第19話 アンジェリカは最後までわがままだった
「アンジェリカちゃん、もう帰っちゃうの?やだー!ずっとお家にいればいいのに!」
「もう夏休みも終わるんだから、アンジェリカは家に帰るんだよ。わがまま言うな」
駄々をこねる子供をあやす様に、明日香の髪を撫でながらアンジェリカは優しく声をかける。
「明日香、貴女と離れるのはとても寂しく感じるわ。私にとって貴女は、もう一人の妹よ。どうかこれからも、元気でね」
「わたしも、さみしいよ。……また、お家に遊びに来てね」
「……ええ。今度は、タケルの親友のタナカとして遊びに来るわ。仲良くしてね」
アンジェリカは明日香の頭から手を離すと、今度はじいちゃんの方に向き直って話しかけた。
「爺、貴方のおはぎのレシピ、この私が継承したわ。作り方を教えてくれてありがとう」
「元々は、ばぁさんのレシピなんじゃがの。こんなに気に入ってくれて、ばぁさんも天国で喜んどるじゃろ」
じいちゃんは嬉しそうに目を細める。
アンジェリカは完璧におはぎの作り方を覚えたみたいだけど、そもそもあっちの世界に和風の食材ってあったっけ。
気になった俺は、アンジェリカに小声で尋ねた。
「……お前、あっちでおはぎ作る材料なんてあんの?」
「バートリー家を舐めないで頂戴。近隣になくとも、遠い他国にはあるはずよ。どんな手段を使ってでも、私はもち米と小豆を手に入れるわ」
「そりゃ頼もしいこった」
アンジェリカならきっと、やり遂げるんだろうな。
元の世界に戻っても、暇になることはなさそうで良かった。
アンジェリカは家の玄関まで見送ってくれた明日香とじいちゃんに、手を振って別れを告げた。
明日香とじいちゃんはそれを見て、同じように手を振って返す。
「夏休み、すごく楽しかったよ!またね、アンジェリカちゃん!」
「またいつでも遊びにおいでね」
「……ええ、さようなら。明日香、爺」
アンジェリカは二人に向かって跪くと、祈りを捧げるように手を合わせ、目を閉じた。
「二人に永遠の幸福があらんことを」
♢♢♢♢♢
ほとんど人のいない夕暮れの学校。俺とアンジェリカはゲーム部の部室で最後のイベントを進めるため、この場所に来た。
アンジェリカは壁に貼られたロマアリのポスターを見ると、自分の姿が描かれたイラストにそっと手を触れた。
「アンジェリカ……さっきの、家出た時のやつ。何あれ?帝国式の挨拶?」
「あの世界で最上級の親愛と祈りの言葉よ。二人には、お世話になったから」
「……いやほんと、世話かけてばっかだったよお前は!あちこち外出しようとするし、うまいもん食いまくるし。おかげで俺はお小遣いの貯金ゼロ!来月から貧乏生活なんだからな!」
アンジェリカは夏休みの間、それはもう遠慮なく遊びまくった。近隣のレジャースポットは制覇したし、夏祭りだって行ったし、遠出して海にも山にも行った。
こいつが行きたいと言った場所には可能な限り行って、やりたいことも全部やらせたつもりだ。俺はアンジェリカと明日香の世話をして、連日荷物持ちや所持金の管理などを行いながら、忙しく振り回される日々を送った。
「むしろ私のバカンスがあの程度の出費で済んだことを、幸運に思うことね」
「お嬢様育ちはこれだから困る!帰ってから好きに豪遊でもしてろ!」
俺が言い捨てた言葉を聞いたアンジェリカは、そっと顔を横に背けた。
「…………たとえ豪遊したとしても。きっとこの先、今より心が満たされることはないのでしょうね。貴方は、残酷なことをしたわ」
「それは……悪かったよ。でも、お前のいい思い出になるかなと思って……」
「馬鹿ね。戻ったら私の記憶は消えるわよ」
「えっ……そうなのか!?」
アンジェリカは衝撃の事実を口にする。俺は驚いて、思わず大きな声を上げた。
