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異世界生活三年目  作者: 千幸
その後の話
8/10

約束の行方・後

 胸中を吐き出しきって俯く頭に、徐に手が置かれた。フィーナのものよりずっと大きい、ノクトのそれ。

 頭を撫でられているーーそう気づくと同時に、頭上から大きなため息が聞こえた。


「あなたって人は……」


「せ、先生?」


「ああもういいから、少し黙りなさい。顔も上げないこと」


 師の言葉に疑問符を浮かべながらも下げた頭をそのままに、頭部を撫でられ続けるフィーナの耳に吹き出すような笑い声が届いた。

 ぶわっはっはっは、と豪快に笑ったその声は一頻り笑い終えると、わりぃわりぃとやけに軽い謝罪をして告げた。


「気にすんな、嬢ちゃん。その男はな、とんでもなく照れてんだよ。嬉しくてしまりのなくなった面を見られんのが嫌なんだと」


「な」


 え、とフィーナが瞬くのと同時に、ノクトの焦ったような声が聞こえた。余計なことを言わないでください! と慌てて続ける師の声は、あまり聞いたことがないものだ。


 ーーど、どうしよう。顔を上げてもいいのかな。


「まあ、あれだ。いろいろと誤解があるようだから、納得いくまで話せばいい。邪魔者は退散するからよ」


「閣下」


「ま、うまくやれや。小僧」


 フィーナが頭を悩ませている間にも頭上ではどんどん話が進んでしまっていて、いつの間にか低い声の主は発言の余韻だけを残して部屋を出て行ってしまった。がちゃりと、扉が開いて閉まった音がその証拠だ。

 再び、沈黙が満ちる。非常に気まずい空気にフィーナが冷や汗をかいていると、ふと、頭に乗せられていた手のひらの感触がなくなった。次いでもたらされた、頭を上げてくださいというノクトの声。

 おそるおそる顔を上げる。久しぶりに見た師は、少しだけ痩せたように見えた。


 フィーナの記憶の中のノクトはいつも穏やかに笑っていることが多かった。だから、フィーナはこんな師を見たことがない。こんな、気まずそうに、難しい顔でわざとらしく視線を逸らす師の姿を。


 ものすごく珍しいものを見た気分でノクトをまじまじと見つめるも、なかなか視線が交わらない。こんなことは初めてで、だからこそ新鮮だった。


「先生?」


「……あまり、そう、じっくりと見ないでもらえますか」


「は?」


「己を律するのが大変なので」


 はあ。

 ぼんやりとそう返すフィーナにノクトが再びため息を吐く。なんだか、呆れられてしまったらしい。


 いつまでも立っているわけにもいかないと、とりあえず椅子に座って話すことにする。ノクトが入れたトト茶がやわらかな湯気を立てる室内には、またしばらく沈黙が満ちていた。それを破ったのは、ノクトだ。


「私は、あなたを無理矢理に帰そうなんて気はありませんよ」


「え?」


「あなたがここに残りたいと言うのなら、それで良い。けれど私は、それでも、あなたの帰る道を閉ざしたくはないのです」


 ノクトは続ける。


「あなたは私に、自分の幸せを決めるなと言った。それでも私は、あなたに幸せになってもらいたい」


 フィーナはこちらの世界を望んだ。ノクトのそばにあることを願った。しかし、ノクトにはそれがフィーナの幸せに本当に繋がるのか、どうしても解らなかった。

 あちらには家族がいる。友人がいる。思い出がある。十五年をかけて積み重なったそれらすべてを捨ててまで得るべきフィーナの幸せがこちらにあるとは、どうしても思えない。


 幸せとはなんだろう。形が見えないからこそ、ひどく難しいもののように感じた。


「選択肢だけは、多く用意しておきたいと思ったのです。月日が経って、いつあなたが故郷を選ぶときが来ても良いように。だから時空間魔術の研究を続けている」


「せ、先生っ」


 眉を寄せて首を振るフィーナに師が苦笑する。そんなことはないと否定の言葉を口にするより先にノクトが口を開いた。


「解っています。だから、これは私の自己満足に過ぎない。……そして私自身、そんな日が永遠に来なければいいと心の底で思っている」


 どうしようもない男です。そう言ってノクトは苦い息を吐いた。フィーナは師の言葉の意味を考えて、考えて、やがて導き出した答えが非常に自分に都合の良いものだったので、まさかと思って師を見上げた。その頬が心なしか、少し赤い。


