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モグラ男  作者: 高村
1/1

ホームから転落すると、モグラ男がいた

0.

君はモグラ男を知っているか。

今度地下鉄に乗るとき、車窓から外を眺めてみるといい。ヘルメットを被った影が爆走していたら、それがモグラ男だ。

彼は、気に入った人の前にしか現れない。でももし会うことがあれば、焼き芋を差し出すといい。それも、できたてほやほやの石焼き芋が望ましい。ご機嫌になれば、都内の地下鉄ツアーをしてくれるかもしれない。

ただ間違っても、そのヘルメットを取ろうなどということはしてはいけない。彼は自分の薄毛を、大変気にしているのだから。


ヤツと出会ったのは、6月の雨の日だった。

すでに夜は遅く、僕は酔っ払っていた。地下鉄のホームに行き着くまでに二、三回足を滑らせて転びそうになっていた。腕には石焼き芋を抱えていたが、もはやどのような経緯でそのホクホクとした食べ物たちが腕に収まったのか、覚えてもいない。

要するに、僕は酔っ払っていた。


酔っ払った人間はだいたい2種類に区別することができる。眠くなるタイプと、盛り上がって感情的になるタイプだ。

僕は圧倒的に後者の人間であると自負する。

ホームをふらふらと歩いていると、ふいに男が勢いよくぶつかってきた。僕は沸騰石を入れ忘れて突沸を起こしたビーカーの如く激昂して、発作的に相手の胸ぐらを掴んだ。ホクホクとした焼き芋たちが悲しげにホームに転がる。

「あんた俺の偏差値いくつだと思ってんじゃボケぇ!」


ここで三つの不運が重なった。

一つ目は、胸ぐらを掴んだ相手も自分と同じ酔っ払いであったということ。二つ目は、相手の突き放す力が思いの外強く、ホームの縁でバランスを失ったこと。

そして三つ目は、ちょうどその時、電車がホームに滑り込んできたことだ。

「あ…」

電車の轟音と、風と、ブレーキの摩擦音と、誰かの叫び声と。眩み、悔やみ、暗闇…。


ぼんやりとした光が見えた。しかし暗かった。

死人の国か、と一瞬思ったが、すぐに自分を正した。死んだらなにもない。意識があるのだから自分はまだ存在しているはずだ。

それならば、ここはどこだ?

身を起こしてあたりを伺おうと振り向いた瞬間、僕は思わず声を上げてしまった。暗闇とほぼ同化して、男がすぐ近くに座っていたのだ。


もじゃもじゃとしたヒゲが顔面を覆い、眼鏡の奥からビーズのような小さな目が覗いていた。土方の人が着るような薄汚れた緑色の作業着を身につけている。腰には道具入れ用のベルトを着けている。頭にはからし色のヘルメットをかぶっていて、その正面には点灯されていないランプが装着されていた。

「よう」

僕はなにも言えずにただ男を見つめた。同時に周りの風景も視覚情報として認識されはじめた。

僕―いや、僕たち―は小さな地下通路のような場所にいた。淡い光源は数メートル離れた裸電球だった。空気は涼しく、どこか土臭かった。

「挨拶ぐらい返したらどうだ。命の恩人だというのに」男の声は無機質で平坦だった。土色の表情はピクリとも動かず、土偶を思わせた。

僕は慌てて答えた。

「すみません…あの、ここはどこですか」

「地下通路だ」少し馬鹿にするような響きがあった。「より具体的に言えば地下鉄半蔵門線渋谷駅の線路脇点検用通路だ」

「…なるほど」よくわからないが、この人は地下鉄の整備員かなんかで、間一髪のところを救ってくれたに違いない。それで、この地下通路に入れてくれたのだろう。「助けてくれてありがとうございます。でも、そろそろ戻らないと。明日も試験があって」

男はそこで初めて笑った。石をすり合わせるような、かすれた音だった。

「のんきなことを言ってるな。しかも、試験前日にぐでんぐでんに酔っ払った輩が、え?」

僕は頰が赤らむのを感じた。暗闇で見えなければいい、と思った。酔いはいつの間にかひいていた。

「来い」男は手招きした。「おまえさんに地下の世界を見せてやろう」

一瞬のためらいの後、ついていくことにした。いかんせん、ここからどうやって出るのかわからない。

「あの、すみません。お名前は?」

男は振り返らずにずかずか歩を進めながら、変わらない平らな口調で答えた。

「モグラ男だ」


2.

