何を仰っているんですか?
旦那様は、顔を真っ青にした。
思わず心配になって、駆け寄る。
「大丈夫ですか!?お顔の色が悪いですわ。今、お手当てを」
病気の類なら、私に治せるはず!
そう思って手をかざそうとすると、どうしてかその手を取られてしまった。
「ち、違う!俺は大丈夫だ……。そうじゃなくて」
「無理をしてはいけませんわ。最近、帰りが遅かったですものね?お仕事、頑張られていたのでしょう?」
「ああ。あなたは結婚記念日は何もしなくていいと言ったけど、俺はあなたと一緒に過ごしたかったから……」
「まあ。そのために頑張って時間を作ってくださいましたの?ありがとうございます。それで、体調は、ほんとうによろしいのですか?お休みになった方がいいのでは……」
私が言うと、彼は縋るように私を見た。
(……何かしら?)
そんな目で見られても、困ってしまう。
ほんとうに体調が悪いのだろうか。
具合が悪いと、心細くなるものね。気持ちは分かる。
「その間に、あなたは出ていってしまうの?」
「え?ああ……そうですわね。本日中にはお暇しようかと」
「……嫌だ」
「はい?」
今、なんて仰いました?
「嫌だ!離縁したくない……!!」
「ええ……?」
突然、契約不履行を求める声に、私は困惑した。
今更そんなこと言われましても困ってしまうわ。
まさか、旦那様が駄々をこねるとは思ってもみなかった。
私は困惑して、旦那様に言った。
「でも、もう離縁届は出してしまいました」
「え!?」
「三年前に署名したではありませんか。念の為、互いに一枚ずつ、離縁届を保管しておく……と、そういうお話だったでしょう?」
まさか、これも忘れてしまったの?
だとすると、ますます困るわ……。
私が困惑しながらも言うと、旦那様の顔は青を通り越して白くなってしまった。
「な……ど、どうして言ってくれなかったんだ!?俺との結婚は、不満だったのか……!?グレースとのことは、ほんとうに申し訳なかったと思っている。だけどあなたも、許してくれたはずだ。公爵家が好きだとあなたは言った!」
「……?はい。確かに公爵家は大好きですわ。公爵家の皆さんには、とても良くしていただきました。ここを去っても、この三年、彼らと過した思い出は忘れません」
私は、自身の胸に手を当てる。
旦那様は絶句したように黙り込んでしまった。
どうやら、体調は問題ないようだし(本人申告)、と私は腰を上げた。
握られていた手が離れると、旦那様が私の名を呼ぶ。
「ま、待て!あなたはこれからどうするんだ?貴族の娘が離縁なんて、そんなの有り得ないだろう?」
「ああ、そのことなら!既にライフプランは決まっているのです。ふふ、この三年間しっかり計画したのですよ、私」
確かに、貴族の娘が離縁……なんて有り得ない。
もう社交界には戻れないだろう。
戻れたとして、そうとう白い目で見られることに間違いない。
貴族の娘が離縁される──それは、離縁された側(つまり私)になにか、酷い落ち度があったのでは、と思われる。
(こういうところは、前世とあまり変わりないなぁ)
【離縁なんて有り得ない】
それが、前世での常識で、当たり前だった。
だからこそ、私は字波の家で下働きのように過ごしていたわけだし……。
もっと、離婚に寛容な世の中になればいいのに、と今更ながら思う。
いや、今だからこそ思うのかもしれない。
前世、離婚なんてしたら。
それこそ村八分にされていたことだろう。
前世の私は、そこまでするほどの勇気がなかった。
だけど、今世は違う。
流石に二度目だもの。
泥を被ってでも、私は離縁すると決めたの。
旦那様は、俯いて手の甲を額に押し当て、黙ってしまった。
先程から挙動不審である。
体調に問題は無いと仰ったけど、やっぱり白魔法をかけてさしあげるべき……?
悩んでいると、旦那様が言った。
「……やっぱり、あれか?グレースが、勝手にあなたの指輪を嵌めていたこと……。あれが許せなかったんだな……?」
「グレースさん……?指輪?」
旦那様の言葉に、私は首を傾げた。
それから、ああ!と思い出す。
「そういえば、そんなこともありましたわね!」
ポン、と手を打った。
私を見て、旦那様が狼狽した様子を見せた。
酷い顔色である。
ほんとうにどうしたのだろう。
ひとまず、指輪の件を気にしているらしい旦那様を気遣って、私は言った。
「あのことなら、まったく気にしていませんわ。もともと、思い入れのあるものではありませんでしたので」
実際、紛失するまでその存在を忘れていたくらいだし。
すると、旦那様が憤慨したように言った。
「……あれは!俺が初めてあなたに贈ったものだ!!」
その言葉に、私は目を見開いた。
……え?
そう……でしたっけ?
あの日──。
結婚式を終えて『愛人を別邸に住ませる』と旦那様が宣言した後。
私は、カーター家から持ってきた貴重品を全て実家に送り返したのだ。
以前の失敗は繰り返さない。
大切なものを置いておくと、盗られる可能性がある。
だから、手元には置かない。
結果、無くなっても問題ないものだけを残した。
エメラルドの指輪の紛失を聞いた時も、そんなに動揺しなかった。
そういえば、そんなものもあったな、とその時になって思い出した程である。
贈ってもらったのに存在そのものを忘れていたなど流石に言えない。失礼すぎるもの。
「確かに……そうだったような気がします。ですが、グレースさんは旦那様の恋人でしたし……」
言葉を濁す私に、旦那様が叫ぶ。
「恋人じゃない!あれは、演技だ!」
「……何を仰ってるんですか?」
グレースさんは、私を殺そうとして、身柄を拘束された。
その後、彼女がどうなったは知らない。
だけど、公爵夫人を殺害しようとしたのだ。
今までの生活には戻れないだろう。
彼女は、公爵邸から姿を消した。
旦那様も、その後彼女の話をしなかったし、私からも聞かなかったのだけど。
半目になって尋ねると、旦那様が慌てたように言った。
「俺はそもそも、グレースなんて愛していなかった!あれは……反抗期だ!」
…………はい?
私は、無表情になって沈黙した。
もはや、何といえばいいか分からない。
「だから、俺の初恋はあなただ。あなたがいれば、それでいい」
え、ええ~~~?
それはちょっと、都合が良すぎるし、今更過ぎませんか?
私は、顔が引き攣った。




