「肆」青白き紅
手応えはあった。これならいけるかもしれない。
国語・英語・日本史の試験全てを終え、俺は試験会場となっている校舎を出た。だだっ広い構内を歩き、駅の方へ向かう。
「朝日晃一君。ここでいいよ。そこにある建物の裏は人がほとんど来ないようだから、そこで話をしよう」
朝会ったおかしな男神の声だった。声はすれども姿は見えず。とりあえず指示された所に向かう。
「やあ、また会ったな」
おまえが呼んだんだよ。
男神は足下に数匹の白いキツネを侍らせていた。そして、番傘ではなく黒い鳥を手に抱きかかえていた。
「夕立……。紫苑! おい、キツネ、紫苑に何かしたのか」
「それは私のことか」
「おまえもキツネなんだろ」
「ふむ」
キツネは右手を顎に添える。
「そうだな。私は稲荷神たる宇迦之御魂神が眷属、空狐・灼燬焔熾汞煉燈狐。君は翡翠の覡だから、特別に紅蓮の名で呼ぶことを許してあげよう」
「キツネ、紫苑を離せ」
紅蓮は面白いものを見た、というように口を歪めた。悪い笑顔ではない、怪しいというよりも、妖しいといった方が表現上正しいと思われる。このキツネから感じる神力は紫苑のそれを超えているというのが分かった。放たれる神々しさが、今まで見て来たどの神々よりも強い。正一位の稲荷神の神使で、さらにその中でも最強の力を持つと言われる空狐なのだから当然なのだろうか。
「晃一君は翡翠の覡としてよく働いてくれている。高天原でも評判はいいようだよ」
「その賛辞はありがたく受け取っておく」
「時に晃一君、君はこの八咫烏・晴鴉希命……君がいう紫苑だけれど、彼のことは詳しく知っているのかな」
「紫苑のこと?」
うんうんと紅蓮は頷く。町人の話を聞き流そうとする大名のように見える。紫苑もそうだが、神様とか神使とか、そういう奴らはみんな偉そうに人の話を聞くんだな。偉いから当然ともいえるが、それが人の話を聞く態度なのか。人間は随分と下に見られているようだ。
「お目付け役、守護神のように自分に付いて回る者のこと、すべからく知っておくべきだと私は思うのだよ」
玉虫色の瞳が赤褐色に光る。血の色みたいだ。
「君にこのカラスを扱えるのか」
「どういうことだ」
紅蓮は妖しく笑う。
「このカラスはかつて邪神と化し、大雨を降らせて多くの村や畑を流した。人だけではない、多くの命が失われた」
「出会った頃に聞いた」
「そうか」
千年以上生きて来て、それが神生最大の汚点なのだと紫苑は言っていた。陰陽師に祓われたことで神としての力の象徴であった翼を失い、不老不死の体にわずかな神力を残す二本足のカラスになってしまったそうだ。現在は俺の尽力もあり、人型になった際の翼を取り戻すことができている。堕ちる前とほぼ同じ力を使えているらしいが、俺には力とかその辺りのことはよく分からない。
「紫苑は元々真面目な神使だった。今も君のため、真面目に働いてくれているだろう」
「あぁ」
「けれど、彼の中に闇は渦巻いているままだ」
「は?」
紅蓮は夕立を撫でる。
「一度堕ちた者が完全に清められることはほとんどない。他の神に清められるもの、力を持つ人の子に清められるもの、様々だが、完全とはいかないのが常だ。淀みを完全に消し去るのならば、その者ごと消すしかないからな」
「神を殺すってことか」
「そうだ。だから、限界まで清めた所でやめる。あとは再び闇に飲まれることがないように、高天原の警察のような者達の観察対象となったり、薬に頼ったり、まあそれぞれだな。とどのつまり、紫苑は再び邪神と化す可能性があるということだよ。本神も分かってはいると思うのだけどね」
紅蓮は切れ長な目を細める。目尻に伸びる黒い線は化粧なのだろうか。分からないが、それが不気味に歪んだ。
「改めて聞こう。君はこのカラスを扱えるかい」
もし紫苑が暴れたら、星影市は水に沈むのだろうか。何人死ぬのだろうか。いや、このキツネが訊ねているのは、おそらくそういうことではない。俺が晴鴉希命のそばにいる人間として相応しいのか試しているのではないだろうか。そう思った。
