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修行に出ます。探さないでください

 その日は仕事で急に入ったクレームの対応にかかりきりだったので、きっと心身ともにまいっていたのだろう。だからあんな夢なんて見てしまったんだ。


 私の住むアパートは築50年程の、年季が入った古臭い建物だった。

 部屋も全室が畳張りで、隣の部屋との壁は薄く、住民は隣同士お互い耳で相手の生活を把握しているくらいだ。

 しかし都会へのアクセスが良い場にあることと格安の賃料に魅せられた私は、初めの方に一度離れたことはあるものの、結局戻ってこさせてもらい、かれこれここに根付いてからすでに5年目に差し掛かろうとしていた。

 

 壁は薄いが住民たちは物静かな人ばかりで、幸い今までこれといったトラブルが起きたことはなかった。



「はぁ……」


 仕事から帰った私が部屋の扉を開けると、むわっとした生ぬるい空気が迎えてくれた。急いで中へ入り空調のリモコンを手に取り冷房をつけた。

 まだ時期的には本格的な夏ではないのに、すでに冷房がないと耐えられない。別に私が極端に暑さに弱いわけではない。全ては温暖化のせいだ。

 部屋を冷ましている間に軽くシャワーを浴びた私は、まだ髪から水滴が滴る状態で冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


 プルタブをゆっくりと押し上げる。

 ぷしゅ、っと気持ちの良い音が聞こえ、自分の体の中に溜まっていた緊張も一緒に抜けたような気がした。


 下着を身につけただけの姿で床に直接座り込み、帰り道のスーパーで買ってきた惣菜を口にしながらちびちびと缶の中身を啜った。それを繰り返すと当たり前だが缶は空になってしまい。もう一本開けるか思案するが、つまむものもそう多く残ってはいない。それならば食事はここまでにしてさっさと寝てしまおうと結論に至った。


 幸い明日は休日だ。独り身なので誰にも気を使わず昼過ぎまで寝てしまえる。

 食事をしていた机を端に寄せ、押し入れの中から布団を取り出し床に敷く。

 そして部屋の中を暗くすると静かに布団の上に体を横たわらせ目を閉じた。



 しばらくするとこのアパートの階段をゆっくりと上る足音が聞こえてきた。その人物は私の住んでいる方向へ向かってくる。そしてピタリと足をとめ、鍵を開けてそのまま隣の部屋へと入っていった。


 隣の部屋には1年と少し前から男子大学生が住んでおり、最近夜のバイトをはじめたようだ。直接話はしたことないが姿は知っており、一度駅前の居酒屋でホールに立っているのを見かけたことがあった。


『ふぅ……』


 薄い壁は彼の少しのため息も通した。その彼もここの壁の薄さは承知のためその後は極力静かに過ごしていた。

 壁越しから聞こえる生活音に眠れないなんてことはなく、むしろそれを子守唄代わりに、段々と眠気が訪れてきた。

 音が遠くなる――。気がついた時には、私はぐっすりと眠っていた。



 どれくらい経った頃だろうか?

 体が重い。それに先ほどまで仰向けに寝ていたはずだが、なぜか頬から滑らかで冷たい感触がした。


『「立て。早く立ち上がれ」』


 どこからか急に大きな声が聴こえてきた。それは天から降ってきているような感じもした。


(早く立たなければ)


 なぜか焦りを感じた私は、体に力を入れなんとか立ちあがろうと試みる。

 しかし力を入れれば入れるほど体は地面に押し付けられ、どうしても立ち上がることができなかった。


『「貴様、命令が聞けないのか!」』


 声の主が苛立ちを隠しもせず怒鳴りつけてくる。その声は拡声器やラジオなど、機械を通したような声だった。知らない男の声のはずなのに、それはひどく懐かしく、そして声を聞くたびに焦燥感に駆られ、体に力が入った。


(早く、早くしないと……!)