「……あまり、見ないでもらえますか」


 ごほん、というわざとらしい咳払いはノクトのものだ。照れている、という先ほど出て行った男性の言葉がフィーナの脳裏によみがえる。

 ノクトの顔をまじまじと見ようとフィーナが身を乗り出す。それに気づいたノクトが不機嫌そうに顔を逸らした。


「ああもう、本当に……この子は」


「先生?」


「ああいいです何でもありません。だから、そんなにまじまじと見ないでください」


 どこか投げやりな物言いすら珍しい。フィーナは当初の目的すら忘れて夢中で師を観察した。ものすごく嫌そうな顔をされたが。


□□□


 その後、先ほど出て行ったのがニルバ総督閣下だったのだと聞いて、フィーナは目を丸くした。見苦しい姿を見られた上に挨拶すら出来なかったと顔を青くしたが、間違いなく気にしていないと思うのであなたも気にしないようにとノクトに言われてしまった。確かに、予想外に豪快な人物だったと、声しか覚えていない彼の人を思い出す。まあ、ノクトがそう言うのだから大丈夫なのだろう。


「は? 侍女を辞めさせる? 何の話ですか」


 ここに来た理由を話したときのノクトの反応がこれだ。同僚が上司の話を立ち聞きしたらしい旨を話すとノクトはしばらく思案顔で目を伏せて、やがてああ、とちいさく呟いた。


「先生?」


「辞職、ではなく異動の話では」


「は? 異動?」


 ノクトは言った。確かに侍女長にフィーナの人事について提案をしたのは師自身らしい。それも、異動というかたちで。

 どういうことかとフィーナが首を傾げる。


「まあ、異動というか、栄転というか。私はまだ打診したに過ぎませんが」


「はい?」


「……言ったでしょう。選択肢だけは多く用意しておきたいと。あなたの今の仕事は、朝から晩まで忙しなく働いていて、とても今後のことを考える余裕もないでしょう。私はね、あなたにじっくりと考えて欲しいのです。ここに残ると決めたのならば、尚更」


 未来(これから)のことを。そうノクトは続けた。

 小間使い侍女、とも呼ばれるフィーナの立場は宮廷侍女としては最下層に位置し、確かにフィーナも大変慌ただしくも忙しい日々を送っている。それでも最近はだいぶ慣れたと思ってはいるが毎日仕事が終われば疲れて眠ってしまうし、確かにノクトの言うとおりあまり思慮に耽る時間は取れないかもしれない。


(これからのこと……)


 ノクトに言われて、ふと気づく。そういえば、この世界での未来のことなどまともに考えたことすら無かった。そんな未来を想像することすら出来なかったのだから。

 いつか帰るのだから、という考えがいつもどこかにあった。しかし、今後はそうは言っていられないのだ。フィーナは、この世界での未来を選んだのだから。


「フィーナ。私はあなたに、いろいろなことを見聞きして、視野を広げて、様々な経験をしてもらいたい。その中で、あなたの幸せを選び取ってもらいたい」


「先生」


「あなたは私のそばにいたいという。それを真に受けて受け入れるのはとても簡単で、ひどく魅力的なことだけれど、それはあなたの選択肢や可能性をつみ取ってしまうことです。そんなことは、絶対に許されない」


 ノクトはフィーナの幸せを願う。それはノクトの根幹に常にあって、微塵も揺らぐことはない。今までは彼女の故郷にこそ存在すると信じて疑わなかったそれは、フィーナ自身によって覆されてしまった。

