第20話 親友の田中は親友の田中になった
「……ティアラの見えない壁が、消えました」
アリスの手の中で、願いを叶えるティアラがキラキラと輝いている。月光がステンドグラスを照らす、幻想的で美しい"約束の教会"というこの場所で。もうすぐ、エンディングが訪れようとしている。
『この場所に来ることで、ティアラの使用制限が解除された。あとは、願うだけだ』
「……大事な願いを唱えるこの役目、私が引き受けても宜しいのでしょうか」
アリスはティアラを眺めながら、不安そうに田中と俺に尋ねる。
ここから先は、俺たちが介入できない領域だ。酷ではあるが、全て彼女に任せることになる。
「……うん、君に託すよ」
『噂ではそのティアラは、"乙女の願いを何でもひとつ叶えるティアラ"らしいからな。中身が男の田中じゃ、上手くいかないと思う。だから、アリスちゃん。俺たちは君に全て委ねる。……田中、最後のフラグイベントだ。アリスちゃんにティアラを被せてやってくれ。そうすることで、全ての条件が整う』
田中は頷いて、アリスの頭の上にそっとティアラを乗せた。
アリスは神に祈りを捧げるように、ゆっくりと目をつぶって両の手を合わせる。
俺はそれと同時に現れた最後の選択肢、"願いを込める"にカーソルを合わせ、ボタンを押す。その瞬間、画面は大きく乱れてブラックアウトした。
やれることはやった。後は、奇跡を信じるだけだ。
本来クリアを迎えてエンディングが流れる筈の画面には、激しいノイズが走る。
しばらく待ってもゲーム機はザラザラと砂嵐のような画面を映し続けるのみで、二人がどうなったのか、中で何が起こっているのかは、こちらから観測することはできない。
『……あーあ、こりゃ失敗するかもな。アリスちゃんが、田中を離すと思えないし』
『いいえ、アリスは誰よりも強い娘よ。あの子はきっと、正しい選択をする』
俺たちには、見守ることしか出来ない。
あの世界の主、アリスの決断を。
♢♢♢♢♢
強い風が吹いている。砂嵐のような風は私と田中様を囲んで、その姿を曇らせる。
祈らなくては、願わなくては。
そう思っているのに、思考は散乱し、乱れ、まとまらない。
……ごめんなさい、田中様。ごめんなさい。
私には、願うことができない。
「……田中様、私にはできません。私は貴方を……貴方を帰したくないと、思ってしまっているのです……!このまま二人で、幸福に生きてゆけたらと……そう、願ってしまいそうになるのです…………!」
強い風が私の声を遮って、言葉を途切れ途切れに分断していく。
私のすぐ隣に居るはずの田中様の声も、ノイズが混じって私の耳に届く。
「……それが君の願いなら。僕は、受け入れるよ。それに、ティアラに願うのが僕だったら……きっとそうしてしまう。僕も君と同じ気持ちだ、本当は君と、離れたくない」
「田中様……!」
嬉しい。貴方が、この世界に居てくれるなら。
私はもう、一人じゃない。
永遠のようなこの世界で、私たちは。
きっと幸福に、生きていける。
そんな、夢のような甘美な空想が、私の頭の中を蝕む。
違う。違う。
それは私にとっての幸福。
……貴方にとっての幸福じゃない。
愛してる。愛してる。
だから私は、決断しなければならない。
「…………けれど私は、貴方をこの世界に留めるという残酷なことを、したくはないのです……!この世界は……貴方が生きるべき場所ではありません。この、魂の牢獄に…………終わりのなく、永遠に繰り返される、救いのない世界に。貴方を捕らえることなんて、私……!」
「……君となら、そんな地獄も。きっと幸福だと思えるよ」
田中様は微笑んで、私に優しい言葉をかける。
愛しい人。大好きな人。
貴方はいつだって、私の欲しい言葉をくれる。
貴方が欲しい。貴方の全てが欲しい。
ああ、あの世界に蔓延る仄暗い魔、あれはきっと私自身。
私は、貴方を救いたいと思う一方で。
貴方を壊してでもこの世界に留めようと、心のどこかで考えてしまった。
貴方は、私の世界の全て。
……けれど貴方の世界は、この世界よりももっと広く、自由に広がっていく。
「愛しています、田中様」
貴方を離したくない、離れたくない。
けれど私は、決断した。
……作り物だらけのこの世界で、この心だけは真実であると信じたい。
「…………だから私は、あなたの幸福を心から祈ります」
私は田中様を突き飛ばして、砂嵐の外に押し出した。
強い風が、私たちを引き離す。
「田中様、どうか。元の世界で、幸せになってください。私はいつまでも、ここで貴方の幸福をお祈りしています……!」
「アリス…………!君も一緒に、この世界から出よう……!君が望めば、ここから出ることだって出来るはず……!」
田中様は強い風に吹き飛ばされそうになりながらも、私に向かって手を差し伸べる。
その手を、掴むことができたなら。けれどそれは、叶わない。
「……いいえ。この世界は、私を逃がしてはくれません。私が居ないと何も成り立たない、脆く儚い世界なのです。私が貴方の手を取って逃げてしまえば、全てが崩壊して…………アンジェリカさんの帰る場所も、アンジェリカさん自身も、消えてなくなってしまいます」
「なので、ここでお別れです。……私、貴方との未来を描きたかった。けれど、この世界はもうエンディングを迎えました。この物語に続きはないのです。貴方との幸福な結末はどれだけ望んでも……存在しないのです」
私の願いは定まった。
どうか、田中様を元の世界へ。どうか、アンジェリカさんを元の世界へ。
全てをあるべき形に。元の世界に、お戻し下さい。