かつん、かつん、と暗い地下道に自らの足音が響き渡る。モグラ男は意外と歩くのが早く、足早に歩かなければいけなかった。ほんのりと甘い匂いが彼の後ろで尾を引いていたが、何の匂いなのか、わかりそうでわからなかった。

「どうしたってあんなに飲んでた」モグラ男の声が数歩先の闇から響いてきた。「まだケツの青い18歳が、酒のうまさも自らの限界もわからずに、え?」

とっさに口を開いて、閉じ、質問を反芻し、また口を開いた。

「どうして僕の年齢を知っているのですか?」

答える代わりに、モグラ男は無言で道具入れから何かを引っ張り出した。見覚えのあるものだった。

「あ、学生証…」

とっさにポケットに手を突っ込むが、財布もろともない。

「国立東都大学一年、大山圭吾。1996年12月16日生まれ。東都大学といえば、少なくとも俺が地上にいた頃には日本一の大学だったはずだが、いつの間にこんな頭の弱そうな呑んだくれを輩出するようになった、え?」

金属のようにひんやりとした声は地下道にこだまし、その軽蔑の念を増長させるようだった。

「地上にいた頃は、ってどういうことですか?」残されたわずかなプライドを傷つけられ、思わず問い返した。やられてばかりでは分が悪い。「そもそもなんですか、人の財布をすっといて、ホームに帰してくれるかと思えば妙な地下ツアーを始める。行き先もわからないで、さっきから地下道を歩いてばかりだ」

思いのほか声が大きくなり、黙々と進んでいたモグラ男がぴたりと動きを止めた。怒ったか、と一瞬ひやりとしたが、返ってきた声はあくまで平坦だった。

「俺がお前を助けたのは、おまえの石焼き芋を食いたかったからだ。勘違いするなよ、俺は決して『良い人』なんかじゃあないぞ」

そして道具ベルトから、それがどうしてそこに入るのかはわからないが、石焼き芋の包みを取り出した。ホームに転がったはずだったのに、きれいに袋に収まっていた。

不思議なもんだ、とぼんやり思った。しかし辺りを漂う石焼き芋の甘い匂いは本物だった。

「それにしてもうまい」

モグラ男は焼き芋を頬張りながら何もなかったかのようにまた歩き始めた。無表情の顔が幾分か和らいでいるように見えた。

「さて着いた」

気づくと扉の前に立っていた。数多ある腰の道具ベルトのポケットの一つから小さな鍵を取り出すと、モグラ男はぐいっと鍵穴に差し込み、ぎいっと扉を開けた。

扉の外から涼しい風が流れ込み、電車の音が響いてきた。


モグラ男の後に続いて踏み出した僕は息を飲んで、慌てて後ずさった。そこはまさに、地下鉄のトンネルの中だったからだ。モグラ男はすでに線路の方へてくてくと歩いていた。

僕が扉の前でためらっているのを見ると、モグラ男は冷ややかに「安心しろ、ここは架線式だから足元に電流なんか流れちゃいない」と言った。

そういう問題ではなかった。なぜ、ついさっき地獄に落ちる思いで倒れこんだ線路に、再び足を踏み入れなければいけないのか。今日の僕は、もう十分酷い目にあっている。

ためらう僕を見たモグラ男は無表情で近づいてきて、腕を掴むと無理矢理ぐいとひっぱっり、そのまま扉の外へと連れ出した。腕が鋼鉄のような筋肉で包まれており、抵抗のしようがない。

「そら」線路の上に連れて行かれると、モグラ男は食べかけの石焼き芋を道具ベルトに突っ込み、かすかに満足げな表情で僕を見た。やっと自分の土俵に立った、とでも言いたげな顔だ。「何も怖くない。今から、おまえに大学が教えてくれないことを教えてやる」

言い終わるか終わらないかくらいで、地響きがして、線路が震え始めた。遠くから、車輪の回る音が響いてくる。

「電車が来る!」

頭が真っ白になった僕は脇道の扉に駆け寄ろうとしたが、なぜだかモグラ男は手を離さない。変わらず無表情なのが、なにより怖い。

「おい、あんた!電車が来るんだよ、ここにいたら轢かれる」

無言のモグラ男。

「俺を殺す気か」

表情がピクリとも動かない。

「放せって!」

蹴ろうが、殴ろうが、わめこうが、モグラ男は不動だった。一方で電車の音ははすぐそこまで来ている。湿った風がぶわりと焦りに拍車をかけた。

そして、ふと、モグラ男の目の奥がかすかに笑っていることに気づいた。それは先ほどのような冷たさをたたえたものではなく、哀れむような、ほとんど悲しむような色だった。

電車が角を曲がり、その照明が僕たちを照らした。残り100メートルもない。

「そうか生きたいか、え?」

モグラ男はふいに言うと、さっと僕の手を掴み、線路上を駆け出した。手がヘルメットに伸び、一筋の明るい光がヘッドライトから放たれる。

ばか、行くのはそっちじゃない、と言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。というより、自然と口が閉じた。周りの風景が後ろへ後ろへと飛んでいき、身体がぐっと前に引っ張られる。足が地面から一瞬浮き、思わずぎゅっとモグラ男の手を握りなおした。先ほどまでの電車の地響きが、風の音に変わっていた。

モグラ男は、電車よりも速く走っていたのだ。


3.

