35 ー悪足掻きー
脳裏に思い描いた通り『霧猪』の左脇腹に拳が突き刺さる。
凄まじい勢いで振り抜かれた拳が毛皮を通り越して肉にめり込む。
『霧猪』の纏う静音魔法によりシズクの耳にはなんの音も聞こえない。しかし拳を通して身体に響く感触から、確実にダメージを与えた事を知る。
(!…重いな)
そのまま吹き飛ばしてやろうと目論むが、予想以上の重さから『霧猪』を浮かせるだけに留まる。
だが、突進力を利用したシズクの拳は少なくないダメージを与えたのだろう。悲鳴すら上げない『霧猪』だったが、動きが僅かに鈍っている。
…いや、悲鳴を上げたが静音魔法のせいで聞こえなかっただけか?どっちでもいいな。
今の一撃で完全にこちらを警戒したようだ。
霧の中に消えるのではなく、こちらを睨みつけながらジリジリと旋回している。
自らの突進攻撃を完璧に対処された以上、別の手段を講じる必要がある… 少なくともそう考えるだけの知恵が『霧猪』には存在した。
そして… それを実行できるだけの力がある。そうでなければ、この人喰林で生き残ることはできなかった。
(…ん? 何やってるんだ?)
『霧猪』が、毛を逆立てて身体をブルリと震わせた。
(威嚇か?)
動物の生態には詳しく無いが、身体を大きく見せるために毛を逆立てる奴もいると聞いたことがある。
最も、今更威嚇などされたところで…
(…ッ!!!)
直感に従い、左手を眼前に掲げる。
自らの前に分厚い壁をイメージ。シズクの意思に従い魔力がざわめく。
ガッ!
ズガガガガ!!!
魔力の壁に触れた何かが爆ぜる。
(危ないなっ!)
自らの前に壁を作り出す土魔法『防壁魔法』を、魔力のみで再現したシズク特有の防御魔法『魔力壁』を解除する。
感覚からして、威力は薄めの鉄板程度なら破壊できるほどの威力だろうか?
当然、人間がまともに食らえば絶命は必至である。
トレーニングの為にと魔力の視認をやめていたのが仇となった。
直感に従い咄嗟に防いだはいいが、何をされたか全くわからない。
(さっきまでの突進と違って、アレは食らったら死ぬなぁ)
死にたくないだけでヘタれたわけじゃない… そんな言い訳をして、トレーニングを切り上げる事にした。
シズクの視界が再び魔力の波で満たされる。
『霧猪』に視点を合わせ、どんな魔法を使うのか観察する。
先の一撃で仕留められなかったことを訝しんでいるようだが、突進よりは効果が高いと踏んだのか『霧猪』は先ほどと同じように、毛を逆立てて身を震わせた。身体から魔力が噴き出し、額の紋章を通して魔法が形作られていくのが視える。
(風魔法… アレは『突風魔法』だな)
『霧猪』は、静音魔法とは異なる風の魔法『突風魔法』を放つつもりらしい。
『突風魔法』は単に強風を起こすだけの魔法だ。魔導力によって風の勢いは異なるが、単体でダメージを与えられるような魔法ではない。
(おそらく『突風魔法』と他の攻撃魔法を組み合わせて威力を上げたんだろうな)
シズクはそう当たりをつける。低い魔導力でも高い効果を望める為、実際によく使われる手段だ。
だが…
(…他の魔法を使わない!?)
『霧猪』は最後まで他の魔法を発動しなかった。予想と違う結果に戸惑うが、迷いは死に繋がる。
シズクは思考を打ち切り、咄嗟に横へ大きく跳んだ。
音も無く飛来した何かが一瞬前まで立っていた地面を抉る。明らかに突風魔法のそれではない。
それに、今の一撃は魔法ではない。少なくともシズクの目には、突風魔法以外の魔法の痕跡を発見することができなかった。
(チッ… 考えてる暇はなさそうだ!)
『霧猪』の発動した突風魔法はまだ効果を発揮しているようだ。
体勢を立て直したシズクは追撃を避けるべく走り出した。『霧猪』を中心に旋回するような軌道を取り、攻撃に備える。
奇しくも先程とは真逆の構図だ。
背後で枝が落ち、地面が抉れ石が砕ける。『霧猪』が攻撃の軌道を修正しているのか、破壊の痕は徐々に走り抜けるシズクに近づいていく。
奴がどれほどの時間攻撃を続けられるかは不明だが、そう遠くないうちにシズクを捉えるだろう。
「…ふっ!」
気合を込めて全身に魔力を漲らせる。
外から取り込んだ魔力が全身を満たすと共に、身体能力が大幅に上昇するのが感じられた。
『身体強化』の魔法を再現した魔力の業『魔力纏』だ。各種強化魔法と同じように纏った部分が強化されるので、全身に纏えばそれだけで、全身に加えて五感までも強化される。さらに『魔力纏』状態の時は、魔物と同じように攻撃魔法の威力を減少させる。
五感が極限まで研ぎ澄まされ、周囲の景色がゆっくりと流れる。
(…針?)
引き延ばされた時間の中で『霧猪』の攻撃の正体を知る。
無数の針… いや、奴の身体に生えた青白く光る半透明の毛だ。それを『突風魔法』により飛ばしているのだろう。
毛自体は魔法ではないので『突風魔法』以外の魔力の流れを感じなかったということだ。
(…『魔力刃』)
右手に意識を集中。握り込むと収束した魔力が刃と化し、作り出した刃がジリジリと空気を焼く。
その場で足を止め、高速で飛来する『霧猪』の毛針に向き直る。
音すら置き去りにする速度で放たれたそれも、『魔力纏』状態のシズクの目には止まっているようなものだ。
シズクの右腕がブレる。
残像を残す程の速度で振るわれた魔力の刃は、迫る飛針を一本一本正確に捉えていく。
魔力の刃に触れたそれらは、触れる端から灰も残さず焼け落ちた。
自らの攻撃が捉えてなお、傷一つ負わずに佇むシズクを見て、いよいよ万策尽きた様子の『霧猪』
しかし強者として生まれた故か、逃亡など端から頭にないようだ。
再び身体を震わせ、愚直に攻撃を仕掛ける。
しかし、タネの割れた攻撃など最早シズクには通用しない。
飛針を正確に叩き落としながら、『霧猪』に向けてゆっくりと歩を進める。
「ーーーーー!!!」
迫るシズクに恐れを抱くように、『霧猪』の口が悲鳴の形に歪められる。
しかしその悲鳴は『静音魔法』のせいでシズクに届く事はない。
…最も、届いたところでこれから行うことに変わりはないが。