 冷や汗を垂らしながらもう一度起きあがろうとするが、やはりまたもや見えない力に押しつけられた。


 ここでようやく私はこれが夢だということに気がついた。そう考えると気持ちもだいぶ落ち着き、すぐに起き上がることは諦め、周りを観察することにした。


 押しつけられている地面には小さな石が敷かれていた。滑らかでつるつるした石のお陰か、突き刺さり痛いということはなかった。

 斜め上の視界の隅には何か建物が見えた。朱色が入った立派な門のような造りに見覚えがないはずなのに私はそれを“寺”だと認識した。


『「立てぬのならその先はないぞ」』


 ああ、そうだ、


(立たないと。私は修行中なのだった) 

 

 そんなこともできないのかと、出来損ないのレッテルを貼られてしまう。まずは立つことに集中しないと。


 

 集中するために深く深呼吸をした時、急に目が覚めた。


「逃げるな」


 耳に直接聞こえてきた男の声に体中がぞわりとした。


「はぁっ、はぁっ」


 自分以外の声を拾わないようあえて息を荒立てた。明かりは天井についてある電気の紐を引っ張らないといけず、立ち上がる勇気が出ない私はしばらく暗闇の中、落ち着くまで自分の呼吸音だけを聞いていた。


 ようやくもう声は聞こえてこないとわかり、立ち上がって電気をつけた。そしてゆっくりと周りを見回す。ちゃんと今まで共に過ごしてきた馴染みのある賃貸アパートの部屋の中だったので、私は静かに安堵した。


 きっと体に疲労が溜まっていて、石のように固まっていたからあのような夢を見たのだろう。


 しかし目を覚ました後に聞こえてきた声を思い出し、再び体に鳥肌が立つ。あの声が聞こえるまでが夢だったのだ。目を覚ましたというところもまだ夢だったのだ。言い聞かせながらしかしその気味の悪さに、とうとう私はその後一睡もすることができなかった。


*****

 

『はぁっ、はぁっ』

 

 その声は深夜にはっきりと聞こえてきた。


 バイトから帰ってきたおれは、軽くシャワーを浴びた後、疲労からか気がついたら布団の上に横になって眠りについていた。


 しかし男の荒い息遣いが突然耳に入ってきて目が覚めてしまったというわけだ。

 俺の住むアパートは住民のおれが言うのもなんだがボロアパートで、隣との壁がとてつもなく薄い。ただ幸いここの住民たちはトラブルを嫌い、皆ひっそりと暮らしているため、騒音による不快な思いをしたことはなかった。


 隣の住民の声も今初めて聞いたくらいだった。大学生のおれとは生活リズムが合わないのか、隣の住民の姿をおれは知らない。

 先ほどの息遣いを思い出し、眠気でまだはっきりとしない頭の中で男性だったんだ、とぼんやり思った。


 だがぼんやりと考えるうちにもしかして急病で苦しんでいるのではないかと不安になった。様子を窺うため耳をそば立てる。すると荒かった息遣いは段々と落ち着いていき、静かになったので大丈夫なのだろうと決めつけることにした。


 隣に住んではいるが深夜に見知らぬ人の家を訪ねることに、抵抗があったからだ。それにおれも居酒屋のホールのバイトで数時間前まで働き詰めだったせいで、今すぐにでも二度寝ができそうなくらいの状態だ。立ち上がることはできない。


『……早……ハ……エダ』


 静かになったと思ったら隣人が今度はラジオを聴き出したのか? 機械を通したような声は途切れたりノイズが酷かったりと、何の番組を聴いているのかはわからないが、その音が気になってしまい苛立ちが募った。


『ガレ……ハ……エダ……』


 隣の人は今までこのように深夜ラジオを聴く人ではなかったのに……それに聴くならヘッドフォンでもしてくれよと思った。


 突然のその無神経さにおれは呆れつつ、明日大家さんに相談してみようと両耳に手をあて無理やり音を遮断した。


 

