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短編まとめ【商業化未作品】

先生

作者: 瑠璃川あやね

夕凪(ゆうなぎ)先生、これが先生が担当するクラスの名簿です」

「ありがとうございます」

「今年の新入生は大物揃いですよ! 日本を代表する陰陽師の子孫から、海外で名を馳せるエクソシストの子供まで」

「そうですか……」


 受け取った名簿を眺めるのは、見た目は三十代前半くらいの若者。

 上下は胸元に有名ブランドのロゴが金糸で刺繍された黒ジャージ、足元は黒と白のスニーカー。

 襟首まで伸びたボサボサの茶髪、教師という仕事柄、髭だけは毎日剃っていた。


「今年度、先生には新入生を担当していただきたいと思います。

 新入生の中でも、特に優秀な生徒を集めたクラスを担当して頂きたいのです」

「なんで、教師歴四年目の俺がそんなクラスを……」

「なんと言っても、先生は引退したとはいえ、かの有名な退魔師・夕凪善弥(ぜんや)

 先生に比肩する実力を持った教師は、学内にいません!!

 ましてや、今回の入学生は実力のある優等生揃い。そんな彼らを真っ当な退魔師に育てられる教師は学内にそう多くない!」


 暗に真っ当な退魔師に育てられないと言われた、他の教師たちからの冷たい視線に気づかず、教頭は興奮気味に話し続ける。


「優秀な力を持った学生は、実力を持て余しがち。

 そこで、夕凪先生が実力を持って、教え子を導くという訳です!」

「俺以外にも実力があって、教師歴の長い教員は沢山いますよ。

 例えば、この学校の俺以外の先生方とか」


 数人が頷いた姿が視界の隅に写る。

 実際、この学校の教師陣の最年少で教師歴が最も浅いのは善弥だ。


「そんな事を言わないでください! 他の先生方も、当然、それぞれ実力揃いですが、夕凪先生には、夕凪先生だけの良さがあって……」

「はいはい」


 いつもの長話に入りそうになって、適当に相槌を打つ。

 名簿を眺めると、どこかで聞いたことがあるような名字が続いた。

 その中に紛れるように、一人の名前に目が吸い寄せられる。


(ひいらぎ)ひめ……」

「どうしましたか、先生?」

「いえ、何でもありません」


 新入生を受け持つ他の教師に名簿を配りに行く教頭に、「一服してきます」と断って、職員室を出る。

 教師の特権で、普段は立ち入り禁止にしている屋上にやって来る。

 眼下の校庭からは、部活動中の運動部の掛け声が聞こえていた。

 善弥は転落防止の金網に寄り掛かると、タバコを咥えたのだった。


 火をつけて紫煙を燻らせると、タバコを口から離して息を吐き出す。

 春風に乗って遠くに流れていく紫煙をじっと見つめていると、いつしか、ヤニ臭い紫煙が、九年前の線香と重なってくる。


 耳の奥では、僧侶が唱える無機質な念仏と、若くして命を落とした退魔師の死を嘆く声がこだましていた。

 目を閉じれば、脳裏には、白木の棺の中で穏やかな表情を浮かべる母親の棺を前に泣き叫ぶ少女の姿が浮かんできた。

