初めての遠征 一
クマノの山が薄緑色で覆われ始めた頃、執務の館にキビの長からの遣いがいた。
「本来ならわしらの長がこの地をお訪ねしなければなりませぬ。しかし高齢でありまして、山越えは無理です。誠に申し訳ございませぬが、スサノヲにキビまでお運び願いたいと申しております」
使いの者は身を低くして申し述べた。
「ツギルから色々と聞き、是非この目でキビの地を見たいと思っていた。それにキビの長から直接教えを請いたいとも思っていた」
スサノヲは快活に応じ、傍らのツギルとコマキに目を転じた。
「準備しろ、この者に同道する」
七日後、スサノヲはキビの長と膝を交えていた。
「西の大きな島からも鉄を・・・その地の生産量は多いのですか?」
スサノヲは身を乗り出した。
「わしらが手にするのはあの島の北の方からじゃが、ヨコタと似たような量じゃ。わしが知る限りでは、ヨシダとタリを合わせれば、お前様の地の方が多いと思う。お前様の所からは青銅も融通してくれるからありがたい」
長は、知らないことを素直に尋ねるスサノヲに好意を持った。
「南の島の向こうはずっと海?」
スサノヲの目は子供のように輝いていた。
「そうじゃ、ずっと海じゃ。この地から東に進めば、右が海で左は陸が続いておってな、五日行程(二百キロ)ほど行くと陸が右の方に三日行程(百二十キロ)ほどせり出しておる。その曲がる所の入り江の南奧に、手足の長い民がおる。あの地はトミ(奈良盆地)と言うが・・・お前様のところのムキと言うたかな、米を作るのに適した地、その地以上に米作りに向いておるようじゃ」
キビの長は、スサノヲと友好関係を結んでからの僅かな時間に、山の北側の詳細な情報を入手していた。ムキが、スサノヲから大量の鉄製道具の提供を受けて生産増加に励んでいることまでも知っていた。
「トミ・・・ムキよりも米作りに向いた地、いずれ行ってみたい。ところで、私はまだ木の川から東には行ったことがない。長は何かご存知ですか?」
スサノヲの好奇心は、留まるところがない。
「木の川?それは山の北の地・・・ムキの東を流れる暴れ川のことじゃな。ムキから一日行程(四十キロ)とちょっとの所にアオヤ(鳥取市青谷町)と呼ばれる地があってな、そこの民は木の道具作りをしておる。その道具類を広く交易しておるのが、そのアオヤから一日行程ばかり東南に棲むカハラ(鳥取市河原町)の民じゃ。わしもよく行き来した」
キビの長は、自身の旅を思い起こすように言った。
「するとカハラはここから北東の地、距離は・・・クマノに行く程度」
スサノヲは、行程を思い描くような眼差しで尋ねた。
「うん、山道を北東に進めば似たような距離じゃな。わしらは、海沿いに東へ進んで後に北上する。その方が、距離は長くなるが道中が楽じゃ」
キビの長は、スサノヲの方向感覚の鋭さと位置関係把握の正確さに驚いた。
スサノヲは、キビの長の情報と知識を、貪るように吸収した。
「スサノヲよ、この三日間、お前様は質問攻めじゃ。わしは問われることに答えたが、それでお前様が全てを知った訳ではないぞ。自らの目と体で確かめることが必要じゃ」
長は穏やかに言った。
「長の言う通り・・・実は、カハラとアオヤを訪ね、東からムキへ入ろうと考えています。カハラへは海沿いを通らず、直接山道を行ってみたい」
スサノヲは、強い意志のこもった眼差しを長に向けた。
「そうか・・・では山の道に詳しい者をつけよう」
スサノヲは、のんびりと物見遊山に時間を費やすには若過ぎる。翌日、初夏の陽の光が差し始めると同時に、微妙に音色の異なる十八の組音が鳴り始めた。間もなくひとつ、ふたつとその音は遠ざかり始め、やがて聞こえなくなった。初めてその音を耳にした時、キビの民の誰もが異様な感じを受けた。しかし、親しい時を過ごした後の今は、去らせたくない音色となっていた。
スサノヲは、地形を確認しながらゆっくりと歩を進めた。野営も、まだ陽が高い時から設営を開始させた。そこへ、周辺の森の民と思われる者達が、獲物を携えて訪れた。
「わしらはこのミマの森(現岡山県英田郡)一帯で猟をする者です。キビの衆が猟場を荒らして困っておりましたが、スサノヲの戦士が来るようになってからは止みました。」
年嵩の男が口上を述べた。
「ほう・・・そのようなことがあったのか。それはよかった」
スサノヲは、自身の存在がキビの狼藉分子を抑制したことを初めて知った。
