ヤガミの姫 一
四十歳、男盛りのスサノヲは、クマノの山の頂きに向かう道を、馬に跨って登った。
六年振りだった。山裾の広場には、交易を求めて来た民の喧噪が溢れていたが、騎馬軍団を見るとどよめきに変わった。馬という獣を見るのも初めてだが、獣に戦士が跨っているのを見るのも初めてである。約六百人の戦士の後に、戦士を乗せた約三百の馬、更にその三倍の換え馬と荷を積んだ馬が続く。
山頂の広場にはイナタが、三人の子供達と出迎えていた。
「ヤシマ、お前は十九か・・・立派な戦士になったな」
次男のヤシマは、身長ではスサノヲに勝っている。その妹で長女のヤツも、母をしのいでいる。出かける時五才だった末娘のスセリは、すっかり少女になっている。
スサノヲは、自身には一瞬に過ぎ去ったと思える年月が、子供達にとっては十分な時間であったことに気付かされた。
ーーー西の島、余り間をおかず中部を押さえねば。次はヤシマを連れて行こう。出かけるまでに、ここにも馬と牛を熟知する者を育てておく必要がある。
スサノヲは馬の機動力を農耕に応用すべきと考え、チクの民にその方法を考えるように指示していた。牛も、その乳は固形化して遠征の重要な必需品となっていたが、調教により農耕に使えるとも考えていた。これもナギの民に指示を出していた。チクとナギから出された案を本拠地であるイズモで実行し、それを各地に広めようと考えていた。
その年、天候が幸いしたのであろうか酒作りの実が大豊作で、例年を遙かに上回る量の酒ができた。スサノヲは、酒好きのヤガミにはいつもの倍を贈ることにした。酒は重いので、近年は船を使うことにしている。
その帰りの船に、ヤガミからの使者が乗って来た。
「我が長の跡取り娘に適した若者をイズモからと・・・是非ご紹介を頂きますれば・・・」
「それは光栄、選りすぐりを行かせよう。その中から姫が決めるということでいいかな」 その場ではそう答えたものの、スサノヲに考えがあった訳ではなかった。
「誰か適当な者がいるだろう」
使者が退席すると、スサノヲはツギルとコマキを見た。
「あちらは、ヤシマを考えていたのではないですか」
ツギルが答えた。
「俺もそう思いましたが」
コマキが言った。
「それは分かっていた。俺はヤシマに西の島をまとめさせようと考えている。ここであれを手放す訳にはいかん」
スサノヲは、西の島北部の西端から南に広がる地域を確固たるものにしなければと考えていた。ヤガミとより強い血縁関係を結ぶことも重要ではあるが、遠隔の西の島の安定はそれ以上だと考えたのである。
「ではそれなりの理由を付けて、戦士の中から何人か選ぶしかありませんね」
コマキがツギルを見た。
「武器扱いの一番手ではどうだろう」
ツギルが呟いた。
「おう、それだ。剣、弓、槍、槍投げ、それに素手の組み手」
スサノヲが、列挙しながら身を乗り出した。
「それに俊足と長距離走・・・乗馬もいる。うん、八人・・・この程度では」
ツギルも身を乗り出した。
「知恵者も必要ではありませんか」
それまで傍らで聞いていたイナタが言った。
「カハラの戦闘要員は、我が戦士に劣らず勇猛と聞いています。貴方達は、我が戦士は勇猛なだけではなく知恵者がいる故強いのだと、常々おっしゃっているではありませんか」
イナタは三人を見回した。
「イナタの言う通りだ。知恵者を入れて九人を選び出せ」
翌日、全ての隊長に人選の命令が出された。
各隊では適齢の戦士を競わせ、各分野の腕利きを選抜した。更に隊から選抜された者達が競い、各分野の候補者が決まった。しかし、知恵者だけは誰もが納得する基準がなかった。そこで知恵者だけは、団長達が決めることになった。
濃淡の緑で膨れあがっていた森が落ち着きを取り戻し、気の早いセミが鳴き始めたクマノの道を、九人の若者が下っていた。緩やかな丘陵地帯の要所には物見砦があり、人の出入りを監視している。遠出の装備をした戦士の往来は頻繁だが、それは指揮官が統率する隊や班単位であって、若者ばかり九人の集団は初めてである。しかしこの九人が東へ向かう理由は誰もが知っており、あちこちから羨望と冷やかしの声が投げかけられた。
