西へ 二
陽が真上に来るまでに、まだ随分時間があった。全身をすっぽりと覆う屋根型の矢避け作りが始まった。陽が真上を少し過ぎた頃、コマキ団が、矢避けを担いで二列縦隊で前進を始めた。盆地の入り口で、先頭を行くコマキが立ち止まった。左右の斜面の茂みに漂う殺気を感じ取ったようだが、既に射程に入っている。これを見た後方のアスキ団が、両斜面に向けて遠射を始めた。斜面からも数十本の矢が飛び出したが狙いが定まっておらず、遠射に追われるように斜面を後退している。コマキ団が、矢避けを出て盾を片手に斜面を駆け上り始めた。アスキ団もそれを追った。
斜面中腹のあちこちで、木々の枝が折れる音やぶつかり合う音、獣が唸り合うような声が聞こえ始めた。音や声は茂みの上へ上へと移動している。やがて音は止み、戦士達が左右の斜面から死体を引きずりながら降りてきた。
「敵のはいくつだ」
アスキが死体確認をしている隊長に声をかけた。
「百十七ですが、中年女と子供が六十三もあります。男は五十四・・・さっきの四を合わせても五十八、まだどこかに潜んでいるのでしょうか」
「その中に長らしい奴はいるか?」
「いないような気がします」
「こちらの犠牲者は?」
「今度は注意しましたから、かすり傷が三十五人です。すぐに周りをえぐり取りましたから命に別状はないはずです」
「これまでに倒した敵は百二十四、男が五十八で女子供が六十六。まだ精鋭が三十か四十残っていると考えておかなければ・・・」
コマキがスサノヲに報告した。
この時コマキ団は、スサノヲと共に盆地に千歩(七百メートル)程入り込んでいた。前方には緩やかな起伏を持った草原が広がっており、千五百歩(一キロ)ばかり先に集落が揺れて見える
「おかしい・・・あれだけ周りから恐れられたミズホの攻撃が、毒を使っているとはいえこんな程度か?」
スサノヲがコマキに言った。
「倒した人数は予想に近いが、半数が女と子供。さっきの斜面の男達は年寄りが多い、若い奴らはどこに潜んでいるのでしょうか」
コマキは草原の起伏に凝らしていた目をスサノヲに向けた。
その時、数十本の矢が草原から放たれた。矢音に気付いたコマキがスサノヲを突き飛ばし、盾で防いだ。何本かの矢が戦士を貫いた。草原に向けて次々と矢が放たれ、同時に盾と槍を手にした戦士達が横一線に並んで踏み込んだ。
「溝が掘ってあるぞ、血痕もある」
矢を放ったと思われる場所まで進んだ戦士が声を上げた。
「草を刈り取りながら進め」
指揮を執る隊長が怒鳴っている。
腰の深さの溝が、草原を縦横に走っている。草を刈る者と矢を警戒する者が一対となって血痕を追い、溝を走る。突然、草むらから槍が突き出され、戦士の脇腹を貫いた。周りの戦士の槍が一斉にその草むらに刺し込まれた。草原は戦場と化した。多勢の戦士に追い詰められた者達が、串刺しにされ血の塊となって動きを止めた。
草がなぎ倒され血しぶきが飛び散った草原には、五十二の死体が転がっていた。いずれも若く、半数は女だった。
陽が傾き始めた頃、戦士達は二十個程の集落を取り囲んでいた。
「何が出てくるか分からんぞ、射程には入るな」
隊長が怒鳴っている。
「火をかけろ」
後方から声がかかり、遠射の火矢が放たれた。次々と小屋が炎に包まれ始めた時、真ん中の小屋から十人を超える全裸の女が現れた。
先頭の女が前へ出ると、取り囲む戦士を見回し、青光りする目で誰かを捜している。
「お前様達の長はどこです・・・この森を差配するのは私です」
女はじりじりと小屋と戦士達の中間まで進み出た。
「俺だ」
スサノヲが戦士の前に進み出た。