紅蓮は俺の答えを待っている。玉虫色の瞳が今は青味がかった黒を揺らしている。烏羽色だ。
「扱えるか、じゃない。俺は紫苑を使っているとは思っていない」
ほう、と紅蓮は息を漏らす。
「紫苑はカラスだけど、あくまで神様だし、俺は人間だ。いつも俺のこと気にかけてくれるし、依頼とか、結構手伝ってくれる。でも、それって俺がそいつに頼んでやってもらってるわけじゃない。紫苑が勝手にやってくれることだから、きっと俺は支えられているんだと思う」
そうだ。いつも助けてくれる。来られなかった時はあんなに謝ってきた。
「人間の思いは神にとって嬉しいもので、それが支えになるって紫苑は言ってた。社もない一羽の八咫烏のこと、俺はちゃんと神様なんだって思ってる。今のこいつには俺しかいないし、俺もお目付け役がこいつでよかったって思ってる。もしまた邪神になったら、まあ、その時はその時だ。雨影夕咫々祠音晴鴉希命を信仰する人間として、翡翠の覡として、紫苑の友人として、俺がどうにかしてみせる」
漫画の主人公のようなことを言ってしまった。
紅蓮は驚いた様子だった。目を丸くして、俺を見つめている。そして噴き出した。
「ふっ、ふふふ。はははははっ。言ってくれるじゃないか。君はすこぶる真面目で面白いな。紫苑が気に入るのも分かる」
「グロテスクな巨大八咫烏とかになっても、紫苑は紫苑だからな」
「晃一さん……」
紅蓮の腕の中で夕立が声を出した。翼を広げ、俺の目の前まで飛んで来てから有翼の美青年の姿になる。紅蓮がおかしそうに笑っている。
「紫苑様いつから気が付いて……」
「えーと、いつも気にかけてくれる……の辺りからですね」
ほとんどじゃないか。うわ、駄目だこれ。恥ずかしいやつだ。
「晴鴉希、すまなかったな。晃一君を試すつもりではあったのだけれど、御前を傷付ける予定ではなかったのだ。部下が本当にすまない。私が捕まえろと言ったものだから」
「いえ、大丈夫です。全っ然怒っていませんから」
紫苑は眩しいくらいの微笑を浮かべている。ものすごく怒っている。
「けれど、私も気を付けます。今回は軽い気持ちで顕現を繰り返してしまい……」
「ああ、それは気を付けてくれよ。私にもとばっちりがくるのだから」
「狐面を着けて夜の祇園を歩き回っている汞煉燈狐様には言われたくないのですけれど」
「あ、あれはだな、置屋に八幡の鳩がいて、彼女が神使間の連絡係だからで」
慌てふためく紅蓮を見て、紫苑はくすくす笑った。もう怒ってはいないようだった。
「分かっております。彼女は元気にしていますか」
「御前にもたまに会いたいと言っていた」
「そうですか」
紅蓮はわざとらしく咳ばらいをして、姿勢を正す。
「晴鴉希、君はいい人の子と出会ったな。あの子とは大違いだ」
「あの子とは……?」
「ああいや、こちらの話だ。それではな、二人共。私は伏見に帰る」
足元のキツネ達が鞄や手袋に化けて紅蓮のもとへ寄っていく。神出鬼没する力は彼らにはないようだった。上司にくっ付いて帰るのだろう。
「じゃあな」
番傘を広げ、紅蓮は周囲に狐火を揺らす。いや、狐火というよりも鬼火だろうか。青白い炎が幻想的に揺れていた。俺が瞬きをする間に、その姿はなくなっていた。
「行ってしまわれましたね……。そうだ、晃一さん、試験はどうでした?」
「多分受かってる。センターでA判定だったし、今日の解答用紙は一応全部埋めて空欄ないしな」
「さすが晃一さんですね! では、春からは札幌……」
喜んでいた様子の紫苑のテンションが下がった。
「星影を離れるのですね」
「紫苑様も一緒に来てくれるんだよな」
「……え、あ……そう、ですね」
煮え切らないな……。
おそらく陽一郎さんや鳥達のことだろう。紫苑が離れたくないのならば、星影に残ってもいいと思う。呼べば答える神出鬼没の神様ならば、離れていても大丈夫なはずだから。