 だからノクトには解らない。この世界でのフィーナの幸せがなんなのか。だからこそ、フィーナ自身に選び取ってもらいたい。


「あなたの可能性は、きっとたくさんあります。それこそ、無限に。新しい発見や出会いが訪れることもあるでしょう」


 おそらく、フィーナの世界は大きく広がる。素直に物事を吸収し、努力を忘れず、人の言葉に耳を傾けることの出来る彼女ならば。

 新たな世界で訪れた出会いの中に、彼女の未来を変える人間がいるかもしれない。その出会いを妨げる権利は誰にもない。もちろん、ノクトにも。


「その目で見て、知って、その上でまだ私を選んでくれるというのなら……その時は」


 師が目を伏せる。一つ息を吐いて、緊張した面持ちで、二度三度口を開閉した後、ようやくぽつりと呟いた。


「その時は、どうか私にあなたに触れる権利を。あなたの隣で共に並び立つことを、許してもらいたい」





□□□


「栄転、ねえ……」


 魔術部門総督、ダグラス=ニルバはふん、と低く鼻を鳴らした。半眼の視線の先、机上でかりかりと書類に筆を走らせている男はダグラスのもの言いたげな目線をものともせず先ほどから同じ作業を続けている。作業効率が落ちた様子もなく、胡乱げな視線など完全無視の姿勢を崩さない男の態度はダグラスにとっては非常につまらないものであった。

 仕方なくダグラスは手中にある紙を弄ぶ。そこには、つい先ほど正式に決まった人事異動の内容が記されていた。

 なんのことはない。一人の侍女の異動の通知だ。内容からいって昇進と言うべきか。


「魔術研究部門長官付きに任命……ってめちゃくちゃ私情じゃねえかコラ」


「人聞きの悪いことを言わないでください。小間使い侍女でいるより、長官付きになった方が自由もあるし、行動も制限されない。給金も上がる。なにが私情ですか」


 いや私情だろ完全に。

 ダグラスは本気でそう思ったが賢明にも口には出さなかった。ノクトはこの件に関しては容赦がない。

 だいたい、視野を広げさせるだの何だの、それらしい理由を述べてこの中途半端な時期の人事異動を提案していたが、異動先が自分付きとか、これを私情と言わずしてなんと呼ぶのか。確かに長官付き侍女は自由が利くかもしれないが、それにしたってやり方があざとすぎる。

 思えば、この男(ノクト)の彼女に対する入れ込みようはダグラスにとっても目を見張るものがあった。先日、ノクトの謹慎中に屋敷を訪れた際、弟子からの差し入れだという食べ物をこっそり盗み食いしたときは轟く瀑布のごとく盛大に怒られた。普段冷静な人間ほどキレると恐いというのは本当なのだ。聞けば、弟子からの差し入れを作ったのは異世界から来た少女なのだという。そこで初めてダグラスは自分が手をつけてはならないものに手を出したのだと知った。それほどの入れ込みなのだ。信じられないことに。そのくせ彼女が故郷に帰る道を繋いでおくために時空間魔術なんて物騒な研究を続けようとしているのだから意味が分からない。

 ダグラスは以前、彼女が帰ることを望んだら本当に帰してやることが出来るのかと聞いたことがあるが、ノクトは当然のように肯定した。それが約束だからと。これだけ入れ込んでいるくせに。


「とっくに離すつもりなんざねえくせに回りくどいことしやがって。囲い込む気満々じゃねえか」


「だから、人聞きの悪いことを言わないでください」


 先ほどよりも強めに言われ、ダグラスはふんと鼻を鳴らした。


「私の言葉に嘘はありません。あの子が帰りたいと望むなら、どんな手を使っても道を開きます。他の誰かを選ぶというなら、笑って送り出して見せましょう」


 でも、とノクトは続ける。


「その選択を彼女が選ぶに至る過程を、黙って見ているつもりもありませんが」


 その時のノクトの笑みは、かつて彼が「葬送の微笑」と呼ばれていたときに見せたそれと同じものであったと魔術部門総督ダグラス=ニルバは語る。



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