34 ーイノシシー
シズクは基本、このトレーニング中は魔力を使うことはないが、多少の例外は存在する。
(…!)
気付いた時、“それ”は目前に迫っていた。
霧の奥から音も無く、突如として現れた“それ”を、シズクは直前で察知する。
地面を蹴り鋭く跳躍する。“それ”の背に生えた、細くすべすべとした毛に手を付き空中で1回転。
着地したシズクはすぐさま振り返り、“それ”と対峙する。
そこに佇んでいたのは、一見イノシシに似た中型の獣だった。
凄まじい勢いで突進してきた筈だが、一瞬で振り向いたシズクを既に両の目で捉えている。
腰を落とし、どんな動きにも対応できるよう体勢を低く保ちながら相手を観察する。
濃霧に溶け込むような青白く、針のように細い体毛が全身を覆っており、その身体は猫のようにしなやかだ。
イノシシに似た頭部を持つが、口から突き出る短い牙は湾曲することなく、杭のように真っ直ぐに伸びている。
虎の身体を持つ猪といった風情だ。
そして… 額に刻まれた紋章から生える角。
(魔物…)
いつか見た『風熊』のような巨体でこそ無いが、 魔物の危険度は大きさでは決まらない。
現に目の前のそいつは、かつての『風熊』と遜色ない威圧感を放っている。
一撃目を躱されたその魔物は、再度突進をしてくるわけでもなく霧の奥に姿を消した。
だが、当然引いたわけでは無い。シズクは集中力を高めると、周囲の魔力を視る。
濃霧の奥に、魔物が纏う風の魔法の痕跡を発見する。シズクの周囲を音も無く高速で駆け回っているようだ。
(なるほど、静音魔法で足音を消しているのか)
『静音魔法』は、風魔法の一種で、身に纏った風で発する音を打ち消す魔法だ。
周回する魔物がシズクの背後で向きを変え、突進してくる。そちらに目を向けることなく宙返りし、再び魔物の上を飛び越えるように身を躱す。
(おっと… これは凄いな)
シズクは自分の下を走り抜ける魔物を視る。
その姿は驚くほど完璧に霧に溶けている。目を凝らさなければ輪郭すら知覚できないほどだ。
魔力の流れからは、魔法を使っているようには見えない。
おそらく生物として、この林に適した形に進化を遂げた結果だろう。
霧に反射した光を、全身の青白く輝く細い毛で透過させ視認性を下げているのだろうか?
あいにく詳しく説明できるような知識は持ち合わせていない。…授業をちゃんと聞いておくべきだったか?
まあ、そんな講義があったかは知らないが。
とはいえ今更悔やんだところでどうにもならない。そもそも目で捉えられなかったとしても、生物が発する魔力と、魔法を形作る魔力を視る事で問題なく対処できる。
2度目の突進を避けると、そのまま霧の中に消える魔物… 『霧猪』とでも呼ぼうか。本当の名前は知らないし、そもそも名前が付いているかも分からないので別にいいだろう。
身を隠したとはいえ、俺の目にはハッキリと視えている。
『霧猪』に致命的な一撃を与えようと手のひらを向け… 思い直す。
(いや、俺はトレーニングに来ているんだ。軽々しく魔力を使ってたら成長しないだろう)
勉強には不真面目だが、鍛錬については真面目なシズクであった。
どうせならばと、シズクは『霧猪』の位置を示していた魔力すらも視るのをやめた。
木の葉が落ちる音ですらハッキリと聞こえる静寂の中、シズクは腰の横に拳を構える。
ー瞬間
「ーオラァッ!」
「ー!?!?」
シズクは直感に従い左足を軸に1回転。
そのままの拳をアッパー気味に振り抜いた。