「お前さまですか・・・この森はずっと昔から、私達だけが暮らす場所です。私が森の神のお告げを聞き、皆に告げます・・・森の神は、誰も入れるな、入った者は生きて出すなと言われます。神のお告げ通りにするのが私の勤め・・・しかし今日、この森の男はお前様達に殺されました。殺された男達は、この森を守る力がなかったということです。これからこの森はお前様のもの・・・森を守る者にこの女子達を与えてください」
女は後ろに並ぶ女達を紹介する仕草を見せた。
「お前はどうするのだ」
スサノヲが尋ねた。
「森の神から、強い男の種を孕めと告げられています」
女の全身に媚びが漲った。
コマキがスサノヲにすり寄って囁いた。
「気を付けてください。小屋から矢で狙っているか、あの女が毒を仕込んだ何かを投げつけるかも知れません」
スサノヲは後方の戦士達に道を空けるようにと手を振った。
「火の前の熱い所ではなく、こちらの広い場所に来い」
スサノヲが手招きをしたが、女は動かない。
「何故その場所にこだわる、誰かが矢で狙っているのか」
スサノヲが畳みかけた。
その時小屋が崩れ始め、弓を手にした若い娘が飛び出した。娘の髪は炎に焦がされてちりちりになっており、着る物も焦げ落ちて、まっ赤に火傷を負った肌がむき出しとなっている。娘は渾身の力で弓を引き、矢を放った。しかしその矢はスサノヲの遙か手前に落ちた。戦士達の矢がその娘に向けて放たれた。その間、進み出た女は微動だにしない。
「やはり矢が狙っていたな。次は何が出るのかな」
スサノヲが声をかけた。
「森の神が、お前様を試したのです。やはりお前様は強い男、私を孕ませてください。そしてこの者達にも森を守る強い男の種を・・・そのあとは、お前様の思う通りにしてくださって結構です」
「孕ませるということは、子を産ませるということだ。これは命乞いか」
「森の神のお告げに従っているだけです。どうするかは、お前様の考え次第です」
スサノヲは、迷った。この女に試されていると思った。いやそうではない、森の神に試されているのだとも思った。ならば女を孕ませても良いとも思った。しかしコマキの囁き
が耳に残っている。近づいた女が、毒の刃を突き刺す姿を想像した。
同時に、森の神が試しているのであれば、それに挑戦してみたいとも思った。
「よかろう、森の神のお告げに従おう。望み通りにしてやるが、ここでではないぞ。今夜は、谷の北の山裾に野営を張る。そこでだ」
「それはなりません。私達はこの森を出ることはできません。森の神からそのように命じられています」
女の表情が曇った。
「それでは条件を出そう。その女達に、この辺りの水場の水を全て飲ませろ」
「ほほほほほ、毒を心配なさってますね。毒は森を汚すもので、森では使ってはならないものです。しかし森を危険にさらす相手には使います。矢や刃に塗ったのはそのためです。これまでこの森を守ってきた男達は、毒を使ってもお前様達に勝てませんでした。これからこの森を守るのは、お前様達とその子達です。ご心配なら毒味をさせます。それに解毒の方法もお教えします」
スサノヲは腹を決めた。この不思議な女に賭けてみる気になった。
この森で失った八十三人の部下の大半が毒によるものだった。彼らの死を無駄にしないためにも、毒の知識が豊富な女を身近な者としておきたかった。
盆地の入り口に野営が張られた。スサノヲは、その日の戦いの功労者達の所へ女達を行かせた。スサノヲも不思議な女と時を過ごした。ミズホとはその女の名前で、代々受け継がれているという。寝所へ引き入れた時、毒の刃が脳裏をかすめた。しかし、女の体をまさぐり始めた時には、その警戒心は消えていた。
翌朝、スサノヲはマタガへ向かった。重傷者五人と軽傷ではあるが長い歩行は困難な三人を、ミズホが看病してくれることになった。結局ミズホの森の戦いで一隊弱の戦士を失ったことになるが、スサノヲの直属隊を編入すればまだ二団を維持していた。