 そんな少女と棺の中で眠る友人を前に、呆然と立ち尽くす善弥の姿までもが、思い起こされたのだった。


 九年前ーー柊智恵(ともえ)の葬儀の日を。


「うそつき!」


 いつもなら、力のない七歳の少女に何度殴られても、善弥は平然としているだろう。

 それどころか、得意げに笑って仕返しさえする。

 けれども、この時ばかりは、力ない少女の拳が何よりも痛かった。

 少女の悲痛な声に責められる度に、ナイフで切られたような痛みが善弥の心に走ったのだった。


「うそつき! うそつき……! おじさんのうそつき! なんで……なんで、ママをたすけてくれなかったの!?」

「ひめちゃん……」

「おじさんがぜったいにたすけるって、やくそくしたのに……! おじさんのうそつき! うそつき……」


 制止する老婆ーー少女の祖母だ。の声も聞かずに、少女はただただ善弥を恨む呪いの言葉を延々と繰り返していた。

 棺の中で眠る母親とそっくりな顔立ちをした少女は、泣き叫びながら善弥の下腹部をずっと殴っていたのだった。


「ひめちゃん、その……」

「おじさんなんてだいっきらい! あっちいって!」


 そう叫んで出て行った少女を、老婆は追いかけようとする。

 その前に善弥を振り返ると、老婆は申し訳なさそうに頭を下げたのだった。


「ごめんなさいね。善弥くん。わざわざ仕事の合間を縫って来てくれたのに……」

「いいえ。あの、智恵……さんのことは……」

「いいのよ。私だって、いつかこんな日が来るだろうと覚悟していたもの。あの子が父親の跡を継いで、退魔師になった時からずっとね」

「俺が現場に間に合っていれば、智恵は……」

「そんなこと言わないで。善弥くんが間に合っていたら、今頃、善弥くんも死んでいたかもしれないわ。

 今のひめちゃんは、智恵が亡くなったことを認められないだけなの。

 落ち着いたらまた会いに来てね」


 老婆は早口で言うと、少女ーーひめを追いかけて、部屋をあとにしたのだった。


 その場には、呆然と立ち尽くす善弥と、どうしたらいいかわからず戸惑う葬儀の参列者、この状況の中でも経を唱え続ける僧侶だけが残っていた。


 ふらふらと棺に近づいていくと、その中には死装束を着た若い女性ーー智恵が眠る様に入っていた。


「ごめん……ごめん……智恵……ごめん……」


 謝ったからといって、故人が許すわけがない。

 それでも、善弥は謝らなければならなかった。


 智恵とひめーー親子を引き裂いたのは、他ならぬ自分なのだから。


 その場に膝をついて、痛哭する善弥の声は、無機質な念仏に紛れて、他の参列者には聞こえなかっただろう。

 誰にも聞かれない謝罪の言葉は、泡のように念仏の中に消えていったのだった。


 夕凪善弥と柊智恵は、共に妖を退治する退魔師であった。

 同じ退魔師の養成学校に入学して、学生時代はバディを組んでいた。


 智恵が誰の間に出来たかわからぬ子供――ひめを産んだことでバディは解消され、お互いにソロの退魔師として活動することになったが、それでも智恵に呼ばれては、足繁く二人に会いに行っていた。


