三階に住んでいるのに深夜に窓をノックされたときの話
注文を終えて一息つく。店員の運んできた氷の浮かぶ水。よく温められた店内でポタリと水滴がテーブルに落ちる。
場所はどこでもあるようなファミレス。対面に座る彼女も気だるげに人と車の行き交う街の風景を眺めていた。
「喫煙席、空いててよかったですね」
「そうだな、まったく世知辛いものだ」
紙の筒の先を咥えてライターに火をともす。飛び散った火花と一緒に先端に火がともる。
最近ではどこもかしこも喫煙所は閉鎖続きだった。仕事中、タバコ休憩といって抜け出すと若い後輩からあきれた目で見られた。
「やめる人も多いらしいな」
「そうなんだ、私は吸わなくなったから分からないけど……息苦しい世の中ですね~」
そういって彼女は笑った。
彼女が吸わなくなってから数年が経つ。
その出会いはひどく驚かされたのでいまだに記憶に鮮明だった。
仕事柄、帰りはいつも不規則だった。
その日も夜遅くに帰って来た。いつもだったら泥のように眠るはずなのに夜中に目が覚めた。
のどの渇きを感じて蛇口をひねる。水を満たしたコップを傾けていると音が聞こえた。
―――コン、コン
空耳かと思った。
窓ガラスを叩く音。
動けずにいると、もういちどそれは聞こえた。
ノックだった。二回。
偶然におきるような音じゃない。
誰かがそこにいる。
ガラス窓一枚を隔てた向こうに。
スマホには『110』を打ち込んだままカーテンを開いた。
そこにいたのはまだ若い女性だった。その格好は冬にしてはえらく薄着だった。
窓を開けると彼女はすぐに入ってきた。体を抱きながらぶるぶると震えている。
「すいません、ベランダで煙草すってたら鍵しめられちゃいまして」
話を聞くと、どうやら彼女は隣室の住人らしい。
しょせん、ただの安アパートの住人だと挨拶を交わしたことはなかった。それでも夜中や朝方には物音を立てないように気をつけていた。
「それは災難だったね」
彼女はへへへ、といたずらが見つかった子供のような笑みを浮かべていた。その見た目から二十代前半に見えたけれど、その表情はひどく幼く映った。
それが彼女との出会いだった。
それから彼女と会うのは、決まってベランダだった。
「部屋で吸ってると彼から言われるんですよね。匂いがしみついてアパートの敷金が返ってこないって」
「しっかりした彼氏で安心じゃないか」
タバコ呑みにとってはかぎなれたものでも他はそうではない。仕事上、引越しの多い私も借りた部屋には足跡を残さないようにしていた。
「男のひとはみんなそういいますけど、わたしとしてはもうちょっと大目に見てほしいものですね~」
二人で夜空に光を灯す。
煙を吸い、目を閉じて肺まで満たしていく。くらむほどに深く深く滲ませる。
会話はあまりない。ただ煙を立ち上らせながら夜の街を見下ろした。
「彼氏はここのことを知ってるのか?」
「ううん、言ってないよ。タバコを吸うわたしのことは嫌いみだいだから」
深夜に二人きり。その相手もただの隣室だというだけの関係。
「いいのか? もしも、酔った勢いでとかってことになったら」
「そうなったら……それでも、いいかなぁ。あなたのこと別に嫌いじゃないし。どうする?」
煙を吸い込み目を閉じた。
胸の底で望み空想し続けたこと。思い描いていたこと。私は彼女のことを気に入っていた。
「あまりからかわないでくれよ」
空想と一緒に煙を吐いた。
そうして味わった余韻は夜気にまぎれてすぐに曖昧になる。
それが彼女との思い出だった。
店内の明るすぎる照明の中、よく磨かれた机が光沢を放っている。吐き出した煙が机をはって向こう側へと届く。
あのときと同じように彼女は気だるげな表情で頬杖をついている。
私の思いは彼女まで届かない。届いたとしてもそれは実現などしない。
その理由を私は知っている。
まぶたを開けば、目の前の席は空っぽで誰も座っていない。店内の照明の中で紫煙が立ち上る。
先ほど注文を受けた店員がコーヒーを運んでくる。
黒い液体が注がれたカップは一つだけ。
彼女のものはない。
対面の空席を見ながら思い出す。
ある日の朝、唐突に青い制服姿の警官が私の部屋にやってきた。そうして告げられた。隣の部屋で起きたことを。
私は何も知らないと首を横に振った。
夜中に聞こえる男の怒声も、続いて聞こえる彼女の悲鳴も。
―――コン、コン
近頃、家鳴りが激しい。
夜になると決まって窓ガラスが叩かれる。
ベランダに出ても誰もいない。
タバコを咥えて息を吸い込みながら火をつける。ライターの火であぶられた先端に火が灯る。
口を離すと、彼女がいつも頬杖をついていた手すりに置いた。
「ふぅ……」
ためこんだ息を吐き出す。
紫煙が立ち上る夜空をただ一人、ぼんやりとながめた。