東面を警戒する最大の砦が建つ地をヒラ(島根県東出雲町)と言い、東端の砦となっている。このヒラ砦の外は海岸まで長い下り坂が続き、そこからは静かな波が砂を洗う海岸沿いに東へ向かう。
「これでは選ばれなかった者は、帰りづらいな」
誰かがぼやいた。
「大丈夫だ。俺が選ばれたら、ヤガミの姫は弓が好きだったと言えばいい」
弓の代表がはしゃいだ声を上げた。
「そうだな。俺が選ばれたら、姫は組み手がお好きだと言ってくれ」
組み手の代表が応じた。
戦闘能力で選抜された自負と、若者だけの遠出という気楽さから、八人は意気軒昂に歩を進める。知恵者として選ばれた一人だけが集団から遅れ気味について行く。海岸の道は入り江沿いに内陸に食い込み、そのまま浅い山の中に入る。山を越え川を渡ると、間もなく道は二方に分かれる。右は南のキビへ通じ、左は東のムキへ通じる。若者達は躊躇することなく左へ進み、少し山側に入った所にある泉のそばで休憩した。
「今夜はムキ泊まりだ、急ぐことはない。ここで水を浴びるぞ」
若者達は素っ裸になると泉に飛び込んだ。
「おい、ナムチがまだだぞ」
鍛え抜かれた戦士から選ばれた八人に比べ、知恵者として選ばれたナムチは、腕力も脚力も劣っていた。それを知っている八人は普段より早足で歩き、追い付こうと必死に歩くナムチをからかい、はやし立てていた。
八人が水浴びに飽き、裸のまま草むらに横たわっている所へナムチが辿り着いた。
「俺達は十分に体を冷やした。お前も浴びるなら待っててやるぞ」
「おれは顔を洗うだけでいいよ」
まっ赤な顔で喘ぎながら答えると、ナムチは泉のそばにしゃがみ込んだ。
「そう言わずに、お前も浴びろ」
八人はナムチを抱え上げると泉に放り込み、上から押さえつけた。
突然のことにナムチは水を飲み込み、咳き込みながら手足をばたつかせる。八人は目配せをすると手を引いた。ナムチは、足をふらつかせながら立ち上がり、両手で顔を拭いながら呼吸を整え始めた。その足を誰かが後から払った。ナムチは仰向けにひっくり返り、大量に水を飲み込みながらもがいている。横に立つ二人が手を取り立ち上がらせたが、今度は前から足を払った。ナムチは顔面から水に突っ込み、手を付いて立ち上がろうとする。その手を足払いが襲う。
「やめなさい」
良く通る女の声がした。
八人が声の聞こえた方を振り向くと、水を汲みに来たと思われる女が二人立っていた。八人よりは少し年上のようである。
「スサノヲの戦士が、仲間をなぶり殺しにするのですか」
としかさ年嵩と思われる女が八人を睨みつけた。
八人はぞろぞろと泉を出たが、ナムチは立ち上がれない。二人の女は瓶を下ろすと、泉に入りナムチを抱え起こした。二人の着衣が水に濡れ、柔らかな胸と腰の線が露わになった。八人の視線はそれに釘付けになった。
「何を見ているのですか、水を吐かせてやりなさい」
水を吐き呼吸も落ち着いたが、ナムチはまだ立ち上がれない。八人は旅装を整えはしたが、どうして良いか分からず立ちすくんでいる。
「今夜はどこに泊まる予定なのですか?」
女が八人に声をかけた。
「ムキです」
「半日の距離(二十キロ)ですが、この人には無理・・・どこまで行くのですか」
「カハラです」
「ではアオヤ辺りでもう一泊することになりますね・・・今夜はここに泊まって、明日早出をすればウエまで行けます。そうすれば明後日にはカハラに着けます」
「しかし、今夜はムキに泊まることになっている。到着しないとまずいことになる」
「何を言っているのですか。貴方達がしたことではないですか。ムキには誰かが行って事情を説明しなさい」
「いや、全員が到着しないとまずい」
八人は悪ふざけが過ぎたことを、後悔する表情になっていた。
「大丈夫です。もう歩けます」
ナムチが立ち上がった。
「みんなは先にムキに行ってよ。俺はどうせ遅いから、ゆっくり行く」
「本当に大丈夫?」
「ありがとうございました。ここは何という地ですか」
「テマです(鳥取県西伯郡南部町手間)」