願いを込めると、ティアラは強い光を放って、この世界を包み込んだ。
「さようなら、田中様。私、いつまでも……」
「アリス……!」
「あなた……の……こと…………!」
声が届かなくなる。二人が、引き離されていく。
伝えたいことは沢山ある、けれど最後に。
愛する貴方に、祈りを捧げます。
「――どうか貴方に、永遠の幸福を…………!」
♢♢♢♢♢
「……目が、見えなくなってきたわ…………戻るのにも、擬似的な死が必要みたいね」
「アンジェリカ、大丈夫か!?」
ゲーム機の画面が白い光を放つと同時に、アンジェリカはよろけて床に倒れた。俺はアンジェリカを抱きかかえるようにして、その体を支える。
体は、命が失われるように冷たくなっていく。
「……ねえ、タケル。最期に貴方の顔をよく見せて」
アンジェリカは俺の頬に手を触れ、優しく撫でた。
その手には、俺の目から流れた涙が伝っている。
「やっぱり全然、美しくないわね。そんな泣き顔、淑女に見せるものでは無いわ」
「うるせぇな!俺はお前らの世界の住人とは違って、美形じゃねーんだよ!悪かったな!」
アンジェリカは優しく微笑むと、俺の頬に唇を近づけようとして、一度近づき、それから離れた。
「……ふふ、やっぱりやめた。この体じゃあ、ちょっとね」
アンジェリカは穏やかな表情で、ゆっくりと目を閉じた。
もう、視力が失われて。俺の姿が見えなくなったのかもしれない。
アンジェリカはほとんど動かなくなった体を俺に預けて、ぽつり、ぽつりと言葉を零した。
「私ね、元の姿に戻ったら、貴方と恋がしたかった。私では、貴方のヒロインになんてなれないでしょうけど」
「…………ああ、お前はさ。わがままで高慢で意地っ張りで。全然ヒロイン向きの性格じゃないよ」
悪役令嬢、アンジェリカ・バートリー。いつもアリスに嫌味な、見た目だけが取り柄の最悪の女。それが世間の、ロマアリプレイヤーの常識だ。到底ヒロインになんて、なれっこない。なれなくていい。
「だから、本当は思いやりがあって妹想いで面倒見が良くて、自分の気持ち出すのが下手で、いつも素直じゃないだけなんて……みんな知らなくていい!バレたらモテちまうからな!そんな性格、俺以外の前ではちゃんと隠しとけ!」
「……お前はもうとっくに、俺にとって最高のヒロインだよ。愛してる、アンジェリカ」
アンジェリカは俺の言葉を聞いて、もう開かない瞼から一筋の涙を流した。
「…………ありがとう、私も…………優雅な生活なんてなくても、貴方がいるだけで私は…………」
アンジェリカは言葉の途中で苦しそうに、息を乱した。
もう、死が近い。アンジェリカが、いなくなってしまう。
「嫌だ、死なないで、なあ、ここにいてくれよアンジェリカ、頼む、戻らないでくれ」
俺は咄嗟に、アンジェリカに口付けをした。
触れるだけの子供のような、拙いキスだった。
「…………下手くそね。……次に会う時までに、なんとかして」
「次なんてもう、二度と……」
「……いいから、なんとかしなさい…………わかった?…………返事は……?」
「…………わかったよ、俺、なんとかする。絶対また、お前と会えるようにする。だから、待っててくれ、アンジェリカ」
アンジェリカは満足そうに微笑むと、ゆっくりと呼吸を止めた。
冷たくなった体からは、もう、命を感じられなかった。
俺はそれでもずっと、アンジェリカのことを抱きしめていた。
夕日が沈み、窓から差し込む光がなくなった次の瞬間。
アンジェリカはむせ返って起き上がった。
「大丈夫か、アンジェリカ!?お前、生き返って……!!」
「……アリス!…………アリスは……!」
目の前にいるのは、もう、アンジェリカではない存在だった。
姿は同じだけれど、全く違う。
あるべき姿に戻った、俺の親友だ。
「……戻ってきたんだな、田中」
「タケル…………ここ…………もしかして、僕……」
「…………おかえり」
田中は俺を見て、ひどく絶望した顔をした。
そしてすぐに近くに転がっていたゲーム機を見つけて拾い上げると、何度も乱雑にボタンを押した。
ゲーム画面はエンディング後の「The End」の文字を映したまま、動かない。
「アリスが、まだあの世界にいるんだ!僕、あの子を置いてきてしまった、早く、戻らないと、あの子はずっと一人で……!」
「落ち着け!ゲームはもう……!」
田中はゲーム機を持ったまま、部室の外へ飛び出そうとする。
こいつが何を考えているのか、一瞬で分かった。
俺は田中の体を押さえ、必死に部室に留めた。
「田中、ゲームはもう終わったんだ!いいか、もう二度と歩きながらゲームして、階段から落ちたりするんじゃねーぞ!もし、お前が死んだら……!」
「死んだっていい!アリスのいない世界なんて……!もう、生きる意味なんか……!」
「あの子の願いは、どうなるんだよ!あの子はお前の、幸福を願ったんだろ!?」
田中の力が、少し弱まる。
けれども、まだ。その足は、アリスの元へ向かおうとしていた。
「それをお前が叶えないで、どうするんだよ!馬鹿野郎!俺だって、俺だってなぁ…………!」
俺は離れていく田中の背中に縋るように、体重をかけて床に崩れ落ちた。田中もバランスを崩し、部室の床に倒れ込む。
「辛いのはお前だけじゃねーんだよ……、わかれよ……なぁ…………」
俺の目からは、涙が溢れて止まらなかった。
背を向けていて顔は見えなかったけれど、田中もきっと同じだった。
部室には、男たちの情けない泣き声が響いた。
ゲームの画面は、黒い画面を写したまま。二度と動くことはなかった。