 朝起きると、流石にラジオの音は聞こえてこなかった。しかしあれから結構な時間流されていたため、おれは完全に寝不足だった。

 まだ寝ぼけている頭を起こしつつ、身だしなみを整えたおれは大家さんの住む家へ向かった。

 大学の講義は昼からなので、時間には余裕がある。


「あら、どうかされました?」


 大家さん夫婦はこのアパートの隣にある一軒家に住んでいて、おれが訪ねると旦那さんの方が出てきてくれた。

 2人とも優しい人たちで普段から学生のおれを気にかけてくれて交流があった。そのため何も考えずに来てしまったが、冷静に考えると昨日の数時間だけの出来事を話にきたことへ気まずさを感じた。


「アパートで何かありましたか? ゆっくりでいいですよ」


 言い淀むおれに大家さんは急かすことなく優しく問いかけてくれた。その様子に安心して、おれは正直に話してみることにした。 


「あの……おれの隣の……あ、角部屋の人のことなんですけど」


 そう言った瞬間、先ほどまで優しい笑みを浮かべていた大家さんが、ぽかんと呆気に取られたような表情を見せた。


「角部屋は今誰も住んでいませんよ?」

「え……? でもおれが入った頃からずっと生活音が聞こえてましたけど……」


 2人で顔を見合わせる。

 一体どういうことなのか?


「それで昨日は深夜に隣の人がずっとラジオを聴いていたんです。いつもは静かな人だったのに急に夜中にそんなことをするものなので大家さんに相談してみようと思って」


 おれが言いたかったことを全て伝え終わると、大家さんはしばらく考え込むようにして、「少し待っていてください」と言って一度家の中へと入っていった。


 そしてすぐに戻ってきたその手には、見覚えのある鍵が握られていた。おれの持つアパートの鍵とそっくりだった。


「角部屋の鍵です。もし誰かが不法滞在しているのなら一大事ですので、今から確認してみます」

 

 そう言って玄関の扉を閉じながら「教えてくれてありがとう」とまた優しい口調でお礼を言われた。


「あの、おれこの後部屋に戻るつもりだったんで、一緒に確認してもいいですか?」

「え?」


 ついそんなことを言ってしまう。まぁ、大学に持って行くカバンは部屋に置いてあるので、戻るのは本当なのだが。もし誰かが勝手に住んでいて、大家さんに何かあったら嫌だと思った。


「いやでも危険ですし……」

「おれすぐ通報できるようにしておきます。1人より2人の方がこう言う時行動しやすいと思うんです」


 スマホを手に持ち軽く振りながらアピールすると、大家さんも眉を下げながら「じゃあお願いします」と承諾してくれた。どうやら大家さんはスマホを持ってはいるが電話の仕方も怪しいらしい。


 即席だが、角部屋突撃前に大家さんと打ち合わせをした。

 作戦の中身としてはこうだ。おれが帰ってきたと思わせて、大家さんの方が角部屋の前に立ち同時に鍵を開ける。そして扉の隙間からまず中の様子を確認し、そこで誰かがいたら、大家さんが無言でピースサインを作る。それを見たおれが静かに部屋から離れて警察に連絡する。その間大家さんはおれの部屋に避難。