 不摂生な生活を繰り返す善弥を気にして、ひめの遊び相手を理由に、よく彼女の実家に呼び出されては、智恵特製の鍋料理を食べさせられたものだった。

 料理全般が苦手な智恵だったが、鍋料理だけは得意だった。

 明らかに冷蔵庫の中にあった余り物で作ったと思しき鍋料理を囲んで、善弥と、智恵と、ひめと、三人で鍋料理を囲むあの時間が、何よりも至福の時間だった。


 好き嫌いの多いひめと、偏食な善弥を、毎回、智恵があの手この手で食べさせてきた。

 残せば怒られるからと、善弥は嫌々食べていたが、それのおかげで食べられる食材が増えたのは確かだった。

 好き嫌いの多いひめを、智恵と二人がかりで食べさせた後は、ひめの遊び相手になった。

 ひめが幼い頃はおもちゃで遊び、小学生になってからは勉強を見てあげたこともあった。


 この時間がずっと続けばいいと、あの頃は思っていた。

 三人だけの幸せな時間が続けばいいとーー。


 ひめが七歳の時、退魔師として依頼を受けた先で、智恵は妖に負わされた怪我が原因で失血死した。


 低級妖だけと聞いて、軽装備で向かったのが仇となった。

 低級妖だけなら、善弥や智恵ではなくとも、善弥が教師を務める退魔師の学校の教え子たちでも、充分、祓えるだろう。


 それなのに、なぜかその依頼が、一人前の退魔師である智恵にきた。

 智恵に依頼がきた時に、善弥自身もおかしいと気づくべきだった。

 そうすれば、智恵を一人で現場に向かわせなかっただろう。


 依頼を受けて向かった現場にいた妖は低級だった。

 けれども、そこに上級妖までがやって来た。

 その上級妖というのが、退魔師の間でも噂になっていた幾人もの人間を喰らっていた妖であった。


 人を喰らった上級妖は、普通の上級妖より力を持っている。

 人の生命力を吸収して、それを自らの糧として力をつける。

 そんな上級妖を、並の退魔師が一人で退治出来るわけがなかった。


 当然、智恵は応援を呼んで、現場から遁走した。

 応援を受けて、現場近くにいた退魔師が駆けつけていたが、それでも上級妖の方が強かった。

 退魔師を喰らった妖は、更に力を増して、ますます力をつけた。

 普通の人よりも、退魔師の方が生命力が高く、退魔師を喰らった妖を倒すのは、一流の退魔師でなければ困難と言われていた。


 善弥は一流の退魔師ではなかったが、それに匹敵する力を持っていると周囲に言われていた。

 智恵の応援要請と上級妖の話を聞いた時、たまたま善弥は応援に駆り出されて、遠くに行っていた。

 自分の案件を片付けて、慌てて駆けつけた時には、既に上級妖は他の一流退魔師に倒されていた。

 現場には、血みどろになった多くの退魔師の死体が並び、遺体の搬出作業が行われていた。

 そうして、重傷者が寝かされていた場所の中にーーかつてのバディがいたのだった。


 虫の息であった智恵の元に向かい、いくつか言葉を交わした後に、こう言われたのだった。


「善弥。ひめをーー娘を頼むわね……」


 それが、柊智恵の最期の言葉となった。

 智恵は病院に搬送されたが、治療の甲斐もなく、そのまま息を引き取ったのだった。


「そっか……。もう、ひめちゃんは十六歳になったのか……」


 短くなったタバコを携帯用灰皿に入れると、善弥は独り言ちた。


 智恵の葬儀の後、善弥は一度もひめに会っていなかった。

 ひめに「きらい」と言われたのもショックだったが、それよりもどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。


 智恵の母親ーーひめの祖母は、善弥が悪くないと言っていたが、善弥自身はそうは思えなかった。


 あの日、善弥が智恵が待つ現場に間に合っていれば、智恵を始めとする大勢の退魔師を救えたんじゃないか。

 ひめも母親を失わずに済んだのではないかと。


 そんな自問自答を繰り返す内に、退魔師であり続ける自信がなくなってきた。

 善弥は退魔師を引退すると、教員免許を取得した。

 そうして、退魔師を要請する学校の教員となったのだった。


「早いな。時間の流れは」


 時間が止まっているのは、あの日、元バディを救えなかった善弥だけで、世間も、人も、何もかもが前に進んでいる。

 それなら、善弥もひめに会って前に進むべきなのだろう。

 いつまでも、あの日のまま、立ち止まっているわけにはいかないのだからーー。


 音を立てて金網から背を離すと、屋上から立ち去る。

 階段を降りて、職員室へと向かう途中、向かいから歩いてきた教頭に声を掛けられた。


「夕凪先生、先程お渡しした名簿に変更がありました。机の上に新しい名簿をお渡ししたので、差し替えをお願いします」


 そのまま、トイレに入って行った教頭と別れて職員室に入ると、机の上には一枚の用紙が裏返しで置かれていた。


(どこが変わったんだ……?)


