約束の行方・中
青天の霹靂だった。たっぷり十秒以上、何も言えなくなったほどに。
「辞めるって、誰が」
「あんたが」
「な、にを」
「だから、侍女を……って、あんた、そんな顔するってことは」
「し、しりません、知りません!」
シュイのもたらした報せは、フィーナを大いに混乱させた。その狼狽ぶりは慌てていたシュイを逆に冷静にさせたほどで、彼女が事の詳細を説明している間、フィーナはただ呆然と立ち尽くしていた。
侍女長の話を立ち聞きした同僚がいるらしいーーシュイはそう告げた。
「なんでも、人員の補充についての話をしていたらしいんだけど。その子が言うにはフィーナが抜けた穴をどうのこうのって話してたそうなの。こんな中途半端な時期に居なくなられるのは云々って愚痴も」
「……」
フィーナは絶句した。頭の中は真っ白で、思考能力が海の向こうまで飛んでいってしまったように考えがまとまらない。人間は本気で混乱すると声が出なくなるんだな、と、そんなことを考えてしまうくらいにはフィーナの思考は破綻していた。
顔色をなくしたフィーナを気遣うように、シュイは続ける。
「所詮又聞きだから、侍女長にきちんと確認しなきゃ何も分からないんだけど」
侍女が辞める理由の一つとしてよく挙げられるのは結婚だ。宮廷侍女は未婚の女性が花嫁修業のためにすることも多いので、辞める理由の筆頭に当たる。それでも、特別な理由がない限りはきちんと任期を全うし、引継を終えてから辞める者が大半なので、任期途中に急に辞めてしまうのは稀だ。
「だから私はてっきり……子どもでも出来ちゃって、つわりがひどいのかと」
「なっ」
生真面目にそう話すシュイに、フィーナはそんなわけないでしょうが! と顔を真っ赤にして叫んだ。ひどい誤解だ。フィーナには子どももいなければ恋人もいないし、そんな予定もない。結婚と言われて一瞬ノクトの顔が脳裏を過ぎったのは否定しないが、それこそあり得ない。フィーナとノクトはそんな関係では決して無いし、いつかそうなれればいいというフィーナの願望でしかないのだ。
首をぶんぶん振って否定するフィーナに、シュイはそうだよねえ、と小さく呟く。
「結婚じゃなきゃ、実家に何かあって故郷に帰らなきゃいけないとか……でも、当事者のフィーナがしらないってことはやっぱ聞き違いなのかなあ……」
ーー故郷に。
うんうん唸るシュイをよそに、フィーナの頭に浮かんだのは、晴れ晴れした顔で笑ったノクトの姿だ。あのとき、今まで見たこともないような笑顔で、彼は言った。家に帰れると。
まさか。
瞠目する。動きが鈍かった頭に一気に酸素が巡ったように、思考が急激に回り始める。フィーナのこの世界での保護者兼身元保証人は他でもないノクトだ。異世界人で、おまけに未成年でもあったフィーナのこちらの世界での生活も、仕事も、すべてノクトの名前が保証してくれている。
もちろん、侍女の仕事を始める上でも、それは変わらなかった。保護者の許可がなければ仕事は出来ないし、保護者の一存で仕事を続けられなくなることだってあるのだ。
侍女という立ち位置はフィーナにとっては誇りだ。宙ぶらりんで、どこにも属すことが出来なかったフィーナが、初めて足をつけて立った場所。ノクトの庇護下という、優しくて狭い、どこか不安定な立ち位置から離れて初めて降りたった場所なのだ。
仕事を持つ、役割を持つということがこんなにも大切なことだったのだと知ったのは侍女として働き出してからだ。初めは師から距離をとるために始めたことのはずなのに。そしてそれは、ノクトも解っていたはずだ。
ノクトの望みはフィーナを日本に帰すことだ。それが二人の「約束」であり、今までのフィーナの「希望」であり、三年を時空間魔術研究に捧げたノクトの「意地」であったはずだ。
これは、ノクトの遠回しの返事なのではないか。仕事も、この世界での安定した立ち位置も捨てて日本に帰れ、というーーノクトなりの、拒否。
師がそんな乱暴なやり方をするはずがないと頭のどこかで誰かが叫んでいるような気がするが、いま、フィーナの思考の大半を占めているのはーー明確な怒りだった。
「ふっ……ざ、けんな」
日本語のそれはフィーナ以外には理解できないはずなのに、怒りに震える様子に伝わるものがあったのか、シュイが微かに息を飲んだ。
フィーナの選択も覚悟も既に決まっている。この世界に残る選択をし、故郷と別れる覚悟をし、そして、ノクトに受け入れてもらえない覚悟すらーー。もちろん諦めるつもりもないが、きちんと振られる覚悟も出来ていた。その上で、何度でも挑戦するつもりでいたのだ。それなのに、こんなーー。
こんなことは、認められない。
□□□
「長官」以上の位になると城下に私邸が与えられる。ノクトも例に漏れず、町の一画に家を持っていた。人を雇うほど大きくもないからと侍女も入れず、特殊な魔術が掛けられているため最低限の掃除も防犯対策も抜かりなしのその家に、一年前まではフィーナも共に住んでいた。
帰るのは、実に一年ぶりだ。
「……」
息が上がる。全力で走ったのなんていつぶりだろう、とぼんやり考える。
感情のままにここまで来てしまった。後でシュイに謝らなくてはーー単純な肉体疲労で幾分冷静になった頭に、心配そうに眉を下げる同僚の顔が浮かんだ。