 うまくいくかわからないが、やってみるしかなかった。


 大家さんを先頭に2人でアパートの階段を登る。そしておれはおれの部屋の前に、大家さんは角部屋の前に立ち止まると、互いに頷き合い、同時に鍵を開けた。


 大家さんは隙間から中を覗いた後、脱力した顔でおれに笑いかけた。


「よかった。誰もいないよ。念のため中を確認しよう」


 大家さんの許可を得て、おれも角部屋の中へ入った。むわっとした空気が体全体を覆う。部屋の中には家具も何もなく、生活感は全く感じられなかった。


「ガスも水道も使われていないし、夜な夜な誰かが侵入してることはなさそうだね」

「そんな……」


 安心した顔の大家さんとは反対に、おれは背筋がゾッとした。ここに住み始めて1年と少し経つが、ずっと隣は空室だったという。


 じゃあおれが聞いていた音は一体……。


「失礼を承知で聞きたいのですが、ここが事故物件だったということは」

「ないない! それだったら必ず君が入居する時に説明したし……ここに住んでいた人は君が来る前に退去を希望して出て行ったんだよ」


 大家さんからはおれを騙している空気は感じらなかった。しかし思い出すように前の住人について語り出した。


「そういえば退去の理由がちょっと不思議だったかな」

「え?」

「いや、40代の真面目なサラリーマンだったんだけどさ、退去理由を聞いたら


『修行に出る』


って、一言だけ。まぁちょうど契約更新の時期だったから了承したけど、修行って……僧侶にでもなるつもりだったのかなぁ」


 晴れない気分のまま大家さんにお礼を言うと「また何かあったら連絡して」と優しく言ってくれた。


 時間になったので大学に行き、一緒の講義をとっている友人たちに講義が終わった後にアパートのことを相談した。茶化されながらも心配してくれ少し気持ちが軽くなった。


 正直誰かの家に泊まらせてもらいたかったが、急なことなので迷惑がかかると思い切り出せなかった。泊まりに来てもらうことも、あの壁の薄くて狭い部屋では無理な話だ。


 夜はまたバイトで、帰ってきた頃には隣の部屋のことを考えたくないくらいヘトヘトになっていた。シャワーを浴びそのまま布団に寝転がる。

 気がついたらおれは眠っていた。


「立ち上がれ!」

 

 急に耳元で聞こえた声に、魚が水面から飛び出してきたかのように、自分の体はびくんと跳ね上がった。


 心臓がばくばくと早打つ。おれはゆっくりと深呼吸を繰り返した。


 少し落ち着いたので立ち上がり、電気をつけて周りを確認した。誰も入ってきた様子はない。


『……ダ……』


 隣の部屋からはまたラジオの音が漏れ出ていた。

 やはり誰か夜に侵入しているのだ。


『……次……』


 先ほどのリアルな声は夢の中でこのラジオからの声を耳が拾い上げてしまったせいに違いない。


 そう考えると段々怒りが込み上げてきて、おれはつい音の聞こえてくる壁を衝動的に殴りつけていた。


 しん――と静まり返る。隣からは人の動く気配は感じられなかったが、ラジオの音が消えほっと息を吐き出した。


 冷静になってくると、隣の侵入者が逆上しておれの部屋に突入してこないか不安になった。神経を研ぎ澄まし、些細な物音でも聞き取れるように息を潜めて集中する。しかしいくら待てども隣からは動く音も声も気配も感じることはなく、結局朝まで何も起きることはなかった。


 朝になりおれはまた大家さんの家を訪ねていた。昨日と同じく旦那さんの方が出てきて、おれを心配そうに見つめた。


 頭が重い。


「顔色が悪いけど、大丈夫かい? また隣の部屋から何か聞こえた?」 

「…………」

 

 大家さんの顔をぼうっと見つめながら、おれは何を言いにきたか考えた。そして思い出したように口を開いた。


「すみませんが、すぐに退去したいんです。違約金は支払いますから」


 大家さんは驚いていたが、すぐに眉を下げ申し訳ないという顔になった。


「違約金は大丈夫だよ。それよりすぐにって、どこか住むあてはあるのかい?」


 出ていくといったおれをすごく心配してくれていることがわかる。大家さんはとても良い人で、このアパートの住民は皆静かで居心地が良い。本当は出て行きたくないが、出て行かないといけない理由があった。


「修行しにいかないといけなくなって」 


 そう告げると大家さんは真顔になり体を震わせた。


「お世話になりました」


 おれはそのまま部屋へは戻らず、行き先もわからないまま歩き出した。

最後までお読みいただきありがとうございます。

全てフィクションですので、隣人トラブルの参考にはされないようお願いします!


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