『壹』 カラスとおじいさん
今朝の晃一さんは、きりっとしていて少し勇ましかったです。この時期のあの年頃の人の子は皆、同じような顔をして出発しますね。私にはよく分からないのですが、センター試験なるものがあるそうです。テストを受けて一定の点数より高い得点を取れば行きたい学校に行けるのだと思っていたのですが、どうやらそうではなさそうです。センターが終わっても二次試験があるから、と晃一さんは言っていました。なるほど、何度かテストをして、徐々にふるいにかけて子供たちを見極めるのですね。また一つ勉強になりました。人の子について知ることはとても楽しいです。
私は齢千年を超える神格化した八咫烏です。雨影夕咫々祠音晴鴉希命という名を持っていますが、現在は便宜上、人型の時は紫苑、カラスの姿の時は夕立と名乗っています。
この星影にやって来て数年が立ちますが、それは私が夕立として過ごした時間です。あの日、あの夕立の日に、ネズミ捕りに引っ掛かっていた私を助けて下さったのが陽一郎さんでした。丸眼鏡の素敵なおじいさんです。彼が呼んでくれた夕立というこの名前を、私はいつまで名乗ることができるのだろうと、ふと思うことがあります。
雨夜陽一郎はとても良い人の子です。彼と出会ったことで、私は更に多くの出会いを経験しました。晃一さんと出会えたのも、この町にいたからです。
朝日晃一は本当によくしてくれる素敵な方です。翡翠の覡と呼ばれる神を導く神通力を宿す人の子で、人ならざる者や力を持つ人にだけ翡翠色に見える不思議な瞳を持っています。晃一さんは立派にその勤めを果たしています。お目付け役として私がそばに就いているのですが、私がすることは特にありませんね。晃一さんったら、根が真面目なので自分で色々なさるのですよね。私が引っ張ることもありますが、もっと頼って下さってもよろしいのですよ、晃一さん。
私は様々な地を渡ってきました。山のカラスの群れに混ざって木の実を突いていた時期もありますし、恥ずかしながら街のカラスの群れに混ざって人の残りを漁っていた時期もありました。辿り着いたこの星影は、永い時を生きる私の休息地としては少し仲良くし過ぎたような気がするのです。けれど、できることならばもっとこの町にいたい。離れたくないと、そう思ってしまうのです。
試験会場となっている星影市立大学へ向かうためバス停に行く晃一さんを見送り、私は飛び立ちました。庭の松の木に腰かけていた神楽さんに声をかけられました。縁あって本体を晃一さんのお部屋に置いている鈴彦姫の神楽さんは、私のことがいたく気に入っているようでした。私からすると少し迷惑です。
「イケメン、おでかけ?」
「陽一郎さんの所へ」
神楽さんはふうんと言って、足をぶらぶらさせました。肌蹴た着物からすらりとした足が覗いて、目のやり場に困ります。いつも着崩して肌を見せて、彼女には羞恥心というものがないのでしょうか。
「こーいち、うまくいくといいわね。アタシには応援することしかできないけれど、あいつが頑張ってきたのは傍で見てたわ。あんなに精一杯やってきたんだもの、きっと大丈夫よね」
「ええ、きっと」
「いってらっしゃい」
「行って参ります」
羽撃き、風に乗ります。羽で風を切るのは何故こんなにも気持ちがよいのでしょう。こういう時は自分が鳥に生まれてよかったと思います。
おや、スズメの群れですね。かわいらしい。
あちらにはシジュウカラも見えます。
わあ、スズメが飛びました。たくさんいます。小さくて丸くて、本当にかわいらしいです。それがたくさんいるのですから、ああ、これはもうかわいすぎますね。
飛んで来たスズメ達は私を見るなり、口々にカラスだ。でかい。怖い。と言って方向転換して行きました。酷いです。
道路が一本走るブナ林の上空に着いた私は速さを緩めます。空からでもわかる深緋(濃い赤色ですね)の屋根、陽一郎さんの家です。私はその庭目指して降下しました。
雪かきをしていた陽一郎さんが、私に気が付いて顔を上げます。寒さで顔が赤くなっていました。若くないのですからもうあまり無理はなさらないで下さいね。