 用紙を捲って、新しい名簿と古い名簿を見比べていた善弥は、ハッとして目を見開いた。

 職員室の入り口を振り返ると、丁度、トイレから戻ってきた教頭が視界に入ったのだった。


「教頭先生!」


 二つの名簿を持って、ズカズカと歩み寄った善弥に、ハンカチで手を拭きながら入って来た教頭は及び腰になっていた。


「ど、どうしましたか……? 夕凪先生!」

「名簿から『柊ひめ』の名前が消えています! どういうことですか!?」


 机の上に置かれていた新しい名簿からは、柊ひめの名前だけが消えていた。

 善弥の剣幕に負けていた教頭だったが、ひめの名前を聞いて「ああ!」と思い出したようだった。


「『柊ひめ』ですが、期日までに必要な書類を用意出来ませんでした。よって、入学を認められませんでした」

「必要な書類?」

「後見人の保護者、または身元引受人による同意書です」


 常に危険が伴う退魔師には、後見人となる保護者か、または身元引受人による同意書が必要であった。

 同意書には、退魔師の仕事中に、万が一、怪我を負った際や、死亡した際に、その身元を引き受け、一切の責任を学校に問わないという内容が書かれていた。


 毎年、退魔師を目指す学生は多いが、その内の数十人は学生中に死亡や大怪我を負ってしまう。

 退魔師になれないまま、この学校を卒業する。

 特に、最後の卒業試験の妖退治では、多くの脱落者を出してしまう。

 善弥が学校を卒業した年は、智恵を始めとして、学年の半数以下しか残らなかった。

 他は大怪我を負って退魔師を諦めたかーー卒業試験で死亡したかであった。

 その際にも、同意書によって、学校は一切の責任を負わなかったはずだ。


「『柊ひめ』には、両親はいませんが、祖母がいたはずです。その祖母のサインでは駄目なんですか!?」

「その『柊ひめ』の祖母ですが、三年前に亡くなったそうです」

「なんだと……」

「唯一の家族だった祖母を亡くした後、『柊ひめ』は親戚中をたらい回しにされたそうですね。この学校の受験は、親戚にも内緒で受けたそうです」

「と、いうことは……」

「書類の提出期日までに、親戚の誰からも同意書のサインを貰えなかった『柊ひめ』は、入学を認められません。それだけです」


 その時、職員室の内線電話が鳴った。

 他の教員が電話に出ると、すぐに「教頭先生」と声を掛けてくる。


「一階の事務室から電話です。来年度の入学予定者だった方が、学校の対応に不満があって訴えに来ていると」

「名前は?」

「柊ひめ、と名乗ったそうです」


 教頭が静止する声より先に、善弥は職員室を飛び出す。

 階段を駆け降りると、事務室へと走る。

 事務室の窓口には、一人の少女が叫んでいたところだった。


「納得がいきません! 同意書のサインが無いから入学できないなんて!」

「しかし、そういう決まりなので……」

「退魔師の中には、孤児だっています。その人たちは退魔師になれたのに、わたしは退魔師になれないなんておかしいです!」

「ですが、同意書が無ければ入学は……」

「別に同意書のサインは、保護者じゃなくてもいいんですよね? 要は学生の身に何かあった時に、身元を引き取ってくれるなら、誰でも……。

 それなら、この学校の教職員の誰かがサインしてくれればいいんじゃないんですか!?」

「ひめちゃん!」


 そのまま、言い争いが続きそうだったので、善弥は声を掛ける。

 すると、少女は振り返ると瞬きを繰り返したのだった。


「あなたは……」

「覚えてる? 俺だよ。子供の頃に、よく会っていたよね」


 さらさらのセミロングの黒髪に、母親と同じ黒の猫目をした少女は、善弥に近づいて来ると手を上げた。

 そうして、善弥の左頬を叩いたのだった。


「うそつき! ずっとずっと待っていたのに、何で来てくれなかったんですか!?」

「何でって、それはひめちゃんが嫌いって、言ったからで……」

「そんなことは言っていません! わたしはずっとずっと待っていたんです。また遊びに来るからって、まだママが生きていた頃に、言って……」


 最後の方は涙声になって、尻すぼみになっていった。

 涙を隠すように俯いていたひめだったが、すぐに顔を上げると善弥を睨みつけてきたのだった。


「だから、ママが死んだ時も、おばあちゃんが死んだ時も、おじさんが来てくれるんじゃないかって、わたしを迎えに来てくれるんじゃないかって、ずっと待っていたんです……!

