タマの森 一
翌年スサノヲがクマノの森を発ったのは、新緑が濃さを増し始めてからだった。アスキがいなくなった上に、各地から新しい戦士が続々と集まり、五つの団を編成しても余裕のある人数となっていた。そこで、一日行程(四十キロ)毎に連絡と警備を兼ねた一隊を配置することにした。 クマノから西への最初の一日行程はサンベ(島根県大田市三瓶町)の森で、その次がミズホの森だった。
この年二十四歳のスサノヲは、満ち溢れる気力と体力に突き動かされるように、三団を率いてミズホの森に急いだ。森に託した負傷者達のことが気にかかっていたし、不安定なマタガの西も心配であった。
ミズホの北の谷に差し掛かった時、中から懐かしい顔が走り出てきた。回復した重傷者も一緒だった。彼等は遠くに響く組音を聞きつけていた。奥の盆地には新しい小屋が建てられ、全員が森の生活に馴染んでいた。女達は十三人の赤子を共同で育てていた。ミズホは女の子を産んでいた。
「折角おいで下さったのに、もうお発ちになるのですか」
翌朝発つと告げると、ミズホは満たされた目で睨みながら意外なことを言った。
「この森から南の山を越えて一日行程(四十キロ)先は、海だそうです。そこから三日行程(百二十キロ)西に海峡があり、その向こうには巨大な島があるそうです。海峡に沿って海岸を進みますと北上し、東へ巡るそうです。そのまま東へ進むとと、お前様が言うマタガに行き着くと思われますが、凶暴な民が割拠していて通ることができないそうです」
「お前はこの森から出たことがないはずなのに、なぜそのようなことを知っている?」
「お前様が倒したのは、海峡の近くにあるミネの森から来た者達でした。あの者達はキビの者に北の地の話を聞き、そこへ行こうとしてこの森に迷い込んだのです。今になって思えば、北の地とはお前様達の所だったのですね・・・」
「ほう、キビの者・・・しかし、この森に迷い込んだのはなぜだ?」
「ミネの森の東にはハギ、ササ、ノノという小さな森があるそうです。その更に東にもいくつかあるそうですが、いずれも食べるに十分ではなく、争いが絶えないそうです。あの者達は、南の海岸を東に進んで四日目に、魚を取りに来ていた森の民に行き会ったそうです。その民から、北の山並みを越えた所にそのような所があるらしいと教えられ、そこから北へ進んでこの森に迷い込んだのです。その民とは、山の南に棲むツガの民だったのです」
「お前の話では、ここからミネの森までは三日行程(百二十キロ)。その間は森ばかりということだな。森からの恵みには限りがあり、棲む者が増えれば食い物が不足する・・・それゆえ争いが絶えないのであろう」
「お前様はムキから米を持ってきてくださいましたが、西で争う森に分け与える量があるのですか」
「ムキのように広くはないが、この地にも米を作るのに適した場所はある。ここに置く戦士達に開墾させ、皆で作るのだ。西の森にも、そのような場所は必ずあるはずだ。いつまでもムキから運ぶ必要はない」
言うとスサノヲは、太い腕をミズホの腰に絡ませた。
マタガの森に近づくと、岸壁の上で戦士達が手を振っている。ここでも組音の響きが来訪を知らせた。心配した西方は動きが無く、残した戦士達もこの森の生活に馴染んでいた。
タタは男の子を産み、イタルと名付けていた。長は森の守りという重圧から解放されたのか、好々爺となって太っていた。
「長、その体では狩猟の指揮も執れないだろう。身を引く気か?」
スサノヲは、開口一番に言った。
「うん、わしに長の資格はない」
長は、知らなかったとはいえ暴挙を防げなかったのは、自分の責任としていた。スサノヲ達が引きあげるとすぐに辞意を表明したが、生き残った大人達は責任は自分達にもあると主張し、後任が決まらなかった。そこで若者からということになったが、適齢の者は死に絶えており、その下の者達が育つまで集団で指揮を執ることになったという。
力無く語る長の言葉に、スサノヲは返す言葉を見い出せなかった。
コマキの集めた情報とミズホの話によれば、西の海峡の手前にはミネの森がある。そのミネの森とマタガの森との間には、分かっているだけで七つの民が争いながら割拠している。争いの理由は森の境界であるが、突き詰めれば食糧問題である。
