第四話 『烙印は消えず』
スカート姿でいる代わりに1000SPを残すか。
それとも、ズボンを履く代わりに1000SPを失うか。
アレンの中に迷いがなかったわけではない。だが結局、日中ずっとスカートの裾をひらひらとさせながら過ごすのがあまりに恐ろしく、アレンは泣く泣く後者を選択した。
「はぁ……」
レンガでできた塀の上で、アレンは足をぱたぱたとさせながら何度目になるかもわからないため息をつく。
こうして座ったまま足を動かして、下着が見える心配をせずによくなったのはいい。というか、そんな心配をしたくない。心底。
真に恐ろしいのは、あのスカートなどという殺人的な布を着用することに慣れてしまうことだ。
この低い視点にも慣れ、この鬱陶しい長い髪にも慣れ、この高い声にも、目の色にも、骨格の違いにも、用の足し方にも——
すべて慣れた時、そこにあるのは同じ人間と言えるのだろうか?
「……今考えるべきじゃないな。ナーバスになっちまう」
肉体は精神に作用しうる。
そのことをわかっていながらも、問題を先送りにするしか、今のアレンにはできない。
——ヘルプの項目も、あらかた読み終えた。
まだまだ足りていない情報は多いが、やるべきことは定まった。
アレンは塀を降り、最初の広場へと向かう。
(意識的に道を覚えるようにはしたが……気を抜くと迷ってしまうな)
この町、ひいては世界は『キメラ』と呼ばれつつあった。
すれ違った転移者からそう聞いたのだ。
なんでもこの町の、道が突然にちぎれたり、通りが妙な形でつながったり、建材が急に変わったりするのは、それぞれ別のゲームのマップの一部をつなぎ合わせているからだという話が、経験豊富なMMOプレイヤーを中心に出ていた。
ゆえに継ぎ接ぎ。
(言い得て妙だ。ここの道を歩いていると、まるで複雑な生物の体内に閉じ込められたような気分になる)
実際、こうしてゲームの世界に閉じ込められているのだから、そう間違いでもあるまい。
流石にこれだけの時間が経つと、広場から混乱は消え去っていた。
だが誰もいなくなったわけではなく、今度はいくつかの集団が点在する形で人が群がっていた。
「ギルドを立てるぞー! このゲームをクリアーするんだ!」
「ヘルプを読んでいない者はすぐに読め! 我々<太平騎士団>はまだまだ団員を募集中だ!」
「俺らのギルドのモットーは団員互助! 知ってるかおめぇら、宿をとるにもSPがいる。今日は初期値の1000SPがあるからいいが、そのうちからっけつになりゃあ野宿するしかなくなる! だから今から助け合え!」
そこは、ヘルプから『ギルド』というシステムの存在を知った者たちが、勧誘を行う場と化しているようだった。
アレンもヘルプから得られる情報は頭に入れている。
ギルドに入ればメンバー同士で通話機能が使えたり、位置を互いに確認できる。また、微々たるものだが毎日10SPのボーナスがもらえたり、ギルドハウスという専用の建物を持つこともできる。
創立には1000SPが必要なため、おそらく今は余裕ができるまでの仮創立といった形だと思われたが……。
(服を買うのにもたついたせいで出遅れたものの、もう町の外までモンスターを狩りに向かったギルドも多いみたいだが。まだ募集をやっているところもちらほらあるな)
ヘルプによれば、町の外の平野にはモンスターが湧く。それを狩ることでSPやレベルアップのための経験値を獲得できるはずだった。
そもそも、機能的なことをすべて抜きにしても、右も左もわからないようなゲーム世界だ。ヘルプの情報もあまりに乏しい。
相身互い。ギルドに所属し、突然こんな場所に巻き込まれた転移者同士、助け合うのがもっとも賢い選択だろう。
そのためにアレンもここへ来た。
「——? ずいぶん小さな子どもだな……君も巻き込まれた転移者なのか?」
広場に入ってすぐ話しかけられる。
スカートであろうがなかろうが、アレンの容姿はとにかく目立つ。アレンが振り向くと、そこには背の高い、細身の男性が立っていた。
アレンより色の暗い金髪に、柔和な眼差しをした、線の細い優男。頭の上には、『Raven』と白い文字でID表示がされていた。
向こうもアレンのIDを視認したのか、その目線がやや上に泳ぐ。
「Aren——アレン? 私はレーヴン、<和平の会>というギルドを立ち上げた。既にメンバーは上限の三十人に達しているから、君を加入させることはできないが……」
「見た目はこんなになっちまったが、これでもハタチの男だ。気に病まないでくれ」
「なんだって? 本当かい?」
「ああ。もしかすると、オバストってFPSをやってたら聞いたことがあるかもしれない。元プロゲーマーのアレンだ」
「アレン……」
どうやらレーヴンには心当たりはなかったらしく、数度目をしばたたかせる。
日本一にまで手が届きかけたプレイヤーと言えど、しょせんは、オーバーストライクという狭いタイトルの中だけの名前だ。知らない人からすればこの程度の知名度ということだろう。