見慣れた扉。一年前までは何度も出入りした、今ではすっかり懐かしいそれ。
恐る恐る手を伸ばす。師の魔力に守られたその扉は、闖入者を悉く拒む。ノクトが認めた人間以外、その扉を開くことは出来ないのだ。
一年前には難なく開いたその扉。今のフィーナに、まだその権利はあるのだろうか。
ーー果たして、扉は開かれた。
懐かしいにおいがした。
ハーブのような清々しいかおりに混ざってわずかにかおる薬品のにおい。しかし全く不快ではない、ノクトのにおい。フィーナにとっては一年ぶりの、懐かしいにおいだった。
部屋の間取りは記憶通りだ。たった一年しか離れていない、住んでいたのも二年だけのその家はしかし、フィーナに明らかな郷愁を感じさせた。一歩足を踏み出すごとにあちらこちらに散りばめられた思い出が淡くよみがえって、胸が痛いくらいだ。
「……先生?」
居間にノクトの姿はない。ということは、奥にある私室の方か。
そろそろと足を進める。あれだけ意気込んで来たというのに、少し時間を置いてふと我に返ってみれば、非常に大胆なことをしようとしているのかもしれないという事実に戸惑いを感じた。師とはいえ、男性の一人暮らしの部屋に、妙齢の娘がアポもなしに飛び込もうとしているのだ。それも私室の方に。これは、やはり、あまりよろしくない状況なのではないか。
ふつふつと湧き出る不安にフィーナは慌てて首を振った。何にせよ、今更後には引けない。
ふと、廊下の向こうから話し声が聞こえてフィーナの肩が跳ねた。目線の先、師の私室の扉がわずかに開いていた。
(先生、と……他にも、誰か……)
足音を立てないよう慎重に歩を進める。耳に届く聞き慣れた師の声色に重なって、それよりも低い、男性のそれ。
ーー来客中だろうか? やはり、出直した方がいいのではないか。
「ーーんなこといわれたって、なあ」
「何を言われようと、やめる気はありません」
呆れたような低い声に続いたのは、ノクトのものだ。いつもより硬質で、有無をいわせぬ強さを秘めたそれ。
「あの子の道を閉ざすつもりはない。いつでも帰り道は用意できるようにしておきたい」
帰り道。フィーナは息を飲んだ。
「よく言うぜ。じゃあおまえ、ーーら、ーーのか?」
低い声はうまく聞き取れない。せめて師の声だけは聞き漏らすまいとフィーナは必死に扉に耳を近づけた。
「帰します。必ず。それが、私とあの子の約束ですから」
一瞬、息が止まった。
殆ど反射的に身を乗り出して扉に手を掛ける。勢いよく開いたせいで壁にぶつかった扉が場にそぐわない大きな音を立てた。
二人分の視線が一気にフィーナに集う。しかしそんなことはお構いなしに掛けだした。真っ直ぐに。師に向かって。
ーー先生!! 叫びと共に伸ばした両腕は、ノクトの服を掴んだ。けっこうな勢いで飛びついたはずなのに師の身体は一瞬後方に傾いだだけでその場に止まり、いくら細身でもやはり男の人なのだと、場違いなことを考えてしまった。
「……フィーナ」
困惑したような声だった。しかしそれ以上は言わせまいとフィーナが言葉を被せる。
「嫌です」
両手に力を込める。師の表情を見るのが怖くて俯けた顔は上げられない。振り絞るような声でも、沈黙が満ちた空間にはよく響いた。
「嫌です、嫌。わたし、言いました。帰りたくないって」
ーー私が、あなたを家に帰します。
二人が交わした約束で、異世界に飛ばされた当初からずっとフィーナを支えてくれた魔法の言葉だ。辛いときも泣きたいときも、帰りたくて帰りたくてどうしようもなくなったときも、それは確かにフィーナの胸の中にあって、崩れそうな両足を支えてくれた。もう駄目だ、もう嫌だと思っても、もう少し、あと少しだけ、そう思える力をくれた希望の言葉。
しかし、三年を掛けて大きく色を変えてしまったフィーナの心には、それはもう枷にしかならない。
ノクトは約束を守る。ノクトは言った。フィーナに。幸せになってもらいたいと。
「ごめんなさい、先生。約束、守れなくて。ごめんなさい。でもーー」
フィーナが顔を上げた。
「いまのわたしの幸せを、先生が決めないで……!」
先生のそばにいたいーーそれが今のフィーナの答えで、三年の月日を経て彼女が出した選択と覚悟だ。だからこそ、大陸屈指の魔術師の力をもってしても、道は開かれなかった。
たとえノクトに拒まれようと、諦めないと決めた。心が完全に真っ二つに折れるまで頑張ってみようと。
「い、いいんです。はっきり言っていいんです。内緒で侍女の仕事辞めさせて諦めさせようとか、そんな遠回しなやり方しないではっきり、め、迷惑だって言っていいんです! こんな風にこそこそ帰すとか帰さないとか言われるより、ずっといいです。迷惑だと思われても、あっ諦められない、かもしれないけどでも、せっ先生の、邪魔にならないようにしますから。だ、だから」
そばにいさせてくださいーー。そう告げる頃には涙を堪えることが出来なくなっていた。
泣くなんてずるいことだ。師は優しい人だから、きっと胸を痛めるだろう。そして、あわよくばその優しさにつけ込めるかもしれないーーそんなことを頭の片隅で思っている自分が何よりもずるくて、不快で、みじめだ。
けれど、そばにいたいのだ。どうしたって、離れがたいのだ。