それでもコボルトは抜けません
異世界と地球の間に謎のワープゲートが出現、最初は大混乱に陥ったものの、十年もすればみんな順応してなんとかやっています、というのが設定です。
鍵を閉めたかどうか、家を出た後で気になることはありませんか?私はあります。しょっちゅうです。
『はい、110番緊急電話です。事件ですか、事故ですか?』
「えーっと、その、両方だと思います」
『…何があったのですか?』
「コボルトが……その、我が家の寝室の窓に挟まっています」
『……はい?』
我が家では犬を飼っている。雄のシェパード犬で、名前はベルと言う。
元々は警察犬になる予定だったのだが、トレーニングを重ねた結果、警察犬になるには気立てが優しいうえに好奇心旺盛すぎるということで諦めることになった。
ベルの飼い主はその後、スイスでエメンタールチーズを喉に詰まらせたときにセントバーナードにじゃれつかれ、驚愕のあまり心筋梗塞で死亡したので、我が家に来ることになったのである。
ベルは運動をすることが好きだというので、家事を終えて暇になると私がジョギングに二時間ほど連れ出している。
「今日もよく走ったねえ」
その言葉にベルは嬉しそうに、わん、と犬らしい笑みを浮かべて答えた。最初は前の飼い主を恋しがっていたものの、今ではすっかり我が家に慣れ、休日ともなるとリビングのイヌ用ベッドで家族とともに映画を見ている。賢い犬である。
ベルは、保育士さん達にカートで運ばれている園児のおちびちゃんたちに手を振られ、ご機嫌で尻尾を振っていたが、やがて家に近づくにつれうなりだした。
「どうしたの?」
彼は問いかけにも答えず、家に近づくにつれてその表情はますます険しいものになった。それを見ていた私は不安になった。
もしや、我が家に泥棒が。
最近、この近所では空き巣が流行っていた。回覧板では注意喚起がなされ、パトカーがよく走り回っているのを見かけるようになった。噂によると、最新の被害は我が家から四軒ほど離れた奥村さんちで、現金五万円とドッグフード一袋と犬用の骨が持っていかれたそうだ。あそこのゴールデンレトリーバーのマロンちゃんはお気に入りの骨を取られ、しょんぼりしているらしい。許せないやつである。
そんな不安に駆られていたらあっという間に玄関についてしまった。ベルの唸り声は止まないままだ。
私はいつでも警察に通報できるよう、しっかりとスマートフォンを握りしめ、ベルのリードから手を離さないように注意しながら、なんとかして玄関のドアを開けた。
次の瞬間、猛烈な勢いでベルが私の手を振り切り、一階にある夫婦の寝室へ走っていった。寝室のドアを弾き飛ばさんばかりの勢いで開け、私のベッドがある方へ駆けていく。私は何とかして彼に追いつき、制止しようとした。
そして、それを見た。
世にも悲しそうな顔をした犬の頭を持つ男が、ベッドの傍にある細長い窓に挟まってじたばたもがいていた。窓にはハンドルで操作できるタイプの窓が付いているが、取り外されてしまっているようだ。おそらく、そうしてスペースを確保してから我が家に侵入しようとしたのだろう。身体の左半分は何とか入り込むことが出来たらしいが、右半分の方はまだ外にある。入り込もうにもどうやらそのたくましい大胸筋と太いしっぽが災いしたらしく、ぴっちりはまり込んでしまっていた。
私が唖然としていると、犬の顔がこちらを向いて悲しそうに言った。
「その、我が兄弟よ。我が非を認めるので、そのような大声を出さないでもらえるだろうか」
「きょ、きょうだい?」
「人間よ、このようなことになってしまって申し訳ない。…少しばかりの金を頂戴したら、お暇する予定であったのだ」
ベルはさっきから狂ったように吠え立てている。私は困惑しながらスマートフォンで緊急通報をしようとして、男に制止された。
「頼む、お慈悲を頂けないだろうか。それがしはこの三日と言うもの、何も食べておらんのだ」
「なんでまた」
「手持ちの金が無いのだ。家賃を払ったら無くなってしまった」
「ご職業は」
「…無職だ。務めていた鉱山はこの一年と言うもの、伝染病の感染防止策により閉鎖中でな」
「…はあ」