それならそれでいい。アレンはそれよりも、ギルドメンバーを既に三十人集めきっているというレーヴンの手腕に感心し、それについて詳しく訊こうとする。
だが、二人の会話に聞き耳を立てていたのか、横から別の者が口を挟んだ。
「アレンさんって——もしかして、デタミネーションの!?」
「ん……ああ、そうだけど」
「プロゲーマーの……FPSのプロが、ゼタスケール・オンラインを始めてたんですか? キメラに来てたなんて!」
「お、おい。あんまり騒がないでくれるか」
横から現れたのは黒髪の若い男で、アレンのことも知っているらしく、にわかに興奮した様子でまくし立ててくる。
ひょっとすると彼自身は、純粋にアレンのファンだったのかもしれない。
だが不幸なことに、そうでない者——インターネットの世論に影響を受け、バイアスのかかった見方をするようになってしまった者も近くにいた。
「アレンって、チーターの?」
誰かが、その悪評を口にする。
「——!」
FPSに限らず。ゲーマーであれば、その行いがどれほどの罪かを知っている。
だからこそ、その一言は水面に波紋が広がるように、広場の喧騒に不気味なほどあっさりと染み込んだ。
誰もが会話を中断し、アレンの方を見る。
「チーター? 知ってるか?」
「アレンって言えば……ネット記事で見たぞ。確か、まだ当時二十歳手前のプロゲーマーで……プレイ視点の映像がリークされて、それでチートがバレてチームを追放された男だ」
「ええっ? ヤベーやつじゃん!」
「男? 見た目はかわいい女の子だけど? まだ小学生くらいにしか見えないよ」
「それっておかしいだろ、怪しくないか? しかもなんだか、キメラに飛ばされる前の、白い部屋の子どもにも似てるっていうか……」
ひそひそと、距離を開けて噂話に晒される。探るような、蔑むような、怪しむようないくつもの声と視線。
チート行為が嫌われるのはどのゲームのコミュニティでも同じだ。オンラインゲームにおける公平性を損ない、純粋な競争をくだらない茶番に変える、周囲の支援や期待のすべてに対する最も醜悪な裏切り。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、アレンさんはチートなんて……あれはただの噂で」
「あれ以来どのチームも取らなかったくせに。クロって証拠だろ」
「っ、誰ですか今言ったのは……!」
アレンに話しかけてきた若い男が、声を荒らげて抗議しようとする。アレンはそれを手で制した。
「な、なんで止めるんですかッ」
「意味がないからだ」
「え……?」
燃え盛る炎を、バケツ一杯の水では消しきれないように。推定の波をせき止めることがどれだけ難しいか、アレンはこの一年で誰よりも深く思い知っていた。
疑わしきは罰せずというのは、あくまで直接的な話でしかない。間接的な私刑には晒されるし、リスクを嫌うまっとうなチーム・企業であればわざわざ火中の栗に手は伸ばさない。
——チートって、確か犯罪だよね? ヤバいでしょチーターなんて。
——あんなのと同じギルドにいたら、なにされるかわかったもんじゃないぞ。
——しかもロリだし。ゲームと裏でつながってるんじゃないか?
——怪しいロリだ。
——もう幼女は信用できない。
既に広場は、その隅にまで疑惑の根が張っていた。
噂が噂を呼び、証拠もなしにアレンを見る目が険しくなっていく。
この一年、インターネットで向けられてきたものと同じだ。その画面越しの偏見や先入観が、ついに目の前にまで現れてきた。
それはアレンにとって、悪夢の具現に等しい。
「……っ」
蔑視。悪意。嫌悪。
遠慮のない視線が突き刺さり、アレンは思わずうめきそうになるのをこらえた。
胸の奥で、きゅうとなにかが縮むような痛みを発する。
(俺はやってない! チートなんか使うもんかよ!)
そう主張することがどれだけ虚しいか。どれほど無意味か。
反論は炎の勢いを強くするだけだ。諦めとともに、そう悟ったのが一年前。
ギルドに入るのは諦めるほかない。アレンは広場に背を向け、無言でその場を去ることを選んだ。
「アレンさんっ」
男がそれを止めようと腕を伸ばす。が、思いとどまったかのように、アレンの肩に触れる直前でその手を止めた。
(そうだ……それでいい)
下手に庇えば、巻き添えを食らうだけだ。
声を掛けてきたこの男性にも、それに<和平の会>なるギルドを受け持つレーヴンにも、迷惑はかけられない。
広場から逃れるように去るアレンの耳に、陰口じみた言葉がいくつも届く。中には罵倒とまで取れるものさえあった。
悔しさに歯噛みし、握り込んだ拳の爪を手のひらに食い込ませながら、アレンは歩いていく。
「——『正義の尺度は、声の多数ではない』」
広場を出る直前。最後に届いた声だけは、侮蔑や嫌厭のそれではなく、どこか背を押す激励のように聞こえた。