その中で最も凶暴で行動範囲の広いのが、マタガの西半日行程(二十キロ)の海沿い、タマと呼ばれる森(山口県萩市大字江崎)に棲む民である。この一族はマタガの森の西端を流れる川近くまで姿を現すが、川を渡ることはない。過去何度もの戦いで、マタガの戦闘力を知っているからである。そのためタマの侵入先は、南と西の森となっていた。
南半日行程足らず(十五キロ)にツワ、その先四半日行程(十キロ)にトクサ、一日行程(四十キロ)にはノノの森がある。
西は、半日行程(二十キロ)にナコ、その半日行程足らず(十五キロ)先にハギという森がある。このハギとノノの間にササの森がある。
かつてこの七つの森に囲まれた広大な森林地帯には、複数の集団が移動生活を送っていた。しかし、周辺七つの森との猟場争いにより全滅し、今では無人地帯となっている。その後七つの森が好き勝手に猟場を主張しているが、いずれも生活基盤を置く森から離れ過ぎる危険を犯せないため、互いに牽制し合う緊張状態が続いている。
それぞれの森の恵みが十分な年は、どの民も森林地帯に分け入ることはない。しかし不足する年には、全滅を免れる程度の争いが繰り広げられる。その中で、最も深く分け入り、森林地帯だけではなく他の森にまで攻撃を仕掛けるのがタマの民であった。
タマの民は、七つの森では最も多い二百人を越える戦闘要員を抱えていた。他の森の倍以上である。数を頼みとして攻め込むのであるが、戦線が伸びたところを攻撃対象ではない森の民から奇襲を受け、大きな被害を受けて撤収する。これは奇襲を仕掛けた森が、攻撃を受けている森を助けるのではない。図抜けた力を持つ森を出現させないために、本能がそうさせているに過ぎない。
マタガの噂は、これらの森に伝わっていた。
『マタガの大男達が惨敗した。しかし長や長老はそのままで、スサノヲ配下の男達百人ばかりが住み着いた』
これは森の者達にとって腑に落ちない話である。長以下の男は皆殺しとなり、スサノヲ一族が全ての女を従えたというのであれば納得できる。もうひとつ腑に落ちないのが、多くの周辺の民が、クニ造りと称して上納を引き受けた上に、若い男達まで差し出している点であった。森の者達にとって、スサノヲは得体の知れない怪物に映っていた。
スサノヲは、新参の侵入を拒むが協調性のないこの地域を、戦わずして賛同させようと思案を巡らせた。しかし、妙案は浮かんで来ない。
思案投げ首のスサノヲにコマキが言った。
「スサノヲ、ここでは、戦わずして収めるなどという考えはお捨て下さい」
コマキは、戦い慣れている者達が戦意を無くすのは、鮮やかな勝利を見せつけられた場合だけであると主張した。
「最も凶暴なタマの民を一日で全滅させれば、残る六つの森は話し合いに応じます」
コマキは既に策を練り上げており、毎晩密かに斥候を出していた。
タマの森は、海岸の南に東西に延びる尾根と、海岸から南下する尾根が接して海を取り囲む形になった一帯である。集落は尾根の海側に大きく三箇所に分散している。この森は他の六つの森から最も離れている上に尾根に取り囲まれているためか、警戒は甘い。コマキは斥候を何度も出し、星明かりで目的地に誘導できるまでにしていた。
「夜明け前に集落を取り囲み、夜明けと同時に襲います。男は皆殺しです。女子供も、騒ぎ立てる者は容赦しません」
各集落とも二百人程度であり、半数以上が男である。ここを始末すれば残る小さな集落は問題にならない。しかしスサノヲは躊躇した。堂々と戦ってであれば、それが何百人を殺す結果になろうと意に介さなかった。しかし多勢で不意打ちをすることを憚る何かがあった。
「ここで何百人かを殺すことが、戦士と他の森のもっと多くの命を救うことになります」 コマキはスサノヲの気持ちを見透かすように言った。
その語調に、このようなことを言わせるスサノヲに対する腹立たしさが込められていた。
「・・・今夜は星空だ、準備にかかれ」
スサノヲはいまだに躊躇する自分が腹立たしかった。
目的に向かって歩き始め、既に多くの犠牲を出している。アスキを殺したのは自分であったと思い起こした時、首の垂れ下がった遺体を抱き上げた感触が両手に蘇った。同時に、自身の甘さを悔やんだ時の情景を思い起こした。