 それなのに、あなたは来てくれなかった。

 親戚中をたらい回しにされている間も、ママのような退魔師になりたくて、この学校に入学するための準備をする間もずっと……」

「ごめん。ひめちゃん。ひめちゃんが待っていたことを忘れてて……」


 叩かれた頬がじんじんと痛んだが、目の前の痛々しい少女を前に、痛む余裕すらなかった。

 ひめにどう声を掛ければいいか迷っていると、事務室から出て来た女性職員に名前を呼ばれた。


「夕凪先生、話しは終わりましたか? 教頭先生から、早く彼女を追い返すように言われているんですが……」

「待って下さい! 結局、わたしは入学出来ないんですか!?」

「はい。同意書が無いので……」

「そんな……」


 落胆したひめの肩を軽く叩くと、善弥は女性職員に向き直る。


「と、いうことは、同意書があれば、ひめちゃんは……彼女は入学出来るんですね?」

「はい、まあ……」

「ひめちゃん、同意書は持ってる?」

「持ってます。確か、鞄の中に」


 事務室の前に放置されていた学生向けの通学鞄からひめが同意書を取り出すと、善弥はそれを受け取った。

 窓口から勝手に備え付けのボールペンを拝借すると、サラサラと達筆で書いたのだった。


「はい。これなら問題ないでしょ」


 自分の名前を書いた同意書を差し出すと、女性職員は「はい……」と、小さい頷いた。


「ですが、既に書類の提出期日は過ぎてしまったので、校長先生に確認を取らないと、なんとも……」

「じゃあ、そっちはよろしく。おいで、ひめちゃん。外まで送ってくよ」


 呆気にとられていたひめだったが、善弥が先に歩き出すと、女性職員に頭を下げてついて来た。

 職員用玄関で上履きから靴に履き替えていると、先に履き替えたひめが、深々と頭を下げてきたのだった。


「あ、ありがとうございました。同意書にサインしていただいて」

「いいって。智恵……お母さんみたいな退魔師になりたいんでしょ」

「はい。ママと、おじさんみたいな退魔師になりたいので……」


 まさか自分の名前が出てくるとは思わず、善弥は顔を逸らすと「そろそろ行くよ」と声を掛けて、先に外に出る。

 追いかけてきたひめは隣に並んでくると、今度は謝罪の言葉を口にしてきたのだった。


「先程はすみません。顔を叩いてしまって……。でも、ずっと待っていたのは本当なんです。おじさんを嫌いなんて言ってないのも……」

「覚えてないの? お母さんの葬儀の時に、俺にそう言ったでしょう?」

「えっ!? そうだったんですか……。すみません。実はママの葬儀の時の記憶がほとんど残っていなくて……」


 ひめの話しによると、葬儀の次の日、火葬場に行った時に、高熱を出して倒れてしまったらしい。

 それが原因なのか、葬儀の前後の記憶が曖昧で、善弥に言ったことも、何も覚えていないそうだ。


 それを聞いた時、善弥は脱力したのだった。


「そっか……。気にしてたのは、俺だけだったんだ」

「すみません。おじさんにそんなことを言っていたなんて……」

「いや。いいんだよ。ひめちゃんは何も悪くない」


 そう話している内に、二人は校門前に辿り着く。

 校門の側には、まだ蕾の桜の木が植えられていたのだった。


「じゃあ、俺はここで。仕事に戻らないと」

「あの、ありがとうございました。同意書にサインもしていただいて」

「いいって。それより、今はどこに住んでいるの? 親戚中をたらい回しにされているって聞いたけど……」

「おばあちゃんの遠縁の家です。でも、学校からは遠いので、この近くで一人暮らしをしようかと……」

「一人暮らしのあてはあるの?」

「これから探します。貯金も僅かですが、ママやおばあちゃんが残してくれたので」


 善弥は肩を竦めた。

 こんな幼気(いたいけ)な元バディの娘を一人暮らしさせるのは心配だった。


「それなら、うちに住む? それなら、この学校から近いし、お金の心配もしなくていい」

「ですが、それではおじさんが……」

「俺は気にしなくていいから。退魔師の頃から貯めていた貯金がたんまりあることだし。

 その代わり、ひめちゃんが家事をやってくれればいいから。俺、こう見えて家事とかめんどくさがるタイプだし」

「いいんですか? それだけで……」

「うん。ああ、それと、ひめちゃんが俺のことを『先生』って呼んでくれるならね。

 さすがに、この歳でおじさんはキツいな」


 わざとらしく落ち込んだ振りをすると、ひめはクスクスと笑ったのだった。


「わかりました。それなら、お言葉に甘えてお世話になります。『先生』」

「引っ越す時に連絡して。『先生』が迎えに行くからさ」


 そうして、嬉しそうに手を振りながら去って行ったひめを見送ると、職員室に戻る。

 職員室に入るなり、すぐに教頭先生が駆け寄って来たのだった。


「夕凪先生、先程、お渡しした名簿ですが……」

「わかっています。差し替えればいいんですよね」


 自席に戻るなり、善弥は机の上に置かれたままの名簿を手に取る。

 職員室の片隅にあるシュレッダーに近づくと、その中に名簿を入れた。

「柊ひめ」の名前が入っていない名簿は、音を立てながら細かく刻まれると、紙屑へと変わっていったのだった。


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