビリビリとした声に、子供が泣いた。
母親である愛人が、慌てて子を宥めた。
「ああ……ごめんなさい、ごめんなさい。どうか、許して。見逃して」
彼女は今にも消えそうなほど儚い声で、私にそう希った。
目の前が真っ暗になった。
旦那様は、そんな彼女の背をさすり、優しい声を出している。
「大丈夫、大丈夫だよ。千代。あなたのことは私が守るから……」
(なに、これ?)
呆然と私は立っていた。
どうやって部屋に戻ったのだろう。
気がつくと私は、自分の部屋──とも言えない物置で、ぼんやりとしていた。
この家に、私の居場所なんてない。
この家にとって、私は文字通りお荷物なのだ。
帰ろう、と思った。
実家に。高階の家に。
風呂敷を取り出して、貴重品を包んでいく。と言っても、私がこの家に持ち込んだものなんて数える程度しか無かった。
正一さんにもらった、扇かんざし。
黒地に、桜と羽ばたく白鳥が描かれた美しい品。
(これをくれた時……)
『あなたの眩い髪に、似合うと思ったんだ。ほら、よく似合っている』
私は、異国の血が入っているようで生まれつき髪の色が薄かった。
戦時中は、敵と間違われる可能性を考え、家を出ないようにしていた。
戦争が激しくなるにつれ、周囲の私を見る視線も厳しくなり……。
『非国民』『敵国の人間だ』と言われるようになってしまった。
私にとって、この髪は生まれながらの欠点であり、短所だった。
だから、正一さんが髪を褒めてくれた時、私はすごく、すごく嬉しかったのだ。
(その時は……嬉しくて、泣いてしまったのだっけ)
ここに来てから、一度も身につけていないわ、と今更ながら気がついた。
私は、簪の表面を撫でた。
それはただひたすら、冷たさだけを指に伝えてくる。
次に私が手に取ったのは、詩集だった。
高階の家から持ち込んだ唯一の本。
そういえばこれも、この家に来てからは一度もページを開いてない。
(……あら?)
天袋を開けると、そこは空だった。
何も、入っていない。
(……おかしいわ。ここには、お母様の形見を入れておいたのに)
お母様の形見である、黒留袖の着物。
それが、ないのだ。
ここにしまっておいたのに……。
実家に置いてきてしまった?
いや、そんなはずは……。
確かに字波の家に持ち込んだはずなのだけど。
疑問に思いながら、風呂敷を纏める。
一度、高階の家に戻ろう。
それからどうするかはまだ決めていないけど、もう、ここにはいられない。
そう思って、その足で私は字波の家を出た。
……涙は出なかった。