キビ 一
その年初めての雪が舞い降り始めた日、ヨコタの長がクマノの山を訪れた。
「スサノヲよ、わしの裁量ではどうにもならぬ。お前様が話をつけてくれ」
ヨコタでは数年前から、山を越えた遙か南の地の民へ密かに鉄を供給していた。彼らは自分達の住む地をキビ(岡山県吉備町)と称していた。キビには鉄の生産場はないが、加工を得意としていた。長年、材料となる鉄はオロチ衆が提供していたが、その量はキビにとって充分ではなかった。そこでキビは、オロチ衆の目が届きにくいヨコタに直接取引を持ちかけた。鉄に対するオロチ衆の管理は厳しかったが、目を掠めることが不可能なほどではなく、春と秋にはキビから人が来るようになっていた。
オロチ衆の消滅後、ヨコタはキビへの供給量を大幅に増やした。当初キビは、勇猛なオロチ衆を倒したスサノヲの出方を警戒していた。だが一年を過ぎても干渉してこないスサノヲを、次第に見くびるようになっていた。
ヨコタの山を南に越え、川に沿って四日ばかり下ると、穏やかな海を囲む大きな湾に出る。その入り組んだ海岸の高台には点々と多数の集落があり、山裾からその湾一帯がキビと呼ばれている。山裾に棲む民は、狩猟と採取そして鉄の加工を得意としており、海沿いに棲む民は、漁労と船による交易を得意としている。双方の民とも祖は同じで、西方の海の遙か彼方から移り住んだと伝えられている。彼らは陽気で開放的であると同時に、攻撃的で凶暴な性格を帯びていた。その性格からか行動範囲は広く、対岸の大きな島は言うまでもなく西方の巨大な島、東方の湿地帯の奧に果てしなく広がる森林地帯、北方の山を越えた海岸地帯にまで及んでいる。
未知の民との交易は、危険と隣り合わせである。開放的で好奇心の強い民なら容易に接触できる。しかし、閉鎖的で猜疑心の強い民は、領域に入ることすらできない場合がある。キビの民は、相手のことなどお構いなく侵入した。友好的に対応する相手とは、初対面でも長年の友人の如く振る舞い、敵対姿勢を見せる民には凶暴に襲いかかった。剛柔の使い分けはキビの民の天賦の才能であったが、オロチ衆に対してだけは「従」の姿勢で臨まなければならなかった。
そのキビの地にオロチ衆全滅の知らせが届いたのは、翌年の春であった。一帯の主だった者達が集まり対応が協議されたが、二つの意見に分かれた。一方は、混乱に乗じてヨコタの山を手中に収めようとする積極派。他方はオロチ衆を打ち破った力を侮るべきではないとする慎重派であった。協議は三日に及んだが双方合い譲らず、長の決断に委ねることとなった。
「どちらの言い分も尤もじゃ・・・今わしらに分かっておることは、まずオロチ衆が全滅したことじゃ。それに・・・スサノヲという全滅させた者がおり、ヨコタはそのスサノヲと手を組んでおるということじゃ。これに異論はあるか」
キビの長は腕組みをしながら目を閉じて言い、返事を待つようにこころなし顎をあげて耳をすませた。
「誰からも声がないな・・・異論はないということじゃ。では次にわしらに分かっておらぬことじゃ・・・スサノヲのことを知っておる者がおるか」
長は、相変わらず目を閉じたまま返事を待った。
「誰もおらぬようじゃな」
長は、目を開き腕組みを解くと大きく身震いをし、断を下した。
「ヨコタに鉄の出荷を増やすよう要求する。今まで以上に出せぬとの返事ならば、スサノヲがオロチと同じようなことを求めて来ると考えられる。だが増量に応じるなら、スサノヲが容認しておるのか、それともスサノヲはヨコタが気にするほどの相手ではないとも考えられる。返事がどちらであれ、これからは満月ごとにヨコタに行き、様子を探れ。スサノヲの情報を集めるのじゃ」
「ヨコタの山に、満月ごとに南の男達が来て鉄を持ち帰ると聞いていた。オロチ衆が運んでいた相手であろうと思っていたが、それがキビの衆か。連中との交易がヨコタを豊かにするのであれば、口を出すこともないと考えていた・・・長の手に余ることとは?」
スサノヲは、ヨコタの長を正視し、返事を待った。
「来るたびに増量を要求する・・・増量すればこちらにも色々と珍しい物が手に入る故、できる範囲で応じていた。ところが昨日、雪が降る前の最後の荷出しだったが、雪解けから交換比率を変えろと要求した」
長は大きく息を吐き出し、スサノヲの表情を窺いながら続けた。
