『貳』神が見た景色
センター試験の自己採点の日、私は陽一郎さんの家の庭にいました。日和さんが帰ってきたのが見えたので、もう晃一さんも家に着いているかもしれないと思い、帰ろうとしたのです。その時でした。
突然翼に衝撃が走り、私は地面に叩き付けられました。談笑していた時雨さんが驚いているのが視界の端に映っていました。
「夕さん!」
慌てた時雨さんは東雲家へ向かい、窓の外で助けを求めているようでしたが日和さんにキツツキの言葉が分かる訳がありません。
「おい日和! 夕さんが! キツネに噛まれた!」
無駄です時雨さん。その叫びは、日和さんにはただ「きょっきょっ」と鳴いているようにしか聞こえないのですから。
私は噛み付いてくるキツネを振り払い、体勢を立て直しました。それは真っ白なキツネで、神力を宿しているのが感じられました。白狐は私のことをじっと見つめると、その後は何も言わずに去って行きました。
「夕さん、平気か」
心配そうにこちらを覗き込んでくる時雨さんに大丈夫ですと言い、庭を後にしました。
あれは普通のキツネではありませんでした。稲荷神の神使である白狐です。神力の強さから考えて、おそらく下っ端の者でしょう。それに、首に青い炎の飾りを着けていましたので、あの方の配下の者だと思われます。
大したことないと思って飛んでいたのですが、思っていたよりも痛みが強かったため私は着地しました。暮影神社の祭神に治療してもらおうと、顕現した姿で神社へ向かいました。鳥居の所で栄斗さんに出くわし、なんと、栄斗さんが応急手当をして下さいました。彼は将来有望です。よい宮司になりますね。
晃一さんには心配されましたが、私は神です。傷の治りは普通のカラス、人より早いのです。もう治りました。そういえば、あの日カフスボタンを落としてしまったのです。どこで落としたのか皆目見当が付きません。早く見つかるとよいのですが。
二次試験一週間前。シャープペンシルの芯がなくなったと言って晃一さんが買い物に行きました。私は朝日家の庭で神楽さんと談笑していたのですが、晃一さんの助けを求める声が聞こえたので、そこで話を切りあげて現場へ向かおうとしたのです。
「イケメン、後ろ!」
神楽さんの声に振り向くと、先日とは別の白狐がいました。飛び立とうとしていた私の脚に噛みつき、地面に引きずり下ろすのです。
「あんた、それはアタシのイケメンなのよ。離しなさいよ」
神楽さんが白狐に雪玉を投げつけ撃退して下さいました。私はその後晃一さんのもとへ向かったのですが、途中で失速してしばらく雪山に落ちていました。三十分ほど気絶していたと思います。私が眠っている間に大事になっていたらしく、晃一さんにも神楽さんにも迷惑をかけてしまいました。晃一さんは無事に妖から逃げ延びたとのことでしたが、その話をしているところを美幸さんに目撃されてしまうという失態を犯しました。
青い炎の飾りをした白狐がうろついているようでした。何故北海道に彼らがいるのか、私は薄々気が付いていました。あの方がやって来ているのです。私を探しているのです。
そして今日、二次試験当日。晃一さんは一昨日札幌へ向かっていましたので、この二日間は神楽さんと二人で過ごすことが多かったです。陽一郎さんの庭にはあまり近付かないようにしていたのです。もし再び白狐が襲来した時、普通の鳥である時雨さんや白露さんを巻き込む訳にはいきません。神楽さんなら妖ですし、華奢な女性という外見とは裏腹に腕っ節の強い方ですのでもしものことがあっても大丈夫だと思ったからです。
白狐は私を探しています。それならばここへ現れるはずです。そう思っていました。しかし、私の予想は外れました。何気なしに千里眼で陽一郎さんの庭を見ると、何ということでしょうか、白狐がいるではありませんか。
「ん? どしたのイケメン。この前の傷が痛むの?」