「西の森の衆から、上納と戦士を出せばクニの仲間になれると聞きました。わしらの森も、お仲間に入れてもらえないでしょうか」
男は懇願の眼差しを向けた。
「大歓迎だ。詳しいことはツギルに説明させよう」
スサノヲはツギルを見た。
「我々は、北の尾根を越えてカハラに行く。この森の北にも棲む者はいるのか?」
ツギルが尋ねた。
「尾根の麓(現岡山県日本原高原)に、ナギの衆が隠れ棲んでおります。その先は、尾根を越えてチズの衆の森まで棲む者はおりません。カハラは、チズの森から流れ出る川が入り江に出る手前です」
男は淀みなく答えた。
「詳しいな。こまでキビの衆が案内をしてくれたが、この先を案内してもらえるか?」
スサノヲが身を乗り出した。
ミマの森に流れ込んでいた川を四半日行程(十キロ)ほど遡ると、勾配が徐々に強くなり始めた。
「この西の谷あいで、ナギの衆が大きな獣を飼い慣らして隠れ棲んでおります」
しばらく進んだところで、先導する男が足を止めて指差した。
「大きな獣?行ってみよう」
スサノヲが、好奇心を発揮した。
「狭い谷ですから・・・こんなに大勢は。それに組音に獣が驚きます」
男は困惑の表情を見せた。
「小人数で、靜かに行くならいいだろう」
スサノヲは、コマキを手招いた。
谷に入ると、強烈な匂いが鼻を突いた。獣の匂いであることは間違いないが、これまで嗅いだことのないものだった。やがて谷間の草地をゆったりと動く、数匹の茶色い獣の姿が見えた。熊よりも大きく、角を持っている。
「あれは何という獣だ?」
スサノヲは男に尋ねた。
「牛と言ってます」
スサノヲ達は、おそるおそる近づいた。牛達は、いきなり現れた人数に驚いたのか、体に似合わない素早さで身を翻し、じっと窺っている。
「何か用か?」
牛の向こうの茂みから野太い声がし、男が現れた。
「お前も聞いているだろう、こちらがスサノヲだ。牛を見たいと言われて、お連れした」
案内の男が進み出た。
「この獣は、牛というのか。随分大きいが、おとなしそうだな。これは・・・食うのか?」
スサノヲも進み出て尋ねた。
「お前様がスサノヲ・・・キビの乱暴者達が手も足も出せなかったという・・・」
牛飼いは、スサノヲをまじまじと見て続けた。
「これは図体は大きいが、おとなしい獣です。肉も食いますが、この躰ですから乳の量も多い・・・わしらは、乳を飲んでます」
「ほう・・・この獣・・・牛の、乳を飲むのか。うまいか?」
スサノヲは牛を見ながら尋ねた。
「飲んでみますか?小屋に行けば、ありますが・・・」
牛飼いが遠慮がちに言った。
「これは旨い・・・旨いぞ、コマキ」
スサノヲは大きな椀の乳を半分ほど飲むと、コマキに差し出した。
「こんな旨い物を毎日飲んでいるのか?肉も旨いだろうな?」
スサノヲは、小屋の近くの草原に寝そべる牛を見ながら言った。
「乳は、毎日子牛の余りを飲みますが、その日のうちに飲まないと腐ってしまいます。肉は猪や鹿よりも旨いと思います。肉も皮も大切な交易の品ですが、雪解けから次の雪解けまでに一頭しか産みませんし、大きくなるまでに死ぬのもいます。ですから殺せる数は僅かなものです」
牛飼いはぼそぼそと説明した。
「なるほどな・・・乳はその日に飲まなければ腐るのか。肉もいつも口にできる訳ではないな・・・」
珍しくスサノヲの声に未練な響きがあった。
「スサノヲ、わしらの一族は子供から年寄りまで全部集めても五十そこそこです。牛を飼うには人手がいります・・・今は、ここから人手は出せませんが、上納はできます。わしらもお仲間に入れてもらえませんか」
牛飼いは、スサノヲの声音に無頓着な表情で懇願した。
「喜んで受け入れよう・・・いずれ余裕ができたら、人手も出して欲しい。しかし・・・こんな人里離れた谷間で牛を飼っているだけなのに、俺達の力が必要なのか?」
スサノヲはコマキを振り返った。
「わしらはこの谷の草地で、一族がバラバラに暮らしております。それぞれに家族が増えて牛も増えた頃になると、どこかで牛を奪われ、皆殺しに遭っています」
牛飼いの眼差しには恐怖が潜んでいた。
「野辺で食料が不足した時に、食う物があるここを襲うのでしょう」
コマキがスサノヲに耳打ちし、牛飼いに言った。
「今からここはスサノヲの仲間だ。もう誰も襲う者はいないから、家族と牛を増やすことだけを考えろ。スサノヲは牛の肉を食いたがっているようだから、今度殺したら食わせてやってくれ」
コマキはスサノヲに笑みを含んだ眼差しを向けた。