「夕ちゃんか、おはよう」
「おはようございます」
陽一郎さんは体を反らせて腰を叩きました。
「いやあ、まいったね。今年は雪が多いんだから」
「全くです」
「夕ちゃんにも手伝ってもらおうかな」
「できることならそうしたいですね」
「はあ、儂も年をとったなあ。昔はこのくらいぽーんぽーんってできたんだよ」
「逞しかったのですね」
「ほらほら、そこにいては危ないからこちらへおいで。そこに雪を運んでいるんだよ」
成立しているようでしていない陽一郎さんとの会話。私は答えていますが、陽一郎さんはかあかあ言うカラスに向かって語りかけているだけに過ぎません。晃一さんとお話しする時のように、陽一郎さんとも成立する会話をしたいと思ったこともあります。けれど、それは無理なことです。不可能なことを神である私が望むなど、それほど滑稽なことはないでしょう。
陽一郎さんのお隣の東雲家には、晃一さんの同級生である日和さんが住んでいます。彼女もまた、勝負をしに行っているのでしょう。窓辺の籠の脇で彼女が大切にしているセキセイインコが私を見てにこりと笑いました。窓が閉められているため、今日はお話しできないようです。
「うわっ」
ずぞぞっという音と共に、陽一郎さんの声がしました。インコのユキさんがびっくりした顔をしているので、どうしたのだろうと私は振り向きます。
ああ、何ということでしょう! 陽一郎さんが雪にはまって動けなくなっているではありませんか。
「陽一郎さん! 大丈夫ですか! ああ、どうすればいいのでしょう」
ぎゃあぎゃあと周りを飛ぶ私を見て、陽一郎さんはあろうことか穏やかに微笑みました。
「儂もこれまでか」
何を仰るのです。除雪作業中の老人、雪に埋まって死亡なんて、そのような見出しになりでもしたら承知しませんよ。
「私が、どうにかします」
私はその場から飛び立ち、木立の中へ向かいました。周囲に誰もいないことを確認し、仮の姿であるカラスから、真の姿である翼の生えた男神へと変わります。神通力を込めた烏天狗の面を被って顕現し、雨夜家へ戻ります。
諦めてしまったのか、陽一郎さんは観念したように黙って雪にはまっていました。
「おじいさん、どうしたのですか」
無闇に顕現してはいけない。それは高位の大神達によって決められた高天原の規則でした。けれど実態は緩い約束のようなもので、人の振りをして葦原を満喫している神も少なくありません。ただ、それは己のために行っていることであり、特定の人の子のために顕現して何かを行うという行為は控えるべしとされています。控えろということは、禁止しているという訳ではないのですから、多少は許されるのではないでしょうか。
突然現れたお面野郎を見て、陽一郎さんは丸眼鏡の奥の目を丸くしました。
「動けないのですか。私に任せて下さい」
私は庭に入り、陽一郎さんの手から雪かきスコップを受け取ります。
「君は?」
「通りすがりの暇人ですよ」
陽一郎さんの周りの雪を避け続けていると、しばらくして動けるようになりました。
「君のおかげで助かったよ。もうダメかと思ったけど、いやあ、よかったよかった」
「ご無事で何よりです」
「ありがとね、お兄ちゃん。うーん、そういえば夕ちゃんはどこへ行ってしまったのかな。驚いていたようだったけど」
私は陽一郎さんに雪かきスコップを突きつけます。
「では、私はこれで」
「ああ、待って。名前を聞いてもいいかい。君は儂の命の恩人だからね」
「名乗るほどの者でもないので。では」
踵を返し、私はその場から立ち去りました。後で夕立の姿で訪ね直すことにしましょう。
ああ、この町を離れたくありません。いいえ、大切な人達と別れたくないのです、私は。これまで、たくさんの者達と出会い、そして別れて来ました。別れる前に失ってしまうこともありました。時間は流れ巡りゆくもの。神と他では流れる速さが全く違います。ほんのしばらく離れていたつもりでも、以前いた土地に戻ってみると、もうそこに見る影はないのです。
私はきっと人の子に傾倒しているのです。自分でも分かっているのです。駄目な神だと笑われても仕方ないのです。