アンジェリカは寂しそうな笑顔を浮かべながら、そのまま言葉を続ける。
「正確にはエンディングを迎えた後、世界がやり直されてまた新たに始まると。……私の記憶は消えて、まっさらになる。今ならはっきり分かる。私もアリスもギルベルトも。あの世界の住人は様々な結末を迎えて、その度に記憶を消して、何度も繰り返してきた」
「だから、私のいい思い出を消したくないのなら。くれぐれも、あのゲームをやり直さないで頂戴ね。私、おはぎの作り方忘れたくないもの」
「なんだよ、それ……」
俺は力無く呟いた。
なんでそんな大事な事を今まで黙っていたんだと、アンジェリカを責めてしまいそうになる。きっとアンジェリカなりに、考えた結果だろうけど……色々な感情がごちゃ混ぜになって、頭の中を埋め尽くす。
「……あのゲームでエンディング後に、アンジェリカが出てくることはないから。もう一度ゲームをやり直して、お前に会おうと思ってたのに!……それすら、できないのかよ」
アンジェリカは俺の話を静かに聞いている。俺はやるせない気持ちをアンジェリカにぶつけるように、夏休み中幾度も聞いた質問を投げかけた。
「なあ、アンジェリカ。お前って、本当にあの世界に戻りたい?田中には悪いけどさ。このままこの世界に残るって選択肢も、お前にはあるんだせ?」
「何度も言ったでしょ。この体で生きるのは嫌。私は元の世界に帰るわ」
「でも、あの世界に戻ったら。俺も明日香もじーちゃんもいないんだ。お前は……寂しくないの?」
「あの世界には私の帰りを待ってるジェシカがいる。戻る以外の選択肢はないのよ」
「それでも……」
分かってる。アンジェリカが戻らなきゃいけないってのは、理解してる。これは俺のただの悪あがきだ。俺がアンジェリカと離れたくないから、子供のように駄々をこねているだけなんだ。
アンジェリカは呆れたようにため息をついて、それから優しく笑った。
「何よ。そんなに私を引き止めたいの?困った人ね」
「……ああ、そうだよ。引き止めたいよ。こっちの世界にいるお前が、あまりにも幸せそうだったから。田中も、あっちで幸せそうだしさ。正直このままでいいじゃん、って思うよ。だから、ティアラの効果なんてやっぱり存在しなくて。元に戻る作戦なんか失敗すればいいのにって……」
俺があまりにも素直に心の内を吐き出すもんだから、アンジェリカは少し驚いたようだった。
けれど、俺を真っ直ぐ見つめるその瞳には、一切の迷いも揺らぎも感じさせない強い意思が宿っている。
「……でも、俺がなんと言おうと、お前は決めたんだよな。元の世界に戻ることを。怖いだろうに、寂しいだろうに、そういう弱音を今日まで一切吐かずにさ。本当に強い女だよ、お前は」
「当たり前よ。この私を誰だと思っているの?」
アンジェリカは出会った時のように、凛とした声で高らかに宣言する。彼女の気高く、高貴なその名前は、俺の耳に心地よく響いた。
「――公爵令嬢、アンジェリカ・バートリーよ!」
「…………ははっ、泣きながら言うセリフかよ」
アンジェリカは慌てて目元を拭うと、誤魔化すようにそっぽを向いた。そして少しだけ震える声で、俺にゲームの続きをやるよう促した。
「タケル、早くゲームを開きなさい。私の決意が変わらないうちに」
「お嬢様の仰せのままに。……田中、アリスちゃん。俺たちの用事は済んだよ。そっちも、準備はいいか?」
画面の中の二人は、あの時と変わらない姿のまま。
バグで歪に歪んだ世界の中で、手を取り合って並んでいる。
『……うん。僕たちも、心の準備はできてる』
アリスは天に片手を伸ばし、見えないはずの画面の向こうにいる俺を真っ直ぐに見つめて、言葉を紡いだ。
『タケル様、どうかお導きください。私たちを、最後の地へ』