犬の頭は耳がぴんと立っていて、全体的に茶色でどことなくシェパードに似ている。確かにこの男がベルを兄弟と呼ぶのも無理はないのかもしれない。上半身は裸で、下半身には粗末なズボンをまとっていた。足には足袋のようなものを履いている。
男はコボルトのロッティと名乗った。彼は務めていた鉱山が閉鎖されたのち、こちらの世界に来て泥棒を始めたのだという。元々身体能力は高い方だったので、それを活かして屋内に侵入、現金と美味しそうな食べ物を頂いては何とか暮らしていたらしい。
「いや真面目に働きなさいよ」
「働こうとしたのだ。…だが、この世界でコボルトが就職するのは非常に難しくてな」
彼自身、就職しようとしたのだが、コボルトという種族は何分中途半端なのだという。工事現場での肉体労働はオーク族にとられ、清掃などの几帳面さが必要になる仕事はゴブリン族にとられ、芸術面での仕事はエルフ族に取られてしまったらしい。それならばと鉱山で仕事をしようと思ったらしいのだが、残念なことに日本でコボルト族が働ける鉱山というのは無いのだと言われたそうだ。
「この通りなのだ。頼む、見逃してくれ」
「そんなこと言われてもねえ」
こうぴっちりはまってしまっていたら、見逃そうにも見逃すことなどできない。そうこうしているうちに、玄関のチャイムが鳴った。私はベルをその場に待機させておき、訪問者を迎えに行った。もしかしたら近所の誰かが警察を呼んだのかもしれない。
玄関のドアを開けてみると、お隣の遠藤夫妻が立っていた。旦那さんのほうは竹刀を持っている。
小鳥のような奥さんが、おずおずと言った。
「すみません、先ほどからお宅のベルちゃんが必死に吠えておりましたでしょう?もしかしたらお宅に何かあったかもしれないとこうして参りましたの。近ごろは物騒になりましたし、もしかしたら奥様が急病で倒れているのかもしれないと思いまして」
「ありがとうございます。申し訳ない」
遠藤さんの奥さんは町内会長をしている。会合には必ず旦那さんが付いていき、目の前で言い争いが始まって奥さんがおろおろすると、旦那さんが双方をぎろっと睨むので、争いはぴたりと止むそうである。
旦那さんは御年七十三だが、どことなく晩年の川端康成に似ていて、務めていた会社を退職した後は、友人の経営している剣道場を手伝っているそうだ。
奥さんは可憐な老婦人で、薔薇の育成と図書館通いが趣味である。
旦那さんが口を開いた。
「それにしてもベルちゃんが吠え止みませんな。何かあったんですか」
「ああ、見てもらった方が早いかもしれません。どうぞこちらへ」
彼らを寝室に案内すると、旦那さんはぽかんと口を開け、奥さんは「あらあらまァまァ」と言った。
「ぴったりとはまり込んでおりますのねえ。これが奥村さんちに押し入った賊ですの?」
「どうやらそのようです」
「失礼」
旦那さんは一言私に声をかけてから、寝室の中へ入っていき、かなり力を込めてロッティの腕を引っ張った。ロッティは凄まじい悲鳴を上げたので、旦那さんはぱっと手を離した。
「これはだめですな。この年寄りの手では、どうにも動かん。登美子、倅がこの前来た時に置いていった肉叩きと肉切り包丁があるだろう。新案特許とかいう触れ込みの。あれを持ってこい」
危うく私のベッドと寝室がスプラッター映画の撮影現場になるところであったが、それを聞いたロッティが絶叫しているのをしり目に、奥さんがのんびりと旦那さんを制止した。
「だめですよ、貴方。わたくしがこの前読んだミステリイ小説に、警察が来るまで現場は保全しておかなきゃならないって書いてありました。このままにしとかなきゃだめでしょうよ」
「そうか、うむ、お前の言うとおりだ。というわけでそこの犬頭、警察が来るまでそこでそうしていなさい」
「そんな。どうにかならないのか」
「まあ、だめだな。奥さん、警察は呼びましたか?」
「あ、これから呼ぶところです」
「うむ、さっさと呼んだ方がよろしい」
私が警察に連絡すると、やがてパトカーが一台やってきた。車内から降りてきたのは五十代くらいの男性警官と、今年警察学校を卒業したばかりなのだろう、初々しい青年の警察官だった。彼らは困惑した表情で寝室に案内されたが、挟まっているコボルトを見て、若い警察官が思わず噴き出した。中年警官に叱られて笑うのをやめようとしているが、このままでは呼吸困難で死にそうである。