「それに・・・何かとお前様達のことを知りたがる。どこにいて、どのような展開をしているのか。人数はどの位か。どのような武器を持っているのか。普段は何をしているのか・・・わしは適当な受け答えをしているが、山の者達にも聞き回っている」
言い終わると、途方にくれた表情でスサノヲの目を覗き込んだ。
「話は分かったが、長はどうしたいのだ。交換比率が同じなら、これまで通り直接交易を望むのか?」
スサノヲはいつも通りの声音で尋ねた。
「いや、わしらは鉄作りに精を出すだけでいい。わしらの取り分が減っても構わぬから、交易はお前様達が引き受けて欲しい・・・この頃は、あ奴らが来ると山の空気がおかしくなる」
おさ長の目は哀願の光を帯びている。
「分かった、では雪解けからの交易は我々が引き受けよう。長は鉄の増量に知恵を絞って欲しい。それと・・・キビの者に限らず、見知らぬ者達がヨコタの山に入れぬよう、要所に物見砦を築く。これまでは密かに物見を配置していたが、目立つことも必要なようだな」
スサノヲは同席するツギル、コマキ、アスキに目を転じた。
ヨコタの長は、晴々とした表情で小雪が舞うクマノ砦を後にした。
「物見砦はすぐに取りかかれます・・・キビとはどう交渉します?」
ツギルが口を開いた。
「キビは、俺達を試しているのだろう。俺達が乗り出さなければ、ヨコタの山を押さえる気だな。オロチ衆が鉄を運んでいたのは、キビにこちらの様子を知られたくなかったことと、直接交易をさせたくなかったからだろう。キビの民が出張ってくるのは、その地では鉄が作れないからだ。つまり南には鉄を作れる山はないということだ。」
スサノヲは確認するように三人を見回した。
「キビの武器と戦闘能力だが、武器はオロチ衆と同じ程度だ。ヨコタに来る連中は戦士ではないが、戦慣れをしている様子だった。俺がこの目で確かめた」
コマキが補足した。
「俺達は戦う訓練をしている戦士の集まりだ。オロチ衆程度の戦闘能力なら、相手が五倍でも勝てる。キビにオロチ衆以上の戦力はないはずだ。オロチ衆のことだから、実体以上の戦力を装っていただろうが・・・どんなに大きなことを言っても五千人くらいまでだろう。そうであれば、キビの戦力はそれ以下だ」
スサノヲは再び三人を見回した。
「そんな所でしょう。雪解けまでに策を練らねば・・・それにはキビの情報が必要だな」
ツギルが呟いた。
「知り合いが何度かキビに鉄を運んでいた。そいつに聞いた話だが、山を越えると川は南に下っている。その川に沿って二日ばかり南の山麓に集落があり、そこが鉄の引き渡し場所になっていたそうだ。そこから半日行程(二十キロ)ほど下った辺りに、大きな入り江が見えたそうだ。山麓の集落からその入り江一帯をキビと呼ぶらしい・・・雪が降り始めたが、昨日キビの連中が帰ったのであれば、俺達にも山越えはできるだろう。俺が潜り込んで調べてこよう」
コマキがすぐにでも旅立つ素振りを見せた。
「山奥の雪は、一夜で身の丈も積もると聞いている。大事の前に危険を冒す事はない」
スサノヲがコマキを制した。
「大事の前だからこそ、危険を冒してでも調べる必要があるのではないですか?」
コマキは静かに反論した。
「戦いで死ぬのは仕方ないが、雪山でコマキを死なせる訳にはいかない」
スサノヲも静かに応じ、一息おいて続けた。
「戦いは最後の手段で、まず交渉だ。山越えが可能になればすぐに出かけよう。山を越えて一日行程も進めば、向こうの物見が気付くはずだ。こちらは山麓の集落の手前で待つ姿勢を見せる・・・他に案があるか?」
スサノヲはツギルを見た。
「俺とコマキの二団(六隊・六百二十人)で行こう。集落の手前まで進むのは一隊と俺だけとする。その後方の射程距離内に残る二隊を配置する。コマキの一団(三隊)は、半日行後方で支援態勢をとる」
言うとツギルは、三人の顔を交互に見た。
「俺の団は?」
アスキが不満げな声を出した。
「お前の団は、戦士一人につき出身集落から五人を集めてくれ。その連中を、山越えした辺りに展開させて、焚き火をする」
ツギルは悪戯っぽい目でアスキを見た。
「なるほど・・・相変わらずツギルの考えは面白いな。六百の戦士を見せておき、後方の煙の数でキビの衆に脅しをかけるわけだな」
スサノヲは白い歯を見せ、コマキを見た。
「先導はコマキの団だ。気配察知の鋭さでコマキにかなう者はいないからな・・・どうだコマキ、いま出かけることはないだろう」