足を地面につけようとしたがあ、た、た、と足がもつれ、転びそうになるだけだった。それを見たモグラ男がしょうがないなというかのようによいしょと僕をおぶった。

「軽いな」ごうごうと耳元を吹く風の向こうからモグラ男のあくまで平たい声が聞こえた。「ひょろひょろじゃねえか」

僕は、57キロだ、と言い返そうとしたが風圧に押されて何も言えなかった。

トンネルの蛍光灯が尾を引いてぐんぐん後ろへ飛んでいく。ふっと一瞬明るくなって空間がやや開ける瞬間が度々あり、数回目で、それが駅のホームだということに気づいた。人に見つかるのではないか、と僕は不安に思ったが、モグラ男は気にするそぶりを見せなかった。

ふっ、と前に電車が現れた。先ほどの電車を遠く後ろにおいてきただけでなく、前の電車に追いついてしまったのだ。

僕はモグラ男に減速するように言おうと口を開きかけたが、言葉を発する前にその身体はぽーんと高く跳び、気づけば電車の屋根の上を変わらないスピードで駆けていた。と思えば、すとんと飛び降り何事もなかったかのように走り続ける。その足取りはリスのように軽く、しかし馬のように力強かった。風の吹き付けるその顔は相変わらず鉄仮面のようだ。

走っている間は、その超人的な能力を訝しむ暇もなく、僕はただ、モグラ男の背中の大きさと安心感に感謝するだけだった。


がくん、とモグラ男がペースを緩めた。ちょうど、駅にさしかかるところだった。 小走り程度に減速するとモグラ男は片手で僕を背中から掴み上げ、ホームの下のくぼみに投げ入れて、自分もするっと横に入ってきた。窮屈だったが、電車に轢かれず、ホームからも見えない位置だ。

「あなたは、何者なんだ」声がかすれていた。まだ、身体が宙を突き進んでいるような錯覚を覚えた。

「モグラ男だ」モグラ男は平然と答えた。息は少しもあがっていない。

「あなたは、地下に住んでいる?」たった今起きたことに関しては、なかなか受け入れ難くすぐには質問できなかった。

「そうだ」モグラ男はヘッドライトを消灯し、道具ベルトから再び食べかけの焼き芋を取り出して頬張り始めた。「それより、ホームの上を見てみろ」

僕はそっとホームの淵から顔を出して上を見上げたが、さっと顔を引っ込めた。

「だめだ、ホームの上の人たちに見られちゃう」

モグラ男は、あの石をすり合わせるような乾いた声で、笑った。

「何をいまさら…安心しろ、ホームのやつらには俺たちは見えない。それどころか、触ることすらできない」

僕は元来疑り深い人間であり、普段ならばこのような理屈の通らない話は鼻で笑い飛ばすタチだが、今日ばかりはホームから転落して電車に轢かれそうになるわ、電車よりも速く走る男の背中に乗せられるわと、すでに奇怪な目に散々あわされていて、考えるのに疲れてきていた。そこで僕は投げやりにホームの下から顔を出してみることにした。


ホームの上は閑散としていて、顔を出した上には女性が1人立っているだけだった。大学生くらいの女の子で、膝丈のふわりとしたスカートから健康的な脚が覗く。派手すぎない茶髪とシックなイヤリングを見て、直感的に、この人はモテるだろうな、と他愛もなく考えた。

さっ、と女性が手のスマホから顔を上げ、その顔を見た僕は思わず声を出してしまった。しかし女性は気づく素振りも見せず、やや不審げに僕の方向を一瞬不思議そうに見やってから、またスマホへと視線を戻した。

僕はばくばくとなる鼓動を抑えきれないまま顔を引っ込め、ホームの下に再びもぐった。

「誰がいた?」モグラ男が焼き芋の皮の裏まできれいに剥がしながら、冷静に聞いた。

「松村…あんた、どうして…?」言葉が続かない。

「どうしてお前さんが以前交際していた松村香澄さんを知っているかだって?」

僕は、たぶん、そのとき驚きのあまり、相当アホな顔していたと思う。

「地下鉄は都内を蜘蛛の巣のように張り巡っている。風がね、いろんな情報を運んで来るのさ」

「あんた…人間じゃない、よな」

モグラ男は肯定も否定もしなかった。

「そんなことより、その子をしっかり目に焼き付けておいたらどうだ?」

俺は言われるがままにホームの下から再び顔を出した。

松村は、前会った時よりずっと大学生らしく、綺麗になっているように思えた―最後に会ってからまだ二ヶ月もたっていないのに。長めだった黒髪を可愛らしいショートにして茶髪に染め、イヤリングをつけている。化粧も心なしか、あか抜けてさらに顔立ちが華やかになった気がする。でも、きゅっとしたかわいい目尻や唇を噛む癖は相変わらずだ。

誠に恥ずかしながら、そもそも今日泥酔するまで酒に入り浸っていたのも、松村に振られてからの日々に耐えられないが故のことだった。



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