若い方にロッティの右半分がある外の方へ回ってもらい、右半分を押してもらって遠藤さんちの旦那さんと中年警官が引っ張ったものの、ロッティは絶叫するだけで何の効果も得られず、逆もやってみたが結果は同じだった。中年警官がハンカチで汗を拭きながら言った。
「これはレスキュー隊か何かを呼ばないといけないだろうな。おい仲山、パトカーの無線で署に応援を頼め。ついでに消防にも連絡しろ。それにしても奥さん、災難ですなあ」
「頼む、それがしを牢屋に入れないでくれ。それがしは何も悪いことはしておらん。金だって返すつもりだったのだ」
遠藤さんちの旦那さんが竹刀で手のひらを叩きながらロッティに言った。遠くから、「ヒイ!ハアハア!」という、パトカーにたどり着いた若い警察官が我慢しきれず笑い転げている声が聞こえる。
「何を言う、お前は奥村さんちのマロンちゃんの餌を盗んだだろう。あれは獣医さんがマロンちゃんのために特別に取り寄せたものでな、マロンちゃんはあれしか食えんのだ。もう一度取り寄せようとしているらしいが、最近なぜかインターネットで高額で取引されているらしくてな、中々手に入らん状態らしい。この恥知らずの盗人めが。お前のせいで何の罪もないマロンちゃんが飢え死にしたらどうするつもりだったんだ」
「あれは療養食だったのか。道理で薄味だと思った」
「このばか者。お前など永遠にそこに挟まっておれ」
ベッドのシーツを交換したばかりなので永遠にコボルトが寝室の窓に挟まっているのは困るな、と私が思っていると、パトカーがもう何台かと消防車がやってきた。それと同時に息子が学校から帰ってきて、寝室の窓に挟まっているコボルトを見るなり爆笑した。
「母さん、これスマホで撮ってSNSにあげていい?ほらワンちゃん、ピースピース」
「スマホで撮るのはいいけどSNSにあげるのはダメよ」
「じゃ、友達に見せよっと。ベルが疲れてるみたいだから、おやつあげるね」
ベルは吠えるのに疲れたらしく、唸りながらうずくまっている。息子がチューブタイプのおやつを取ってきて、ぺりぺりと開けると、ロッティがよだれを垂らした。
「ご子息、それがしにも一本わけていただけぬか」
「ダメに決まってんだろ。ほらベル、おやつだよー」
結局コボルトが窓枠から抜けたのは、消防が到着してから二時間後のことであった。その間、娘が帰ってきて息子と同じような反応を見せ、ようやくロッティが窓から引きずり降ろされるところで夫が帰ってきた。夫は我が家に警官とレスキュー隊が大勢いるのを見て唖然とし、外された窓と破れた網戸を見て激怒し、ロッティを睨みつけて何か言おうとしたところで警官に止められた。私が疲れ切っていたので夕飯は出前でピザを頼むことになり、なぜか遠藤夫妻と我が家で食卓を囲むことになったのであった。
ロッティはピザと聞いて警官を振り切ろうとしたが、当然の如く拘束され、レスキュー隊に胸についたかすり傷を手当てしてもらってからパトカーで運ばれていった。ベルはご褒美に犬用の骨をもらったが、それでもしばらくは機嫌の悪いままだった。
まあ、とんでもない日ではあった。
小ネタ設定
ベル…雄のシェパード犬。名前の由来のベルジアン・シェパード・ドッグ・マリノアではなく、本当はジャーマン・シェパードなのだが、自分はドイツ語もフランス語も出来ないのでまあいいかと思っている。新しい家族は一日四時間も散歩に連れてってくれるし、おやつもくれるので大好き。
主人公…日に日に増えていくエンゲル係数に怯えている。自分がベルの散歩係だと思っている。
主人公の息子…陸上部のエース。本当は漫画研究部に入りたかった。自分がベルの散歩係だと思っている。
主人公の娘…バスケ部所属。最近彼氏ができた。自分がベルの散歩係だと思っている。
主人公の夫…ごく普通のサラリーマン。最近健康診断で引っかかった。自分がベルのおやつ係だと思っている。
遠藤夫妻…調理器具を取り扱う会社を経営する息子がいる。孫たちを可愛がっている。最近柴犬を飼い始めた。
奥村さんちのマロンちゃん…最近ご飯が別のやつになったけどこれも好き。新しい骨を買ってもらってご満悦。
ベルの前の飼い主…スイスチーズ問題なるものについての知識を作者にもたらした。