「いえ……」
白狐は複数いるようでした。私は人型からカラスへと姿を変え、飛び立ちました。
「何かあったのかしら?」
「ええ、行って参ります」
飛んでいては間に合わないかもしれません。空間移動の神通力を使うことにしましょう。神はまさに神出鬼没なのです。
朝日家上空から雨夜家上空へ瞬間移動した私は、庭に急降下して白狐の群れに飛び込みました。白狐達が一斉に飛び退きます。
「夕立さん!」
餌台の方から声がしたので、見てみると白露さんが留まっていました。
「白露さん、何があったのです」
「いきなりキツネさん達が来て、ハルアケを出せって、意味分からないこと言ってきたんです……。知らないって言ったら噛まれそうになって……時雨さんが僕のこと庇って……。おじいさんにはキツネさんの姿は見えてないみたいで、変だなって思ったんですけど、どんどんキツネさんが来て、時雨さんが喧嘩っ早いもんだから乱闘になって……。でも、クマゲラ一匹でキツネさん達に勝てる訳もなくて……」
「時雨さんは?」
「ああもうダメってところで自分からおじいさんの家の窓に当たりに行きました。そうしたらおじいさんが気付いてくれて、今はあっちにある動物病院に……。ユキさんなんか取り乱してしまって、お姉さんも、今日大事な日のはずなのにおじいさんのこと少し手伝ってくれました」
白狐達は私達が乗っている餌台を下から睨みつけています。私のことを見て皆一様にくつくつ笑っています。
「夕立さん、このキツネさん達一体何なんですか。ハルアケって何のことなんですか」
「言うことはできません」
白露さんは翼を軽く広げて、威嚇するような格好をしました。そしてすぐに翼を畳んで、ふくらスズメのようになってぷりぷりしながら、
「それって、知ってはいるんですよね。何で僕には教えてくれないんですか。夕立さんのケチ」
「かわいらしく言えば私が言うとでも思っているのですか」
「むうぅ」
このままここにとどまっていてもどうにもなりません。白狐達をここから遠ざけなければいけません。
近くの木から様子を見ている野鳥が何羽かいました。
「白露さん、貴方達には言ってもよろしいのではと思ったこともあったのです。しかし、今は言うことはできません。このような状況なのですから」
「んえ、よく分からないんですけど」
「キツネ達は私がどうにかしますから、ここにいて下さいね」
「え、夕立さんが?」
私は餌台から飛び立ちました。白狐達の間を縫うように低空飛行し、旋回して家から離れます。白狐達が私の後を追って来るのが分かりました。時折噛み付かれたり引っ掛かれたりしながらも、私は飛び続けました。
夕立の姿では人目につくため、途中で人型へと姿を変えました。紫苑の姿ならば、烏天狗の面無しでは普通の人間からは見えません。
「やあ、晴鴉希」
そう、普通の人間からは。
聞き覚えのある聞きたくない声がして、私が驚いている隙に白狐達は私を取り押さえました。翼を抑え込まれて、身動きが取れません。
「やれやれまったく、傷付けるなと言っただろう」
白狐達が口々に謝罪の言葉を述べます。
「すまないな晴鴉希、手荒な真似はしたくはなかったのだが、部下が無礼を働いてしまったようだね」
番傘を差したダッフルコート姿の若い男でした。玉虫色の瞳が色を変えながら光っているのが見えます。
「随分と人の子に心酔しているようだね。いけないよ、雪にはまった御老人を助けるためだけに顕現するなんて。そんなことをしていると、子供の病気平癒のためにお百度参りをしたのに我が子を失ってしまった親に怒られてしまう」
上がった息がなかなか落ち着きませんでした。普段運動しないツケがこのようなところで回ってくるとは思いませんでした。
「どうしたんだ。疲れたのか、体が痛むのか。両方かな」
体が動きません。だんだん視界もぼやけて来るようでした。




